1980年代後半、あるマンモス団地の中の区立小学校での卒業式をめぐる出来事。
その小学校では、卒業生全員がお揃いの紺のブレザーを着ることになっている。無い子は(持ってない方が当たり前)おとうさんやおにいさんから借りてくるのだそうだ。
式の前日に知って、あわてふためく母親のエッセイ(後半部分)を紹介します。
「よく考えなよ、児童を『みんなおそろい』にして壇上から見下ろして、気分がよいのはいったい誰なのよ。借りても揃えろ、というのは見栄をはれ、ということなんだよ。児童と親とに見栄をはらせて、そのじつ、手前の見栄を満足させようとしているのは、だれなんだ」
ヤツは押し黙った。頭の中で、いろんなことを考えているのだろう。瞳がきょときょとせわしげに上下した。
「借りるのダメなら、それなら、買ってくれる?」
「おう、買ってあげるよ。おまえが心底ほしいなら、買ってあげる。死にそうなくらいほしいなら、買ってあげる。たった1回のために大変な無駄遣いだけど、それを承知した上で、それでもなお欲しいなら買ってあげる。"先生に言われたから、欲しくないけど買いたい"のでなければね。」
でもその前に、「自分はいつも着ている服で行く」と、どうして堂々とした考え方ができないのかなあ。はげるに決まっているメッキのころもを、なぜ身につけたがるのだろう。
校長の方針と、自己主張の強い母親のはざまで、ヤツの懊悩はいよいよ深まっていく。そのとき、電話が鳴った。ヤツのクラスメートの母親である。
「わたしさ、校長先生のやり方、納得できなくてさ」
「わかる、わかる。うちだってそうよ、ヤツなんか落ち込んでいる」
「思い切って、教育委員会に電話したのよ、北区教育委員会」
「大胆ねえ、そういう方法があったんだ。なんといってた」
「卒業式の衣服は、各校長に一任しています、とけんもほろろ」
「見栄っ張りの校長の意のままに、まかせてますと」
「卒業式というのはさ、区議やら都議やら偉い人が来るんだよね。そういう来賓のために、子供たちを『みんなお揃い』にするんだよ、ほら、校長の株があがるでしょう」
借り着でお揃いつくらせて、あがる株って、どんな株だろう。きっとスがいってまずいだろうな。ちょっと飛躍するけど、借り着させてまで強硬におそろいにさせたがるひとって、軍国主義者のにおいがしません?強圧的に民を意のままに従わせたがるヤカラ。
そして、卒業式当日。
昨夜おそくまで、議論白熱したわが家族会議は、とうとう合意点を見いだせなかった。
「ねェ、Mさんちにブレザー借りに行っていい?」
寝起きざまに、ヤツ、いきなり半泣きである。
「まだそんなこと言ってる。借りてとりつくろうのはだめ、とあれほど言ったのに。そのかっこうで行きなさい」
昨日、
「買って欲しいなら、そう決断しなさい、デパートの閉店時間まえに」
と何回か言ってやったのに、ヤツは決断できなかった。つつましく育っているから、親の金だから無駄遣いしていい、とは思えなかったのだろう。ヤツ自身が、ブレザー代を無駄な出費と認識しているのである。
仲良しの友達がふたり、ヤツをむかえにきた。ふたりのブレザーを見て、わたしはびっくり仰天した。どちらも左右の肩がずるっと落ちていて、ひとりなど袖をおりまげて安全ピンで抑えているていたらくである。その珍妙なかっこうをしみじみ見てたら、わたし、涙が出ちゃった。
なんというむごいことを、させるのだろう。ここまでさせるかの校長、エセ教育者を、私はこころの底から憎みます。
「オレ、卒業式行かない」
ヤツは半泣きで言った。ブレザーなしで、出席する勇気がないという。
痛い、痛い。胸が痛い。
担任から電話があった。
「卒業式休む、と聞いたものですから」
「子どもというものは、紺のブレザー着用、と言われれば、着用しなければ来るな、といわれたも同然なんですよ。」
不覚にも涙が吹き出てしまい、もうそれ以上、口をきけなくなってしまった、わたし。ただ、担任の話は聞くことが出来る。担任自身も、校長の決定と教え子の欠席の谷間で、立ち往生している気配が濃厚だった。
後日、卒業式当日撮影された卒業写真が送られてきた。ヤツの顔は、なかった。ヤツの胸に、この悲しい出来事は、永遠に刻まれることだろう。
ひれ伏してヤツに謝りたくなった衝動を、わたしは両の足を踏ん張って、おさえこんだ。
北区の区長に言っておく。
こんなヒトデナシ校長は野放しにしないで、座敷牢に囲っておきな。
〔下田治美『母親ってやつは』(角川文庫)より〕
…この小学校、今もあるんだろうか。もう今はこんなこと行われていないと思うけど。
卒業式って、いずこでも大人が子どもを枠にはめる場として使われるものなんですね。
