《教科書ネット21ニュースから》
◆ 人種差別撤廃をめぐる「昔の日本」と「今の日本」
◆ 日本、ベルサイユで人種差別撤廃を提起
アメリカでは、白人警官による「事件」を機に、黒人差別への抗議としてBlack Lives Matterが叫ばれている。私の関心は、どうしても、日本の人種差別撤廃をめぐる今昔にあるので、その一端を綴って責めを塞ぎたい。
「国際社会で初めて人種差別撤廃を訴えたのは日本だ」と叫ぶのは、何故か右派の人々の「十八番」のようだ。1919年2月、日本政府代表が、ベルサイユで「人種差別撤廃」を提起したのは事実である。
日本は、第一次世界大戦では戦勝国であり、勇躍パリ講和会議に臨み、そこで発足する「国際連盟」では常任理事国の地位も得る。
牧野伸顕代表は、「締約国は、…すべての国家の人民に対し、その人種及び国籍の如何により、法律上または事実上何らの区別を設けることなく、一切の点において均等公平の待遇を與うべきことを約す」との文言を、連盟規約に加えるよう求めた。
残念ながら実現しなかった。
若き外交官・吉田茂(戦後、首相に)も、随員として参加(牧野は吉田の岳父)。
なぜ日本政府は「人種差別撤廃」を提起したのだろうか。
明治以降、多くの人口を抱える貧しい日本は、一つの活路を海外移(住)民に求めた。
かの『マンガ嫌韓流』(2005年)の一コマに、「(日韓併合後)貧困層の人々が、貧しい朝鮮から豊かな日本に移住しようと渡ってきた…」とある。
しかし、韓国併合の1910年、在日朝鮮人は2、527人(1910年統計欠のため1911年)に対し、在朝日本人は171、543人である。
両者が逆転するのは、15年戦争期に入った1935年で、以降は労務動員による強制連行で激増する。
『マンガ嫌韓流』の話は、受けを狙った「フェイク・ニュース」である。
朝鮮などの植民地では「帝国」の威光を背にできるが、米国などではそうはいかない。有色人種として厳しい差別・冷遇に晒される。
20世紀初頭の「日米紳士協約」は、ほかでもない日米移民摩擦の所産である。
事態は一向に改善されないので、国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込み、それによって日本人移民を助けようと、送り出し国政府の「親心」からの発信だったのである。
それは功を奏さず、やがて排日移民法、そして日本の真珠湾奇襲を受けて、1942年2月の米大統領の「日系人強制収用令」に至る。
戦後、1983年の連邦議会・特別委の勧告を受けて、1990年に大統領の「謝罪の手紙」と「2万ドルの補償」がなされたことは周知の通り。
◆ 未完の占領改革、国民とPeople
1945年8月、日本の「ポツダム宣言」受諾により、日本は、連合国(実質は米国)の占領下に置かれる。
米国の事前研究には、「朝鮮人は、ほとんど例外なく社会的地位の低い明白な少数者集団である。彼らは、日本人に見下され、少なくとも一度、国家的災害が日本を襲った時にスケープゴートとなった〔関東大震災時の朝鮮人虐殺のこと〕」とある。
46年2月13日、日本政府に示されたマッカーサー憲法草案をもとに新憲法が制定される。
前提となる重要文書には、「日本臣民及び日本の統治権の及ぶ範囲にいる全ての人の双方に対して、基本的人権を保障する旨を憲法に明文で規定する…」とある。
そして、草案には「すべての自然人は、法の前に平等である」(13条)、さらに「外国人は、法の平等な保護を受ける」(16条)とあった。
草案提示以降は検閲により秘密とされ、一般の人が憲法改正を知るのは、3月6日、幣原喜重郎内閣が「憲法改正草案要綱」を発表した時である。
そこには、「第13 凡そ人は、法の下に平等であって…」とあったが、憲法14条は「すベて国民は、法の下に平等であって…」となった。もっとも、英文は「All of the people are equal…」である。
おそらく、日本側の「国民」と、占領当局のpeopleは、「同床異夢」のまま、外国人の人権保障は「未完の占領改革」に終わったのであろう。
