旨い処探索同好会

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芸術鑑賞 009 ルイス・ハイン

2011年05月28日 11時41分44秒 | 芸術鑑賞

Six-year-old Warren Frakes. Mother said he picked 41 pounds yesterday "And I don't make him pick; he picked some last year." Has about 20 pounds in his bag. Comanche County, Oklahoma.
オクラホマ州の6歳のウォーレン・フレーケスの母親の話では、彼は昨日41ポンドのコットンを収穫したそうです。 収穫した重さで賃金が支払われたのでしょう。 彼の引きずっている袋一杯でどのくらいの重さになるのか気になります。 これらは1908年から1912年に写された写真です。


Michael McNelis, age 8, a newsboy with photographer Hine.
マイケル・マックニール、8歳の新聞売りの少年とハイン。 ルイス・ハインは、カメラを今までに紹介した写真家とは違う使い方をしました。 社会学を学んだハインは、カメラを社会改革の道具としてとらえたのでした。 彼の作品の多くは、当時の子供達の過酷な労働状況を画像を通して伝え、1916年に14歳以下の雇用関係等の子供を守る法律が出来たのは、ハインの写した多くの写真が、大きく寄与しました。


Three boys, one of 13 yrs., two of 14 yrs., picking shade-grown tobacco on Hackett Farm.
The "first picking" necessitates a sitting posture. Buckland, Connecticut.
コネックティカット州のバックランドで13~14歳の少年がタバコ農園で初芽を摘んでいます。


Eight-year-old Jack driving a horse rake. A small boy has difficulty keeping his seat on rough ground and this work is more or less dangerous. Western Massachusetts.
マサチューセッツ州西部で8歳のジャックは、小さな子供にはまだ危険な仕事をしています。


A Bowery bootblack in New York City. ニューヨーク市、バワリーの靴磨きの少年。
ルイス・ハインは、1874年(明治7年)9月26日にウイスコンシン州のオーシコッシで
生まれたと記録にあります。 彼が始めてカメラを買ったのは1903年とありますから、29歳の時です。


Shrimp pickers, including little 8-year-old Max on the right. Biloxi, Mississippi.
シュリンプ・ピッカーズとありますが、エビの皮を取る仕事なのでしょう。 足の踏み台が必要な右端の小さなマックスはまだ8歳です。 ミシシッピー州、バイロクシイ。


Child laborers in glassworks, Indiana. 1908. インディアナ州のガラス工場の子供の労働者。
ハインは、ビルディング・インスペクターとか保険会社から派遣されたとか身分を偽って工場内に入って写真撮影をしたようです。


9 p.m. in an Indiana Glass Works. インディアナ州にあるガラス工場の朝9時の情景。


Addie Card, 12-years, Spinner in North Pownal Cotton Mill, VT. 1910.
ヴァモント州のノース・パウナルにある綿織工場の紡ぎ手、アディー・カード、12歳。
ルイス・ハインは、第一次世界大戦中、赤十字の仕事でヨーロッパの戦中の生活状況などを記録しました。 1919年に戦争の影響を受けたバルカンの子供達の写真集を出版しています。


Some of the young knitters in London Hosiery Mills. London, Tennessee.
テネシー州ロンドンの靴下製造工場で働く若い編み作業員。


View of the Ewen Breaker of the Pennsylvania Coal Co. The dust was so dense at times as to obscure the view. This dust penetrated the utmost recesses of the boys' lungs. South Pittston, Pennsylvania. ペンシルベニア州サウス・ピッツトンの炭鉱。


ハインは、子供の労働に関して次のように語っています。「たぶんあなたは子供労働者の写真にウンザリしているかも知れませんが、みんなも同じです、しかし我々は、行動を起こす時まで、貴方と国中をもっと嫌になるように提案します、そうすれば年少労働者の写真は、過去の事になるでしょう。」
Hine told one audience: "Perhaps you are weary of child labor pictures. Well, so are the rest of us, but we propose to make you and the whole country so sick and tired of the whole business that when the time for action comes, child labor pictures will be records of the past."
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芸術鑑賞 008 ガーチュルード・カセビアー

2011年05月25日 12時58分33秒 | 芸術鑑賞

Gertrude Käsebier. "Miss Evelyn Nesbit", 1902. George Eastman House, Rochester, New York.
ガーチュルード・カセビァーは、20世紀初頭最も影響力のある写真家の一人でした。 彼女の芸術性の高いポートレイトに母性愛の写真、そして力強いインディアンの写真は、単なる映像だけでなくまわりの雰囲気まで一緒に写し込んでいるように感じます。 誰でも簡単に出来ることではありません。


Gertrude Käsebier. "Mother and Child", 1899.  
ガーチュルード・スタントンは、1852年5月18日に現在のアイオワ州デモイで生まれています。
1874年、彼女の22歳の誕生日に、28歳のエドワード・カセビアー(Eduard Käsebier)と結婚し3人の子供を産んでいます。


Gertrude Käsebier. "Yoked and Muzzled - Marriage", 1915.
「もし主人が天国に行ったなら、私は地獄に行きたい・・・」とガーチュルードは、大変強烈に後に語っていますが、社会的、経済的に裕福な家に嫁いだ彼女には、当時離婚は難しい事でした。 この不幸な結婚がインスピレーションになって出来た写真と言われています。
Käsebier later wrote that she was miserable throughout most of her marriage. She said, "If my husband has gone to Heaven, I want to go to Hell. He was terrible…Nothing was ever good enough for him.” At that time divorce was considered scandalous, and the two remained married while living separate lives after 1880.


