見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。
その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義があなたがたと、
あなたがたの神との間を隔てたのだ。
(イザヤ書第59章1から2節 )
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わたしは悪魔というものを信じない。
なぜか。これは人間が「自分の罪」をごまかしたくて隠したくて自分の責任のがれをしたくて頭の中でつくり出した空想上の産物だと考えているからだ。
主イエス・キリストはなぜ人間となって生まれたのか?
主イエス・キリストの十字架は人間のひとりひとりの罪のためだというキリスト教徒の伝統的な信仰がなぜ主より与えられたのか?
主の十字架はひとりひとりの罪の罰をいわば身代わりになって引き受けて下さった結果(代罰)である。そしてこのことを魂の奥底から信じる者は主と同じく十字架上で死んだのだ。そして主と同じくその死より復活したのだという十字架と復活の信仰が主より与えられる。そしてその者はもはや主より断罪されることはないのである。
だからわたしたちフツーのクリスチャンは底抜けに明るい気持ちでいられ希望が失われることはないのだ。
希望のあるところに悪魔の入りこむ余地はない。
(もし仮に悪魔といった実体が存在しているのにしても、それは信じる対象ではない。神なる主を信じることでその悪しき者は 滅び去る、それが主の予定である)。
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