2005年に発表した「改憲試案」では、憲法の「国民」は、昨2019年、101歳で亡くなった中曽根康弘元首相が、いずれも「すべて人は」とか「何人も」に変えられていて驚いたが、現在の改憲論議では何故か話題にもならない。
◆ 国籍差別の「復活」と「削除」
1952年4月28日、対日平和条約の発効により、日本は占領を解かれ、主権を回復した。
日本政府は、同日を期して、在日コリアンなどの旧植民地出身者は、「日本国籍」を失い「外国人」になったと宣告。4月30日公布の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」で、まず戦後補償から除外した。
この差別を描いたのが大島渚『忘れられた皇軍』(1963年)である。
その後、国民年金法、児童手当3法などが制定されるが、悉く「国籍条項」により差別される。
この「自国民至上主義」に、一石を投じたのは「難民とサミット」だった。
1975年4月のベトナム戦争終結と「難民」の流出、11月の主要国首脳会議(サミット)の発足である。
仏紙・ルモンドの「在日朝鮮人への差別が、日本の難民受け入れ消極策の背景に…」(78.5)との指摘もあり、日本政府は、人権諸条約の批准を余儀なくされる。
第二次大戦後に生まれた「国際連合」は、1948年12月の総会で「世界人権宣言」を採択、それを踏まえて多くの人権条約を制定する。
第一号は「人種差別撤廃条約」(1965年)で、前文には「国際連合が植民地主義並びにこれに伴う隔離及び差別のあらゆる慣行を非難してきた…」とある。
日本は国連中心外交を唱えながら、人権条約は批准していなかった。
政府は重い腰を上げて、1979年に国際人権規約を、1981年に難民条約を相次いで批准した。
難民条約批准に伴って前述の国民年金や児童手当の「国籍条項」が削除され、内外人平等が実現した。一握りの難民が、60万在日コリアンの差別解消に「貢献」したのである。
◆ 国連人権機関を無視?
国連には重要な9の人権条約があり、締約国は、定期的に国連に報告書を提出し、各条約に基づき設置された委員会による審査があり、その結果は「総括所見」として公表される。
日本は、「移住労働者権利条約」以外の条約はすべて批准し、定期報告と委員会による審査を受けている。
私が係る高校無償化からの朝鮮高校除外の問題を例に見ると、
①2013年の社会権規約委の日本審査後の「総括所見」では、「…差別の禁止は教育のすべての側面に完全且直ちに適用され、(高校無償化)が朝鮮学校に通学する生徒にも適用されるよう要求する」とされた。
②2014年の人種差別撤廃委の「総括所見」は、「朝鮮学校に対して(高校無償化)制度による利益が適切に享受されることを認め、地方自治体に朝鮮学校に対する補助金の提供を再開しあるいは維持することを促すことを締約国に奨励する。…締約国が、ユネスコの教育差別禁止条約(1960年)への加入を検討するよう勧告する」とある。
そして③2018年の人種差別撤廃委の「総括所見」では、「(高校無償化)において朝鮮学校が差別されないことを締約国が確保するという前回の勧告を再度表明する」とある。
日本は無視しているのである。
各条約には、条約の定める権利を侵害された個人が国連に通報し、各委員会が審査の上「見解」又は「勧告」を各締約国に通知する「個人通報制度」がある。この制度は、別途それを受諾するための手続を取る仕組みである。
自由権規約については116ヶ国、女子差別撤廃条約は114ヶ国が受諾(2020、3)しているが日本は全く受諾していない(韓国は4条約について受諾)。
ベルサイユでの日本の提案は功を奏さなかったが、戦後の国連は、「世界人権宣言」以降、人権の伸長、差別撤廃のため人権諸条約を制定、各人権機関がさまざまな活動を展開している。
しかし、日本は、その勧告は受け入れず、折角の個人通報制度もすぺてパスしている。歴史の女神も苦笑しているに違いない。
『子どもと教科書全国ネット21NEWS 133号』(2020年8月26日)
◆ 人種差別撤廃をめぐる「昔の日本」と「今の日本」
