で、チョコレ-トヒルを見た後は、来た道を少し先まで進んでから右折して、海岸通りに出て海沿
いにロボックに戻ることを想定していた。
最初の重要な分岐点はすぐそばにあることが分かっていたので、そこは確信をもって右折できたし、その後も暫くは、途中で船の形をした変なレストランとかもあり、
依然として珍しいままだったし、退屈しない
気持ちの良い平らな道が続いていた。
民家の近くでは簡単なスト-ルで西瓜やその他のカットフル-ツを売っているのが目についたが、今にして思えば止まって食べれば良かったと、思い返している。途中の畑や、道路補修用資材の画像が以下になる。
ボホ-ルとパングラオを含めた走破経路は以下の赤線の部分だ。
国中が5月に向けた大統領選挙の真最中だったので、選挙カ-が頻繁に通る度に、おそらくタガログ語で何か叫んでいるが、途中明らかに、numero cinco と言っていたので、スペインの影響の激しさが伺われた。cinco が通じるなら、他の相当な数の単語も通じるのは間違いないいだろうし、具体的には覚えていないが、こんなものまでと驚くような単語さえスペイン語が使われている国だ。
フィリピンの地名は、ほとんどスペインに由来すると思う。フィリピン第三の町であるダバオは大きく南部と北部に分かれ、それぞれ ダバオ del sur と ダバオ del norte と、そのままスペイン語で表記されるほどだ。350年のスペイン植民地支配の影響はやはり想像以上に大きい。早い話、フィリピンは日本の近くにあるメキシコ的な国だと思えば妥当だろう。
あきらかなメスティ-ソの数も多いし、アメリカの植民統治が始まっても、支配階級は依然としてスペイン語を話していたと言われて居るほどだ。
で、予定の経路は前掲の地図にある青いル-トだった。
まずチョコレ-トヒルをロボックと反対方向に少しだけ行き過ぎてから右折する。(この場所はきちんと右折できた)
次の大きな分岐点で再度右折して海岸に出る。そこで更に右折して海岸沿いをタグビララン方面に走り、ロボック川に着いたら到着日に通った道でホテルに帰るという、右回りの単純な行程だったが、
それが何故か出来なかった。
最大の理由は今にして思えば、フィリピンの田舎では英語が通じないことだろう。ボルネオの田舎でも英語は通じなかったので、驚く事でもないが、言葉が通じてほしい場所ほど英語が通じないのが常で、とても困ることになる。そもそも、フィリピンでは皆が英語を理解するなどというのは嘘だ。然も、話せても間違いだらけの英語でしかないので、フィリピンに英語留学する人がいるらしいが、恐ろしいことだ。
途中に民家はちらほらとあるものの、気軽に道を聞けるような人の姿はない。ガソリンスタンドがあったので、助かったと思って給油ついでに道を聞いても英語が通じない。同じように給油に立ち寄った若者のグル-プに聞いても英語は通じない。
仕方ないので、そのまま先に進んで、気が付くと明らかに分岐点を通り越して、大きな貯水池まで来ているので
さすがにUタ-ンして元来た道を慎重に戻ると、結局分岐点が見つからないまま同じガソリンスタンドまで戻ってしまった。
無駄とは知りながら再度道を聞いて、それでも矢張り話が通じないので、改めて前進すると、再び同じ貯水池に到達するようなありさまで、 同じ地点を何度も行ったり来たりしていることが次第に判ってきてた。貯水池の画像はすべてこの衛星画像の場所で撮られたものだ。
発音の問題もあったかも知れない。以下の地図で緑枠の部分だ。 この地図ではシエラブロ-ンズとなっている途中の町、スペイン語ではシエラブリョ-ネス、またはシエラブジョ-ネスと発音するので、自分では道を聞くときにブリョ-ネスと発音したのを覚えている。だけど、シエラで解るだろうと、シエラは山地の意味だし、
いずれにせよ、そのままでは分岐点を探すことは出来ない、あるいは、そのような分岐点は存在しないとの判断を下した。この時点で何故かGPSの信号も途絶えていたからだ。(後述する)
更に、もうひとつの理由もあったかもしれない。道路の照り返しが激しくて猛烈な体感温度を経験していたためだ。特に貯水池の近辺は木陰などないむき出しの大地で、恐らく40度以上はあったのではないだろうか。フィリピンの道路はボルネオの道路と違って、大部分がコンクリ-ト舗装なので、表面が白くて実質上の鏡面反射仕様と言えるほどすさまじい照り返しを受ける。