わたしの身体やほかの人たちの身体の細胞とかの
中で生ずるある種のプロセスをわたしの中で幸福への
志向の意識と不可分に結びつけている『生命』という
言葉でよんでいるのだ。
(「人生論」トルストイ著 原卓也訳 新潮文庫 )
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「神のいのち」「主のいのち」すなわちここでトルストイが言っている『生命』とは、意識的にも無意識的にも、主の主王の王主イエス・キリストの愛で愛し合おうとする「生命活動」を指すものだ。互いに少しでも「主と似た者となるために」「主と似た者としていただくために」。
この『愛』をいただくためにフツーのクリスチャンのわたしは主に祈る。
この祈りはわたしにとって「切実」である。
というのはわたしの内には『主の愛』が主に祈らなくてはほとんど無であるからだ。わたしはフツーのクリスチャンとしてこの「大切な自覚」が主より与えられていることを感謝している。わたしの祈りはここから始まったからである。
主に真剣に祈れば祈るほどわたしは「主より与えられたわたしのいのち」が生き生きとした『生命活動』をするのを感じさせていただいている。『主の生命』を感じさせていただくことに大きな感謝とよろこびの祈りを捧げている。
わたしは日々フツーのクリスチャンとしてあたらしく創造されてゆく『自分の生命』をわたしの愛する家族と分かち合い喜んでいる。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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↓:♥。いのち。
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中で生ずるある種のプロセスをわたしの中で幸福への
志向の意識と不可分に結びつけている『生命』という
言葉でよんでいるのだ。
(「人生論」トルストイ著 原卓也訳 新潮文庫 )
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「神のいのち」「主のいのち」すなわちここでトルストイが言っている『生命』とは、意識的にも無意識的にも、主の主王の王主イエス・キリストの愛で愛し合おうとする「生命活動」を指すものだ。互いに少しでも「主と似た者となるために」「主と似た者としていただくために」。
この『愛』をいただくためにフツーのクリスチャンのわたしは主に祈る。
この祈りはわたしにとって「切実」である。
というのはわたしの内には『主の愛』が主に祈らなくてはほとんど無であるからだ。わたしはフツーのクリスチャンとしてこの「大切な自覚」が主より与えられていることを感謝している。わたしの祈りはここから始まったからである。
主に真剣に祈れば祈るほどわたしは「主より与えられたわたしのいのち」が生き生きとした『生命活動』をするのを感じさせていただいている。『主の生命』を感じさせていただくことに大きな感謝とよろこびの祈りを捧げている。
わたしは日々フツーのクリスチャンとしてあたらしく創造されてゆく『自分の生命』をわたしの愛する家族と分かち合い喜んでいる。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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