Gertrude Käsebier. "The Sketch", 1899.
ガーチュルード・カセビァーは、37歳で美術学校に通い始めました。


Gertrude Käsebier. "Indian Chief", 1901.
1889年(明治22年)には、夫の反対を押し切って子供を連れてブルックリンに戻り、プラット・インスティテュート・オブ・アート・アンド・デザイン(Pratt Institute of Art and Design)にフルタイムで学ぶ事になり、写真に興味を持ちます。 その後、ヨーロッパで写真の勉強を続けました。


Gertrude Käsebier. "Portrait of Robert Henri", 1907.
1895年にヨーロッパからブルックリンに戻り、プロ写真家サミエル・リフシェイのアシスタントとして商業写真のノウハウを学びます。


Gertrude Käsebier. "Clarence H. White and Family", 1902.
アルフレッド・スティグリッツが近代写真の父ならば、母と呼ぶにふさわしいのは、ガーチュルード・カセビアーでしょう。 しかしこの夫婦は、写真に対してシュティグリッツの芸術性とカセビアーの商業性と意見の相違があったようです。 1902年にシュティグリッツが始めたフォト・セセッションの創立メンバーだったカセビアーは、1912年にそこを脱会する最初のメンバーになります。


Gertrude Käsebier. "Self-Portrait", platinum print, 1912. George Eastman House, New York.
ガーチュルード・カセビァーは、写真を女性の出来る仕事として普及促進に努力しました。 彼女の影響で、有名プロフェッショナル女性写真家のみならず多くのアマチュア女性写真家が生まれています。 彼女は、1929年に写真活動を全て止めてしまい、1934年10月12日に娘の家で亡くなっています。

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芸術鑑賞 007 ガーチュルード・カセビァー

2011年05月25日 00時08分17秒 | 芸術鑑賞

Gertrude Käsebier. "Blessed Art Thou Among Women", 1903. Photogravure. (23.7 x 14.1cm)
一度見たら忘れない写真は、そう沢山あるモノではない、しかしカセビァーの写真を見るとどれも忘れられない印象を与えられる。 その中でも特にこの写真は静かだが、黒と白の使い方は抜群である。
少女の緊張感と母親の優しさの瞬間をとらえた素晴らしく美しい写真だと思います。。


Gertrude Käsebier. "The Red Man", 1903. Photogravure. (18.4 x 13.6cm)
この写真も影と光とテクスチャーを上手く使っています、それに加えてミステリーなインディアンとその表情は何とも表現しがたい憂いを感じさせられます。 こういった雰囲気をとらえられるのは、やはり女性写真家ならではの感じがします。


Gertrude Käsebier. "The Manger", 1903. Photogravure (21.3 x 15.0cm)
露出、フォーカス、シャッタースピードと限られたカメラのテクニックで、馬小屋を聖域に変えてしまった写真技術は見事だと思います。


Gertrude Käsebier. "Portrait - Mrs. Philip Lydig", 1905. Photogravure (20.6 x 14.7cm)
後ろ姿に横顔のポートレイト写真の発想がニクイですね。 ここでも上手く自然に横顔が引き立つ明暗の使い方をしています。 当時人気のポートレイト写真家だったのも頷けます。


Gertrude Käsebier. "Portrait - Miss Minnie Ashley", 1905. Photogravure (21.5 x 16.7cm)
絵を描いていても同じで人の肌の柔らかさや色つやを表すのは非常に難しいが、暗い部分を大きくして上手に顔や手を引き立たせている。  ところで大きな帽子をかぶった女性が両手に持っているのは何でしょうか?


Gertrude Käsebier. "Happy Days", 1903. Library of Congress, no. USZ62 52445.
早くして父を亡くしたガーチュルード・カセビァーは、両親のいた頃の幸せとのイメージを重ねているのかも知れません。 


Gertrude Käsebier. "The Picture-book", 1905. Photogravure (15.7 x 20.7cm)
母親が手編みをしながら子供に絵本を読ませているのは、イチジクの木の下でしょうか?
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芸術鑑賞 006 アルフレッド・スティグリッツ 続き

2011年05月17日 10時45分00秒 | 芸術鑑賞

Edward J. Steichen. Alfred Stieglitz, 1907.