その小学校では、卒業生全員がお揃いの紺のブレザーを着ることになっている。無い子は(持ってない方が当たり前)おとうさんやおにいさんから借りてくるのだそうだ。
式の前日に知って、あわてふためく母親のエッセイ(後半部分)を紹介します。
「よく考えなよ、児童を『みんなおそろい』にして壇上から見下ろして、気分がよいのはいったい誰なのよ。借りても揃えろ、というのは見栄をはれ、ということなんだよ。児童と親とに見栄をはらせて、そのじつ、手前の見栄を満足させようとしているのは、だれなんだ」
ヤツは押し黙った。頭の中で、いろんなことを考えているのだろう。瞳がきょときょとせわしげに上下した。
「借りるのダメなら、それなら、買ってくれる?」
「おう、買ってあげるよ。おまえが心底ほしいなら、買ってあげる。死にそうなくらいほしいなら、買ってあげる。たった1回のために大変な無駄遣いだけど、それを承知した上で、それでもなお欲しいなら買ってあげる。"先生に言われたから、欲しくないけど買いたい"のでなければね。」
でもその前に、「自分はいつも着ている服で行く」と、どうして堂々とした考え方ができないのかなあ。はげるに決まっているメッキのころもを、なぜ身につけたがるのだろう。
校長の方針と、自己主張の強い母親のはざまで、ヤツの懊悩はいよいよ深まっていく。そのとき、電話が鳴った。ヤツのクラスメートの母親である。
「わたしさ、校長先生のやり方、納得できなくてさ」
「わかる、わかる。うちだってそうよ、ヤツなんか落ち込んでいる」
「思い切って、教育委員会に電話したのよ、北区教育委員会」
「大胆ねえ、そういう方法があったんだ。なんといってた」
「卒業式の衣服は、各校長に一任しています、とけんもほろろ」
「見栄っ張りの校長の意のままに、まかせてますと」
「卒業式というのはさ、区議やら都議やら偉い人が来るんだよね。そういう来賓のために、子供たちを『みんなお揃い』にするんだよ、ほら、校長の株があがるでしょう」
借り着でお揃いつくらせて、あがる株って、どんな株だろう。きっとスがいってまずいだろうな。ちょっと飛躍するけど、借り着させてまで強硬におそろいにさせたがるひとって、軍国主義者のにおいがしません?強圧的に民を意のままに従わせたがるヤカラ。
そして、卒業式当日。
昨夜おそくまで、議論白熱したわが家族会議は、とうとう合意点を見いだせなかった。
「ねェ、Mさんちにブレザー借りに行っていい?」
寝起きざまに、ヤツ、いきなり半泣きである。
「まだそんなこと言ってる。借りてとりつくろうのはだめ、とあれほど言ったのに。そのかっこうで行きなさい」
昨日、
「買って欲しいなら、そう決断しなさい、デパートの閉店時間まえに」
と何回か言ってやったのに、ヤツは決断できなかった。つつましく育っているから、親の金だから無駄遣いしていい、とは思えなかったのだろう。ヤツ自身が、ブレザー代を無駄な出費と認識しているのである。
仲良しの友達がふたり、ヤツをむかえにきた。ふたりのブレザーを見て、わたしはびっくり仰天した。どちらも左右の肩がずるっと落ちていて、ひとりなど袖をおりまげて安全ピンで抑えているていたらくである。その珍妙なかっこうをしみじみ見てたら、わたし、涙が出ちゃった。
なんというむごいことを、させるのだろう。ここまでさせるかの校長、エセ教育者を、私はこころの底から憎みます。
「オレ、卒業式行かない」
ヤツは半泣きで言った。ブレザーなしで、出席する勇気がないという。
痛い、痛い。胸が痛い。
担任から電話があった。
「卒業式休む、と聞いたものですから」
「子どもというものは、紺のブレザー着用、と言われれば、着用しなければ来るな、といわれたも同然なんですよ。」
不覚にも涙が吹き出てしまい、もうそれ以上、口をきけなくなってしまった、わたし。ただ、担任の話は聞くことが出来る。担任自身も、校長の決定と教え子の欠席の谷間で、立ち往生している気配が濃厚だった。
後日、卒業式当日撮影された卒業写真が送られてきた。ヤツの顔は、なかった。ヤツの胸に、この悲しい出来事は、永遠に刻まれることだろう。
ひれ伏してヤツに謝りたくなった衝動を、わたしは両の足を踏ん張って、おさえこんだ。
北区の区長に言っておく。
こんなヒトデナシ校長は野放しにしないで、座敷牢に囲っておきな。
〔下田治美『母親ってやつは』(角川文庫)より〕
…この小学校、今もあるんだろうか。もう今はこんなこと行われていないと思うけど。
卒業式って、いずこでも大人が子どもを枠にはめる場として使われるものなんですね。
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