2021年10月31日礼拝メッセージ 要旨
■『パウロの勧めに学ぶ-“見上げるべき方イエス”』(ピリピ書講解説教第20回)
■聖書箇所:ピリピ2:5~11
■中心聖句:ピリピ2:6~8 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
・聖書箇所をお読みください。
・ピリピ1:27~、パウロはピリピ教会に宛てて勧めを与えている。教会のあり方が記されている。
・27節~、福音にふさわしく生きよ。2章になると一致の大切さが勧められている。今日の箇所は、一致のための手がかり、へりくだり・謙遜の究極の模範が記されている。それは、イエス・キリスト!
・6~11節、通常の表記のしかたと区別してある。
・というのは、この箇所は、パウロ以前の初代教会で歌われていた賛美歌ではないか、と考えられている。(「キリスト賛歌」)
・:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
1.イエス・キリストを、生き方の【模範】として見上げましょう。
・:6 キリストは、神の似姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
・イエスは神であられた。しかし、神であることの特権を預けられ、人となってくださった。(神であることをやめたのではない)
・へりくだり・謙遜の模範としての姿!
・ブライアン・チャペル師がアフリカの宣教師から聞いた話。
・アフリカのある地域でのこと、その地域のかしらは、村で一番強い者だった。彼は、かしらとして、大きな冠と、かしらであることを示す上着を身に付けていた。
・ある時、一人の男が、水を汲もうとして、深い井戸の中に落ちてしまい、足を骨折してしまった。井戸の底でどうにもできずに横たわっていた。
・井戸の底にまで行き着くには、深い井戸の底まで続いている隙間を用いて、手足を使って降りていかなければならないのだった。そして、同じようにして、登って戻るのだ。
・そのようにしながら、どうにもできないでいる男を引き上げることは誰にもできないので、かしらは呼び寄せられた。
その男の窮状を見ると、かしらは、大きな冠と立派な上着を傍らに置くと、井戸の底にまで手足を使い降りて行き、傷ついた男を担ぎ上げると、安全な所へ運び上げた。かしらは誰もできないことをやり遂げたのだ。
・これこそ、イエスが私たちのためにしてくださったことなのである。私たちを救うために、イエスは、天の栄光を傍らに置いてくださった。かしらが冠を傍らに置いたように。
・かしらは、冠を傍らに置いた時、かしらであることをやめたのか。そんなことはない。私たちを救うために来てくださった時、イエスは神であることをやめたのか。もちろん、そんなことはない。
(以上ブライアン・チャペル師)
・自分の立場、特権、を捨てて、人に仕える姿、人の心を打つ。
・イエス様は、私たちの模範です!模範としてイエス様を見上げていきましょう!
・キリスト賛歌は、イエスの死、そして、十字架での死を描いている。
・:6、8 キリストは、…、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
・模範を越えている!
・ここから何を受け止めるべきか?
2.イエス・キリストを、罪を負って十字架にかかってくださった【救い主】として見上げましょう。
・パウロは、謙遜の模範としてキリスト賛歌を引用した。そこからわきにそれて?広がって?救い主であるイエス様に話が移っていっている。
・
・イエスの十字架での死、これは、私たちの罪の身代わりである、と聖書は教えています。
・第一ペテロ2:24 キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
・第一コリント15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、…。
・イエス様の十字架、それは、イエス様の生涯の中心、福音の中心、聖書の中心、キリスト教の中心、です!
・イエス様を救い主として見上げましょう!
・イエス様は、あなたの罪を背負って十字架にかかり、いのちを捨ててくださった!
・イエス様を模範として見上げましょう。そして、救い主として見上げましょう。もう一つの点があります。
・:10、11 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
3.イエス・キリストを、あがめられるべき【主(しゅ)・神であるお方】として見上げましょう。
・聖書では、「主」という漢字を「しゅ」と読んでいる。(「ぬし」と読まれることの方が多い)
・「しゅ」=辞書では、主君、統治者、キリスト教において父なる神のこと、あるいは、キリストのこと。
・※「ぬし」=国や家など、ある社会、地域、集団などを治める首長。また、一般にある事柄を中心になってつかさどる人。君主。主人。あるじ。
・「イエス・キリストは主です」の意義は?
・「イエスは、神です」、という信仰告白!
・「膝をかがめ」=礼拝の姿
・10~11節は、やがて実現する「全宇宙的規模におけるキリストの支配の確立、全存在のキリストへの服従と礼拝」(関田寛雄・せきたひろお)
・神が全世界を創造された。人間も。人は罪を犯し、神から離れてしまった。ひとり子である神が、人となられ、救い主としてこの地に。罪なき歩み、十字架、復活。神は、救いの道を用意してくださった。信じるなら救いをいただける。そして、やがて、すべてを完成される時が。それが、この礼拝!
・将来のこと、というだけではない。始まっている!神への礼拝において!今日も!
■宣言:イエス様、私たちは謙遜な生き方の模範としてあなたを見上げていきます。そのためにも、まず、救い主であるあなたを見上げ、救いをいただきます。そして、主であり神であるあなたを礼拝し、従っていきます。