アルフレッド・スティグリッツは、なぜか多くの写真家にポートレートの対象とされています。
謎の多い人物と言われがちなスティグリッツをいかにとらえ表現しているかを比べるのも面白いでしょう。


Gertrude Kasebier. Alfred Stieglitz, 1902.
ガーチュード・ケスビァー。「アルフレッド・スティグリッツ」1902年


Frank Eugene. "Alfred Stieglitz", 1907. Platinum print. The Metropolitan Museum of Art.
フランク・ユージーン。「アルフレッド・スティグリッツ」1907年


Edward Steichen. "Alfred Stieglitz and His Daughter Katherine". 1904. Platinum print. MMA.
エドワード・スタイケン。「アルフレッド・スティグリッツと娘のキャサリン」1904年


Alfred Stieglitz. "Katherine", 1905. Photogravure from Camera Work no.12, October 1905.
Permanent collection, International Center of Photography, New York.
アルフレッド・スティグリッツ。「キャサリン」1905年


Edward J. Steichen. Alfred Stieglitz and His Daughter Katherine, 1905 print from 1904 negative.
エドワード・スタイケン。「アルフレッド・スティグリッツと娘のキャサリン」1904年


Alvin Langdon Coburn. Alfred Stieglitz, 1907. 
アルビン・ラングドン・コーバーン。「アルフレッド・スティグリッツ」1907年


Paul Strand. "Stieglitz, Lake George", Summer, 1929.
ポール・ストランド。「スティグリッツ、レーク・ジョージ」1929年夏 
レーク・ジョージは、スティグリッツがとても気に入っていた避暑地です。


Imogen Cunningham. "Alfred Stieglitz at An American Place" 1934 Gelatin silver (24.1x18.5cm)
イモーゲン・カニンガム。「アメリカン・プレースのスティグリッツ」1934年
カニンガムは、上に出た同じ女性写真家のガーチュード・ケスビァーの影響で写真家になりました。


Weegee. "Alfred Stieglitz", 1945. Gelatin silver print, (26.9 x 33.9cm).
ウィージー。「アルフレッド・スティグリッツ」1945年


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe: A Portrait - Head", 1920-22. Gelatin silver developed-out print. Alfred Stieglitz Collection, National Gallery of Art, Washington, D.C.
アルフレッド・スティグリッツ。「ジョージア・オ’キーフのポートレート・頭」1922年
スティグリッツが、ジョージア・オ’キーフの断り無しに彼女の作品を「291」で展示したことがきっかけで1908年に知り合った二人だそうですが、1924年に結婚しています。


Anonymous: "Alfred Stieglitz and Georgia O'Keeffe" 1932, New Haven.
Courtesy of Beinecke Rare Book and Manuscript Library, Yale University Library.
作者不明。「アルフレッド・スティグリッツとジョージア・オ’キーフ」1932年
なかなかいい雰囲気の二人のようですが、写したのはいったい誰でしょう?


Alfred Stieglitz. "From My Window at the Shelton, North", 1931 Gelatin silver print 24.3x19.1cm
アルフレッド・スティグリッツ。「シェルトン・ノースのマイ・ウィンドウより」1931年


Georgia O'Keeffe. "Radiator Building, Night, New York", 1927 Oil on canvas, (121.9 x 76.2cm)
Carl van Vechten Gallery of Fine Arts, Fisk University.
ジョージア・オ’キーフ。「ラディエーター・ビルディング、夜ニューヨーク」1927年 油絵


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe", 1932 Gelatin silver print (9-1/8 x 7-1/4inches).
Gift of Georgia O'Keeffe Foundation.
アルフレッド・スティグリッツ。「ジョージア・オ’キーフ」1932年


Alfred Stieglitz. "From the Shelton Looking North", 1927. Gelatin silver print (11.5 x 8.9cm).
アルフレッド・スティグリッツ。「シェルトンから北を見る」1927年


Georgia O'Keeffe. "New York, Night", 1929. Oil on canvas. (101.6 x 48.3cm).
Collection of the Sheldon Memorial Art Gallery, University of Nebraska Art Galleries.
ジョージア・オ’キーフ。「夜のニューヨーク」1929年 油絵


Dorothy Norman. "Alfred Stieglitz", 1952. Gelatin silver print. (9.5 x 7.4cm)
ドロシー・ノーマン。「アルフレッド・スティグリッツ」1952年

アルフレッド・スティグリッツとドロシー・ノーマンは、どうやらロマンティックな関係にあったようです。 多方面で活躍したスティグリッツは、ロマンスのほうもご多忙だったようです。


Alfred Stieglitz. "View of Brooklyn across the East River from Shelton Hotel", 1931
Gelatin silver print. Alfred Stieglitz Collection, Philadelphia Museum of Art.
アルフレッド・スティグリッツ。「ブルックリンの眺め」1931年


Georgia O'Keeffe. "Pink Dish and Green Leaves." 1928. Pastel on paper. (55.9 x 71.1cm)
ジョージア・オ’キーフ。「ピンクのお皿と緑の葉っぱ」1928年


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe: A Portrait" 1930. Gelatin silver print (19.3 x 24.1cm)
アルフレッド・スティグリッツ。「ジョージア・オ’キーフ:ポートレート」1930年


Georgia O'Keeffe. "Ram's Head, Blue Morning Glory", 1938. Oil on canvas. (20 x 30inches).
ジョージア・オ’キーフ。「雄羊の頭、青の朝顔」1938年


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe: A Portrait-with Cow Skull", 1931 Gelatin silver print.
Alfred Stieglitz Collection, National Gallery of Art. Washington D.C.
アルフレッド・スティグリッツ。「牛の頭骨とのポートレート」1931年


Alfred Stieglitz (January 1, 1864 - July 13, 1946) 82歳。
写真をこよなく愛したアルフレッド・スティグリッツは、今のデジタル時代の現状を何と思うでしょうか? 世界中で動画カメラをほとんどの人が携帯し、イメージをあっという間にみんなで共有出来るなんて、まさに想定外の事に違いありません.
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芸術鑑賞 005 アルフレッド・スティグリッツ

2011年05月16日 11時08分03秒 | 芸術鑑賞

Alfred Stieglitz, "Self-Portrait", 1907. Gelatin silver print, (24.8 x 18.4cm).