田中宏(たなかひろし・朝鮮学校「無償化」排除に反対する会・一橋大学名誉教授)
◆ 日本、ベルサイユで人種差別撤廃を提起
アメリカでは、白人警官による「事件」を機に、黒人差別への抗議としてBlack Lives Matterが叫ばれている。私の関心は、どうしても、日本の人種差別撤廃をめぐる今昔にあるので、その一端を綴って責めを塞ぎたい。
「国際社会で初めて人種差別撤廃を訴えたのは日本だ」と叫ぶのは、何故か右派の人々の「十八番」のようだ。1919年2月、日本政府代表が、ベルサイユで「人種差別撤廃」を提起したのは事実である。
日本は、第一次世界大戦では戦勝国であり、勇躍パリ講和会議に臨み、そこで発足する「国際連盟」では常任理事国の地位も得る。
牧野伸顕代表は、「締約国は、…すべての国家の人民に対し、その人種及び国籍の如何により、法律上または事実上何らの区別を設けることなく、一切の点において均等公平の待遇を與うべきことを約す」との文言を、連盟規約に加えるよう求めた。
残念ながら実現しなかった。
若き外交官・吉田茂(戦後、首相に)も、随員として参加(牧野は吉田の岳父)。
なぜ日本政府は「人種差別撤廃」を提起したのだろうか。
明治以降、多くの人口を抱える貧しい日本は、一つの活路を海外移(住)民に求めた。
かの『マンガ嫌韓流』(2005年)の一コマに、「(日韓併合後)貧困層の人々が、貧しい朝鮮から豊かな日本に移住しようと渡ってきた…」とある。
しかし、韓国併合の1910年、在日朝鮮人は2、527人(1910年統計欠のため1911年)に対し、在朝日本人は171、543人である。
両者が逆転するのは、15年戦争期に入った1935年で、以降は労務動員による強制連行で激増する。
『マンガ嫌韓流』の話は、受けを狙った「フェイク・ニュース」である。
朝鮮などの植民地では「帝国」の威光を背にできるが、米国などではそうはいかない。有色人種として厳しい差別・冷遇に晒される。
20世紀初頭の「日米紳士協約」は、ほかでもない日米移民摩擦の所産である。
事態は一向に改善されないので、国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込み、それによって日本人移民を助けようと、送り出し国政府の「親心」からの発信だったのである。
それは功を奏さず、やがて排日移民法、そして日本の真珠湾奇襲を受けて、1942年2月の米大統領の「日系人強制収用令」に至る。
戦後、1983年の連邦議会・特別委の勧告を受けて、1990年に大統領の「謝罪の手紙」と「2万ドルの補償」がなされたことは周知の通り。
◆ 未完の占領改革、国民とPeople
1945年8月、日本の「ポツダム宣言」受諾により、日本は、連合国(実質は米国)の占領下に置かれる。
米国の事前研究には、「朝鮮人は、ほとんど例外なく社会的地位の低い明白な少数者集団である。彼らは、日本人に見下され、少なくとも一度、国家的災害が日本を襲った時にスケープゴートとなった〔関東大震災時の朝鮮人虐殺のこと〕」とある。
46年2月13日、日本政府に示されたマッカーサー憲法草案をもとに新憲法が制定される。
前提となる重要文書には、「日本臣民及び日本の統治権の及ぶ範囲にいる全ての人の双方に対して、基本的人権を保障する旨を憲法に明文で規定する…」とある。
そして、草案には「すべての自然人は、法の前に平等である」(13条)、さらに「外国人は、法の平等な保護を受ける」(16条)とあった。
草案提示以降は検閲により秘密とされ、一般の人が憲法改正を知るのは、3月6日、幣原喜重郎内閣が「憲法改正草案要綱」を発表した時である。
そこには、「第13 凡そ人は、法の下に平等であって…」とあったが、憲法14条は「すベて国民は、法の下に平等であって…」となった。もっとも、英文は「All of the people are equal…」である。
おそらく、日本側の「国民」と、占領当局のpeopleは、「同床異夢」のまま、外国人の人権保障は「未完の占領改革」に終わったのであろう。
