
あなた方の父なる神は、
求めない先から、
あなたがたに必要なものはご存じなのである。
「マタイによる福音書 第6章 8節」
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全宇宙をつくった神さまは「全知全能の父なる神さま」だ。
主イエス・キリストが特に強く説き聞かせる「全知全能の父なる神さま」は創造主だ。
そしてクリスチャンのわたしは創造主と主イエス・キリストが同一の神さまとして信じる信仰を持っている。
人間は誰でも神さまとお祈りしたくなる時がある。苦しい時の神頼みであっても、とにかく神さまにお祈りせずにいられない時がある。わたしも病気で幻聴に苦しめられた時に神さまに祈ることで何とか自分を保つことが出来た。もっともそう書くと、それは自分が自分に語りかけることによって自身のアイデンティティーを保ったのだという人もいる。でもそれは幻聴を体験したことのない人の言い分にすぎない。何も分かっていない。幻聴に襲われると自分の語りかけが自分を打ちのめすことがある。自分にしっかりしなさいと語りかけ発破をかけても逆効果になるだけなのだ。かえって妙な所に連れて行かれる。これは体験しなければ分からないことだし、体験しない方がいいと思うが。
自分の力が無力だと悟った時自然と祈りの言葉が口をついて出る。そういうものだ。
祈りたくなったら祈りの場所を探すことがある。それは神社だったり仏閣だったりする。わたしは教会に行く。(もちろん祈りはどこでも、いつでも出来るのだが)。教会のことを主イエス・キリストの「体」という。主イエス・キリストの「祈りの家」である。
祈る時に大切なのは心構えだと思う。まずは感謝をすることだ。主イエス・キリストの愛に支えて頂いていることを感謝したい。もちろんそんな余裕のないこともある。その時は率直にとにかくお願いしてみるしかない。
ご利益と言われるようなことはない場合も多い。でも祈る人を安心させる。繰り返しになるが、気の持ちようとか気休めではない。そう言う人もいるし、そういう人はそれでいいのだと思うが、体験に根ざしたものを科学的と称して否定批判することにわたしは賛成できない。もちろん科学を否定しているのではないけれど。
祈りはわたしに元気を与える。心も体も軽くなる。主イエス・キリストがわたしに必要な元気を与えてくださっているのだ。
もう一度言うが、気休めや気の持ちようなどとは異質のものだ。精神疾患にかかっているものが言っているのだ。気休めではこの病気に打ち勝つことは出来ない。にわか知識の心理学を持ち出して否定されても意味がない。心理学を否定してはいない。わたしも少しは学んだつもりだ。でもそんな知識は病気を癒すことに何の役にも立たなかった。精神医学や精神科医の知識もわたしを癒すことはできなかった。一助にはなったが癒しを与えることはない。医師のやることは薬を調合すること以外には何もない。
主イエス・キリストがわたしを日々癒してくださるのだ。主イエス・キリストへの祈りは、わたしの魂の呼吸である。
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↓:呼吸。

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