近代写真の父とも言われるアルフレッド・スティーグリッツは、 写真の歴史上重要な人物です。
ただ一人のアーティストの力で出来た訳ではないでしょうが、もしフランスでナダールが写真を芸術の域まで高めたと言うならば、アメリカではアルフレッド・スティグレイツだと思います。


Alfred Stieglitz. "Miss S.R.", 1904. Photogravure from Camera Work 1905.
Permanent Collection, The International Center of Photography, New York.


スティグリッツは、両親の母国であるドイツに留学中カメラと出会います。 当時のドイツは、物理光学のカメラ、現像科学とも最先端にあった国だったようです。


Alfred Stieglitz. "Sun Rays - Paula", Berlin, 1889. Platinum print.
Alfred Stieglitz Collection, National Gallery of Art, Washington D.C.
アルフレッド・スティグレイツ。「サン・レイズ ポーラ」、1889年 ベルリン。
スティグリッツは、父親のリクエストで1890年にドイツからニューヨークに帰って来ました。


Alfred Stieglitz, "Winter - Fifth Avenue", 1893. Photogravure from Camera Work, 1905.
Permanent Collection, The International Center of Photography, New York.
アルフレッド・スティグレイツ。「ウィンター フィフス・アヴェニュー」、1893年ニューヨーク。


Alfred Stieglitz. "The Terminal", 1915 photogravure from an 1893 negative.
アルフレッド・スティグレイツ。 「ターミナル」、1915年。 (25.4 x 33.5cm).
古い郵便局前で出くわしたサード・アヴェニュー・ストリート・レイル・ウエイとマディソン・アヴェニュー・カー・システムの終着駅での写真、とても寒い雪の日に水をかけられて湯気の出ている馬を見てなんとなく、センティメンタルになっているスティグリッツのようです。
"I found myself in front of the old Post Office. The Third Avenue street rail way and the Madison Avenue car systems had their terminals there, opposite the old Astor House. It was extremely cold, Snow lay on the ground. A driver in a rubber coat was watering his seaming car horses. How fortunate the horses seemed, having a human being to tend them.... The steaming horses being watered on a cold winter day, the snow-covered streets....my own sense of loneliness in my own country," Stieglitz reminisced about a picture.


Alfred Stieglitz. "The Hand of Man", 1930 gelatin silver print from a 1902 negative. (8.3 x 11.2cm)
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・ハンド・オブ・マン」、1902年。ニューヨーク。


Alfred Stieglitz. "The Steerage", 1915 photogravure from a 1907 negative. (32.1 x 25.7cm).
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・スティーリッジ」(三等船室)
一等船室のデッキの端から偶然見下ろしたシーンに暫く魅了されようです。 我にかえり急いで部屋にカメラを取りに行き最後の一枚で写したそうです。
"The scene fascinated me: a round straw hat, the funnel leaning left, the stair way leaning right. the white drawbridge, its railings made of chain, white suspenders crossed on the back of a man below, circular iron machinery, a mast that cut into the sky, completing a triangle. I stood spellbound for a while."


Alfred Stieglitz. "The City of Ambition", 1910.
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・シティ・オボ・アンビション」、1910年
ヨーロッパから戻ってきたスティグリッツは、ニューヨークの近代化に目を見張った事でしょう。 この写真からは、当時の大都会の息吹が感じられそうな気がします。


Clarence White and Alfred Stieglitz, "Miss Thompson", 1907.
クレァレンス・ホワイトとアルフレッド・スティグレイツ、「ミス・トンプソン」、1907年
当時の写真家の多くは、絵画風の写真を制作していました。 スティグリッツは、写真を絵画の模倣から離れ写真独自の芸術性を主張したのです。


Alfred Stieglitz., "The Little Galleries of the Photo-Secession", 1905.
Photogravure from Camera Work no 14, April 1906. The International Center of Photography.
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・リトル・ギャラリー・オブ・フォトーセセッション」
この画廊は、1905年にエドワード・スタイケンと始めた写真、前衛芸術専門のギャラリーで、
ニューヨーク五番街291番地の住所から単に「291」として知られています。
スティグリッツによれば、当時一年リースで、月々50ドル、改築に350ドルかかったそうですから、やはりニューヨーク、小さいと言っても決して安くはなかったのでしょう。

"I liked the idea, being eager that New York should see both what we were doing and outstanding prints from other countries, hung in suitable manner and surroundings. Since I knew I rely on Steichen's enthusiasm and ability, I signed a one year lease for the rooms at fifty dollars a month. The cost of installing electric fixtures and having the necessary carpentry done was no more than three hundred dollars", Stieglitz later recalled that the idea for a Photo-Secession exhibition gallery came from Steichen on night in 1905.


