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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

中野非常勤保育士争議勝利

2008年07月11日 | 格差社会
 非正規職員の闘いの方向性を示唆する
 ■ 「中野非常勤保育士争議」の柔軟で原則的闘い
 =講演 「中野保育士雇い留め裁判勝利判決から職場復帰までの軌跡」

原告・福家久美子さん

 これまで負け続けていた非正規職員の「雇い留め」裁判、労組幹部や弁護士も腰を引くなかで、4人の女性は決然と立ち上がり、新たに組合を結成し、その運動と裁判闘争を結合し、広範な支持を広げ、見事に勝利しました。どうしてこんなことができたのでしょうか。そこには、私たち「解雇裁判」にも適用できるセオリーがあるように思います。

■私は「お別れ会」にどうしても出られなかった
 04年3月31日、非常勤保育士28名全員が解雇された。私もその一人だった。保育園で「お別れ会」があったが、私はどうしても出られなかった。三ヶ月後、私は保育園に遊びに行った。私を見た子どもが「先生、どこに行っていたんだよ」といってよってきた。子どもは私が解雇されたことは知らない。まるで私がどこかに行っていて、いま戻って来たように感じているのだ。
=講演で福家さんがこのことを話したとき、涙を浮かべていたように私には見えた(K)。

■組合の結成
 その三年前の01年2月、「中野区の非常勤解雇計画」の対応をめぐる中で、私たちは東京公務公共一般労働組合中野支部を結成した。
=解雇される前に、自前の労働組合が結成されたのは、使用者との団体交渉など、その後の運動の展開を考えると、大きかったようだ。ちなみにこの組合はひとり加入でき、いま話題の「青年ユニオン」なども加盟団体(K)。

■解雇される前に、東京地裁に提訴
 04年3月11日、4人の非常勤保育士は「解雇無効による地位確認および賃金、損害賠償の支払い」を求め、地裁に提訴した。

■東京都労働委員会へ不当労働行為救済申し立て、そして和解、就労へ
 04年10月18日、都労委に、区当局の組合つぶしや不誠実な団交等を止めるよう申し立てた。
 この都労委闘争ははじめから「判決だけで全面決着とはなりがたい、展開を睨み、当局を運動で追い込みつつ、最終的には、解決の着地点を都労委に置く」という戦略的位置づけを行っていた。都労委命令の引き出しを優先に置かず、和解の場に当局を引き出すという戦略は維持された。
 特にここでは労働側委員の奮闘が大きく、高裁勝利判決を受け、最終的な和解の成立(08年3月31日)となった。そして、区長の謝罪、翌日からの就労となった。
=都労委への申し立てと裁判闘争を同時に行っていくという発想はすばらしい。これも組合という闘争母体があったからだと思う(K)。

■支援組織と運動の広がり
 05年6月、東京地方争議団共闘会議に加入。06年4月中野争議を勝たせる会の発足、同年5月中野区保育闘争支援共闘会議が発足した。
 産業別闘争と自治体リストラと闘う全国の仲間と結びついて勝利を切り開いてきた。数は力だと、争議中も組合員の拡大を行い、団体交渉も積極的に行ってきた。
 闘うことをやらなければ勝てない。署名活動を行い、各集会を成功させた。

■区庁舎の職員の態度が好意的になってきた
 私たちは、やれることはすべてやろう、やれないことは気合いで乗り越えようという気持でやってきた。毎週行った区庁舎前宣伝と庁内机上配布行動をとおして、また、判決を受けて、はじめ敵対的だった職員の態度が変わってきた。「争議ニュース」の区内の新聞折り込みは、当局には利いたようだ。

■裁判所に対する働きかけ=書記官も変わってきた
 毎月隔週の木曜日、高裁前朝宣伝行動を行い、ビラを配布後、書記官要請を行い、いろいろな人の意見を持っていった。徐々に書記官の態度が好意的になってきた。

■最後に「解雇裁判」について
 解雇されるまで、私は社会のことをまるで知らなかった。知ろうともしなかった。組合の学習会でいろいろ知った。私は「君が代」は子どもの卒業式で歌ってきた。いまは、先生たちは子どもを大切に思っているから、闘っているのだと思っている。めげずにやって下さい。

 「君が代・強制」解雇裁判通信=報告集会・総会特集号 第79号(2008年7月8日)から

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