2005年に発表した「改憲試案」では、憲法の「国民」は、昨2019年、101歳で亡くなった中曽根康弘元首相が、いずれも「すべて人は」とか「何人も」に変えられていて驚いたが、現在の改憲論議では何故か話題にもならない。
◆ 国籍差別の「復活」と「削除」
1952年4月28日、対日平和条約の発効により、日本は占領を解かれ、主権を回復した。
日本政府は、同日を期して、在日コリアンなどの旧植民地出身者は、「日本国籍」を失い「外国人」になったと宣告。4月30日公布の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」で、まず戦後補償から除外した。
この差別を描いたのが大島渚『忘れられた皇軍』(1963年)である。
その後、国民年金法、児童手当3法などが制定されるが、悉く「国籍条項」により差別される。
この「自国民至上主義」に、一石を投じたのは「難民とサミット」だった。
1975年4月のベトナム戦争終結と「難民」の流出、11月の主要国首脳会議(サミット)の発足である。
仏紙・ルモンドの「在日朝鮮人への差別が、日本の難民受け入れ消極策の背景に…」(78.5)との指摘もあり、日本政府は、人権諸条約の批准を余儀なくされる。
第二次大戦後に生まれた「国際連合」は、1948年12月の総会で「世界人権宣言」を採択、それを踏まえて多くの人権条約を制定する。
第一号は「人種差別撤廃条約」(1965年)で、前文には「国際連合が植民地主義並びにこれに伴う隔離及び差別のあらゆる慣行を非難してきた…」とある。
日本は国連中心外交を唱えながら、人権条約は批准していなかった。
政府は重い腰を上げて、1979年に国際人権規約を、1981年に難民条約を相次いで批准した。
難民条約批准に伴って前述の国民年金や児童手当の「国籍条項」が削除され、内外人平等が実現した。一握りの難民が、60万在日コリアンの差別解消に「貢献」したのである。
◆ 国連人権機関を無視?
国連には重要な9の人権条約があり、締約国は、定期的に国連に報告書を提出し、各条約に基づき設置された委員会による審査があり、その結果は「総括所見」として公表される。
日本は、「移住労働者権利条約」以外の条約はすべて批准し、定期報告と委員会による審査を受けている。
私が係る高校無償化からの朝鮮高校除外の問題を例に見ると、
①2013年の社会権規約委の日本審査後の「総括所見」では、「…差別の禁止は教育のすべての側面に完全且直ちに適用され、(高校無償化)が朝鮮学校に通学する生徒にも適用されるよう要求する」とされた。
②2014年の人種差別撤廃委の「総括所見」は、「朝鮮学校に対して(高校無償化)制度による利益が適切に享受されることを認め、地方自治体に朝鮮学校に対する補助金の提供を再開しあるいは維持することを促すことを締約国に奨励する。…締約国が、ユネスコの教育差別禁止条約(1960年)への加入を検討するよう勧告する」とある。
そして③2018年の人種差別撤廃委の「総括所見」では、「(高校無償化)において朝鮮学校が差別されないことを締約国が確保するという前回の勧告を再度表明する」とある。
日本は無視しているのである。
各条約には、条約の定める権利を侵害された個人が国連に通報し、各委員会が審査の上「見解」又は「勧告」を各締約国に通知する「個人通報制度」がある。この制度は、別途それを受諾するための手続を取る仕組みである。
自由権規約については116ヶ国、女子差別撤廃条約は114ヶ国が受諾(2020、3)しているが日本は全く受諾していない(韓国は4条約について受諾)。
ベルサイユでの日本の提案は功を奏さなかったが、戦後の国連は、「世界人権宣言」以降、人権の伸長、差別撤廃のため人権諸条約を制定、各人権機関がさまざまな活動を展開している。
しかし、日本は、その勧告は受け入れず、折角の個人通報制度もすぺてパスしている。歴史の女神も苦笑しているに違いない。
『子どもと教科書全国ネット21NEWS 133号』(2020年8月26日)
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