Edward Steichen. "Alfred Stieglitz at 291", 1915
Coated gum bichromate over platinum print. (28.8 x 24.2cm).
エドワード・スタイケン。「291のアルフレッド・スティグレイツ」、1915年


Alfred Stieglitz. "Equivalent", 1930. Gelatin silver print. (12 x 9.1cm).
One of a sequence of ten cloud photographs, later called Clouds in Ten Movements and Music.
アルフレッド・スティグレイツ。「イクィーヴァレント」、1930年。 1922年から始めた10枚の雲の写真シリーズの一枚。
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芸術鑑賞 004 マン・レイ 続き

2011年05月07日 23時43分38秒 | 芸術鑑賞


今回は思った以上に手間取った、マン・レイはマルセル・デュシャンの友達で、シュールやコンセプチュアル・アートは、昔から私の好きなエリアなので簡単に出来ると思ったのが間違いであった。



マン・レイ自身は、画家として知られたいと言っていたと誰かが書いていたのをどこかで読んだ記憶がある。 しかしマン・レイは、写真家それも実験的造形写真と先進的な感覚の当時としては格段に官能的なヌード写真、ファッション写真で知られていると思う。 それに加えて彫刻、版画、フィルム、コラージュ、アサンブラージュもやっているので、写真家というよりはアーティストと言った方が良いかも知れない、分類学は必要だがアーティストを分類しようとすると無理がある。





コンセプチュアル・アート、パーフォーミング・アートの先駆者でもある、マン・レイに対して同じ画家として思うには、マン・レイは単に表現に使うメディアを広げたに過ぎない。 絵の具と筆の代わりにカメラと印画紙を使って彼のアイデアを視覚化させた制作行為であると思う。



"Assemblage", 1920. Sewing Machine, felt and string. (Length: 57cm)
Property from the Dakis Joannou Collection.
マン・レイのアサンブラージュ、(ミシン、フェルトと糸)、包装アートの走りでしょうか。



"Of course, there will always be those who look only at technique, who ask 'how', while others of a more curious nature will ask 'why'. Personally, I have always preferred inspiration to information", Man Ray
「もちろん、いつもただ技術だけを見て、”どうやって?”と問う人はいるでしょう、でも他のもう少し好奇心のある人は、”なぜ?”と尋ねるでしょう。 個人的には、私はいつでも、”インフォーメーション”よりは、”インスピレーション”を好みます。」とマン・レイは語っています。
シュールレアリストは、こういった感じで言葉を楽しむと言うか語呂合わせと意味の表現が面白い。
この言葉は、テクノロジー先行の現代にもあてはまるのではないでしょうか?



"Dada is artistic free-thinking", Andre Breton
ダダは、芸術的に自由な考え方である。アンドレ・ブルトン(シュールレアリストの詩人)。
「ダダは、あえて無意味な語を選んだもので、第一次大戦中から戦後にかけて、チューリヒからベルリン、ケルン、パリと波及した芸術運動。規制の権威・道徳・習俗・芸術形式の一切を否定し、自発性と偶然性を尊重。意味のない音声詩・コラージュ・オブジェ・フォトモンタージュ・パーフォーマンスなどを生み、何でも芸術になり得ることを証明。」と辞書に書いてあります。



"Object to be Destroyed", 1923 or "Indistractive Object and Perpetual Motif". 1959.
Readymade metronome with photographic eye. 1923. (height: 23cm)
Property from a Private Collection, Paris.
1913年のマルセル・デュシャンのレディメード「バイセクル・ウイール」の影響を受けた作品。
レディメードに関しては後に詳しく書きたいテーマだ。



このマン・レイの作品を見ているとクニヨシと同じリーグで学んだアレキサンダー・カルダーの動く芸術、キネティック・アートでデュシャンの名付けた「モービル」のイメージにつながる。



Man Ray, (August 27, 1890 - November 18, 1976). 86歳

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芸術鑑賞 003 マン・レイ

2011年05月07日 00時29分36秒 | 芸術鑑賞

Man Ray, Book cover "Photographs by Man Ray, 105 Works, 1920-1934).

Man Ray, Emmanuel Rudnitsky, (August 27, 1890 - November 18, 1976).
マン・レイの本名はエマニュエル・ロッドニツキーで、ユダヤ系ロシア人の子として1890年に米国フィラデルフィアに生まれ、7歳の時にニューヨーク、ブルックリンに移ります。 ユダヤ人への人種差別もあって本名からマン・レイに変えていったようです。 
若い頃から才能のあった彼は、1908年に建築の勉強をする奨学金を断って画家の道に進みます。 1915年にクニヨシでおなじみの画廊、ダニエル・ギャラリーで初の個展を開催しています。


Photographed by Man Ray, "Noire at Blanche", 1926.

マン・レイは、大変幅広いメディアで制作活動をし絵画、写真、彫刻、版画、フィルム、コラージュ、アサンブラージュと多彩な作品を残しています。 若い頃の立体主義や表現主義(cubism and expressionism)からの影響は、マルセル・デュシャンに会ってからシュールやダダ(Surrealism and Dadaism)に変わっていきます。 1916年、二人でソサエティ・オブ・インディペンダント・アーティスト(the Society of Independent Artist)を創立し、雑誌ニューヨーク・ダダを出版しました。 しかし当時のニューヨークでダダはさほど受け入れられた訳ではなかったようです。 その間に結婚の失敗もあり、1921年にパリに移ります。



マン・レイは、パリでシュールレアリストとして活躍し写真では、レイヨグラム、モンタージュ、クロッピングやソラリゼーションなどの新しい現像技術を開発しシュールな写真を数多く作りました。 



上下:レイヨグラム(Rayogrammes)は、マン・レイ自身がつけた名前、カメラを使わないで印画紙に直接、物を置いたり、手をかざしたりし光を当てて出来る影と形と光の作品です。





上下:モンタージュは、今日では説明の必要のない言葉ですが当時としては新しい技法でした。







上上下下:クロッピングは、写真編集のテクニックで一部を切り捨て、画像のレイアウト等を調整する。







上下:ソラリゼーション(Solarization)は、ビートルズのサイケデリックなポスターで一躍知られた現像技術で、効果、技法の説明はいろいろあるが、これこそ百読よりは一見です、画像を見て下さい。



マン・レイの創り上げたイメージの多くは、芸術性が高く見る人の心に強烈な印象を与え一度見ると忘れがたい画像です。 彼の作り出す不似合いなヴィジョンや意識的不合理は、私たちの日常の認識に一石を投じた感があり、新しい意識、広い認識の必要性を感じさせられます。 そこが、ダダやシュールの面白くて興味深い処でしょうか?




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芸術鑑賞 002 アルフレッド・アイゼンシュタッド 続き

2011年04月29日 11時45分31秒 | 芸術鑑賞

Rolleiflex 2 1/2. アイゼンシュタッドが持っていたのと同じ頃のカメラ。

太平洋―大西洋写真社(Pacific and Atlantic Photo)のベルリン支社でフリーランスの仕事をしていた当時からアイゼンシュタッドの写真は、人気があったようで、そうでもなければ、1934年のヒットラーとムッソリーニの会見写真の仕事の依頼はなかったでしょう。 この会社は1931年にAP通信(Associated Press)に吸収されています。 当時のドイツは、印刷物の出版量では世界一だったそうです。


"Waiters watching Sonya Henie skate", 1932. St. Moritz.

皮肉なことに、ヒットラーの台頭でその写真を撮った翌年1935年に、Rolleiflexカメラを持ったアイゼンシュタッドは未亡人の母を連れてアメリカに渡ります。 ユダヤ人であった彼にとっては、ドイツを去らなければならなかったのです。


Marilyn Monroe at her Hollywood house, 1953.  ハリウッドの自宅でのマリリン・モンロー。
どうやらアイゼンシュタッドは、ヘマをよくやるようで彼女の撮影にカラーフィルムと白黒を間違えたそうです。 セクシーな女優の撮影ですから無理も無いかも知れません。


それとも仕事中にこんな事をやっているからフィルムを間違えたのでしょう。


"When I photographed Marilyn Monroe, I mixed up my cameras -one had black-and-white film, the other color. I took many pictures. Only two color ones came out all right. My favorite picture of Marilyn hangs always on the wall in my office. It was taken on the little patio of her Hollywood house."


John F. Kennedy and his daughter, Caroline, at home in Hyannisport, Massachusetts. 1960.
アイゼンシュタッドは、ケネディー家の写真を数多く写していますが、その最初の写真です。 
ケネディーが、民主党の大統領候補に丁度選ばれた時で、その前でいたずらっ子の顔をしているのは
お父さんの新しいズボンにチュウインガムをくっつけたところの娘のキャロラインちゃん。


Jacqueline and Caroline Kennedy with Eisenstaedt, 1960.

"This was the first of many times I photographed JFK - just as he had been chosen the Democratic candidate for president. He and Caroline posed happily, even though she had just stuck chewing gum on his freshly pressed pants."


Mrs. Kennedy and Caroline, painting on their canvases in Hyannis Port. 1961.
この母と娘の生活の一部を垣間見ると、やはり絵を描く時間、創作を楽しむ時間を一緒に持つ事は、とても大切な事のように感じます。

親しい人達からは、"Eisie"と呼ばれていたアイゼンシュタッドは、160センチ前後,正確には靴を履いて5フィート3インチらしい、で小柄だった彼は、目立たない自分を上手く活用しています。 彼のドイツから持ってきた2 1/4" Rolleiflex、このカメラを持って目の高さに上げないで写す、人が意識しないから、彼の好みの自然光の中で自然な人の写真が撮れるのだろう。


Sophia Loren and Eisenstaedt, 1969. ソフィア・ローレンと一緒のアイゼンシュタッド。
これを見ると写真家の職業も悪く無さそうですが、やはり彼のチャームがないとこうは行かないでしょうね。


Kathy Eisenstaedt at Zack's Cliffs, 1960.
マーサ’ズ・ヴィンヤード(Martha's Vineyard)は、メイン州の著名人が集まる避暑地としてアメリカでは有名である。 ここをこよなく愛したアイゼンシュタッドは、ここの風景を多く写真にしている。


Dory in Marsh, 1965.


Cliffs at Sunset, 1969.


1995年8月24日に96歳で亡くなりましたが、彼のクリエートした写真はいまだに我々の目を楽しませてくれています。
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芸術鑑賞 001 アルフレッド・アイゼンシュタッド

2011年04月28日 00時33分02秒 | 芸術鑑賞
クニヨシの回顧展カタログの翻訳中にフロクで20世紀初頭の写真家を紹介したかったが出来なかった。 そんな訳でこの絵画鑑賞のカテゴリーでそれをやってみようと思っている。 絵画鑑賞を絵画写真鑑賞に変えた方が良いのかも知れないが、彫刻作品をテーマにすると絵画写真彫刻鑑賞となる。
色々やるとややこしくなるので、今後は芸術鑑賞で行こうと思う。

そもそもケニス・ミラーが、リーグでクニヨシにドーミエのドローイングを紹介したのが始まりで、
その時の流れで偶然と言うか、為るように成してナダールにつながった。 その後写真機、現像技術の進歩によって単なる記録的媒体から芸術表現手段の一つとして成長して行く。 その過程で20世紀初頭は写真愛好家にとって興味深い時期だったと思います。

前置きが長くなってしまった、本題に入ろう。


Life Magazine, cover picture by Alfred Eisenstaedt.

最初に登場する写真家は、アルフレッド・アイゼンシュタッド。
1898年(明治31年)12月6日にウエスト・プルシアで生まれています。 1906年に家族はベルリンに移り、6年後の彼14歳の時イーストマン・コダックのフォールディング・カメラを与えられました。 1935年(昭和10年)にアメリカに移り翌年の1936年から1972年までライフ・マガジンのカメラマンとして働き、多くの印象的写真を世に送り、報道写真の父と呼ばれています。 
彼の写真は、一貫して自然光を重視したカメラ・ワークで、庶民の目線での作品が多いように思う。


Alfred Eisenstaedt. Unidentified Photographer.

"My style hasn't changed much in all these sixty years," he explained. "I still use, most of the time, existing light and try not to push people around. I have to be as much a diplomat as a photographer. People often don't take me seriously because I carry so little equipment and make so little fuss. When I married in 1949, my wife asked me. 'But where are your real cameras?' I never carried a lot of equipment. My motto has always been, 'Keep it simple.'"


Children in Paris phtographed by Albert Eisenstaedt. 1963

最初に紹介したいのは、やはり私の一番好きな写真の一つで、子供達が驚いている写真である。
初めてこの写真と出くわした時、だいぶ前の事だが、子供達はいったい何を見て驚いているのだろうと思ったのが第一印象であった。 長い間イメージだけは覚えていても何も知らなかったが、ある日偶然にもこの写真のタイトルを知ることになった。 写真の題目は、「チルドレン・アット・パッペット・ショー」とあった、それで、なるほど子供達は人形劇を見ていたのだと分かった。

Children at the puppet theater in Tuileries, Paris. 1963

"It took a long time to get the angle I liked, but the best picture is the one I took
at the climax of the action. It carries all the excitement of the children screaming,
"The dragon is slain!" Very often this sort of thing is only a momentary vision,
my brain does not register, only my eyes and finger react. Click."


Children watching the story of "Saint George and the Dragon." at the Puppet theater in Tuileries, Paris, 1963.

しかしその後子供達は、いったい何の人形劇を見ていたのだろうと思い始めたが、この芸術鑑賞の取材おかげで「セント・ジョージとドラゴン」の題目で、丁度ドラゴンが殺されるシーンであったのが分かった。
アイゼンシュタッドによれば、気に入ったアングルを決めるのに随分時間がかかったそうだが、子供達が「ドラゴンが殺される!」と叫んだクライマックスの瞬間は、頭で考えることなく目と指の反射だけでシャッターを押したそうです。


ヒトラーとムッソリーニが、1934年(昭和9年)6月13日にヴェニスで会った時の写真。
1935年にアメリカに移る前ですから、多分2 1/2 Rolleiflex Cameraをつかったのでしょう。
"When Hitler and Mussolini met on June 13, 1934, in Venice, Mussolini was the big shot. It was the first meeting between the two dictators, and the last time Hitler appeared in mufti, before taking full power. Two months later, Hitler became the Fuhrer of the Third Reich."


"A mother and her child in the bombed landscaped of Hiroshima, Japan". 1946
「ヒロシマの爆撃された地にいる母と子、ジャパン」、1946年


"Atomic scientists Albert Einstein and J. Robert Oppenheimer", at the Princeton Institute for Advanced Study, 1947.
"I was so excited about photographing these two great scientists that I at first forgot to put film in my camera. When I discovered it, I sneaked out pretending that something was wrong with my camera."
1947年にプリンストン・インスティテュート・フォー・アドヴァンスド・スタディでの原子論科学者アルバート・アインシュタインとジェイ・ロバート・オッペンハイマー。
二人の偉大な科学者の写真が取れることに興奮し、最初はカメラにフィルムを入れ忘れたそうです。 しかしこの二人は、上の写真の景色に責任があります。


これは、アルフレッド・アイゼンシュタッドの説明の必要ない作品の一つです。

今日は庭の草刈りに、ネヴァダ・チェストナットとチャイニーズ・エープリコットの移植の為の穴掘りをして疲れた、今年の春は雨が多くて体がなまっているのだろう。 明日は、畑を耕さなければならないし今回は、ここまで次回をお楽しみに。
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絵画鑑賞 その二 好みの問題

2011年02月18日 11時05分12秒 | 芸術鑑賞

"Reclining Nude" 1929. Oil on Canvas. (40 x 80 inches).
Hokkaido Museum of Modern Art, Sapporo, Japan.


こんな事をするとクニヨシ・ファンから叱られるかも知れないが、「ダダ」以来何でもござれ
の美術、芸術界のこと、これくらいのこと大したことでは無いでしょう。

宙に浮かぶ傘とフリーズした裸婦、一瞬の時をキャプチャーした様に見えます。 クニヨシの
作品は奥行きがあるだけに、どっちの方向から来てどちらの方向に落ちていくか、不思議な
感覚になります。 それでいて色使いやマテリアルが古いので、逆に重圧な感じを残した
形になり時代錯誤の錯覚のなか、近代的な絵画に変身したように思えます。

抽象画の父とも言われるカンディンスキーの有名な話ですが、ある日外出から帰って来て、
アトリエのドアを開けた彼は突然目に飛び込んできた強烈な絵に驚きました、よく見ると
それは彼が以前に描いていた作品が無造作に逆さまに置かれていたのでした。


Yasuo Kuniyoshi in his studio, 1940 Oct. 31

1940年、ニュー・ヨークのアトリエで”上下逆のテーブルとマスク”を描いているクニヨシ。
Physical Details: photographic print: 1 item: b&w; 20 x 25 cm.
Creator: Max Yavno, photographer
Description: Kuniyoshi in his studio, at 30 East Fourteenth St. in New York, N.Y., photographed for the Federal Art Project Photographic Division. Kuniyoshi is working on his painting Upside Down Table and Mask
Identification on verso (handwritten and stamped): New York City W.P.A. Art Project; Photography Division; 110 King Street
Negative No.: 5353-8; Date: 10/31/40; Photographer: Yavno; Title: Y. Kuniyoshi; Location: 30 E. 14 St., Manh.; W.P. No.: 1 ; O.P. No.: 65-1-97-2063.
Forms part of: Federal Art Project, Photographic Division collection circa 1920-1965 bulk 1935-1942
Citation: Yasuo Kuniyoshi in his studio, 1940 Oct. 31 / Max Yavno, photographer. Federal Art Project, Photographic Division collection, Archives of American Art, Smithsonian Institution.
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絵画鑑賞 その一 A Modern Psyche

2010年10月22日 22時35分38秒 | 芸術鑑賞


今年の夏、一時期ネットオークションにハマっていた。
幸運にもその時に出会ったのが、このドローイングである。
若い女性のペン画であった。

“モダン サイキ”(A Modern Psyche) と名付けられたこの絵は、1913年とあるので、ホボ100年前の作品である。当時の女性像としては、かなりモダンな画風ではないかと思われる。

ヘアスタイルは、なんとなくロートレックのポスターに出てくる女性たちのに似ている気がする。髪を高くもりあげたスタイルをリボンで束ねている。
ちょっとセクシーな目元、口元は気に入っているところだ。
首が強調されているおかげで、全体的に格調高く仕上がっていると思う。

近くで見ると一度鉛筆で下書きをしているようである。しかしペンで描いているときは、かなりのスピード感がある、この勢いがアクセントになっている。
一見ラフスケッチぽく見えるように計算された演出のドローイングである。

気になるのが鼻の先のラインである。
下書きの鉛筆の線は、柔らかく曲線で処理されているけれどペンで描かれた黒インクの線は区切れた直線である。鉛筆の線をペンで追っていたなら、少し違った雰囲気の女性になっていただろう。そうするとヘアスタイルが合わなくなるかもしれない。

口紅の艶をペンの巾、一本分を抜いただけで表しているところを見るとかなり熟練した腕を持っているように見える。100年前のドローイングとは思えない若い感覚の魅力的な絵だと思う。

作者の名前は、Elsie M. Tendler とある。ネットで検索してみたが、大した結果は得られなかった。多分その他多くの無名画家の一人であろう。
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絵画鑑賞

2010年10月22日 18時55分59秒 | 芸術鑑賞


自慢ではないが貧乏絵描きをしている。
若い時から貧乏絵描きを希望し自称していたのであるが、
私の人生の中で数少ない夢が叶った案件の一つである。

エンゲル係数は高いが、別に不便を感じたことはない。
今まで何度か余裕のあった時期もあるけれど、そういったときは往々にして
無駄遣いをしている。職業柄大した資金を必要としないことは幸いである。

北カリフォルニアの寒村にアトリエを構えていると得られる環境の割には必要経費が、かなり抑えられる。田舎でも大して不自由なく暮らせるし、自由が多いので制作環境は著しく良い。
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