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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

サンフランシスコ講和条約の問題点:早すぎた主権回復

2014年08月04日 | 平和憲法
 ◆ 朝鮮現代史から問い直す「四月二八日の意味」
鄭栄桓(明治学院大学教員)

 昨年の四月二八日、安倍晋三内閣は「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を天皇・皇后の隣席のもと開催した。サンフランシスコ講和条約発効の日を「主権を取り戻し、日本を、日本人自身のものとした日」(式典における安倍総理の式辞)と位置づけるこの式典については、各所よりさまざまな批判がなされたが、いま改めて「四月二八日の意味」をいかに問うべきなのかについて、朝鮮現代史・在日朝鮮人史研究の立場から考えてみたい。
 ◆ 本土の主権回復は、沖縄・奄美・小笠原の主権喪失と引き換え
 式典開催に際して「四月二八日の意味」を批判的に問うた声のうち、最も代表的なものは沖縄からの批判であろう。
 「本土のマジョリティー(多数派)の主権回復は、沖縄・小笠原・奄美という本土から離れたマイノリティー(少数派)の主権喪失と引き換えに実現したもの」(『沖縄タイムス』2013年4月28日付社説)という、いわば「沖縄=主権未回復の地」という視角からの批判といえる。こうした批判に直面したため、安倍総理は式辞において沖縄の「主権回復」が本土より20年遅れたことに言及し、「沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く、思いを寄せる努力をなすべきだ」と述べるに至った。
 もちろん、沖縄からの批判は単に「復帰」が遅れたことに目を向けよというものではなかった。「過重な基地負担を解消し、日米地位協定の改定を実行することなしには、沖縄の主権が完全に回復されたとはいえない」(『沖縄タイムス』2013年4月29日付社説)という認識に根ざし、現在の米軍と本土・沖縄の非対称な関係を問題としたものだった。
 しかし安倍総理はこの問題に全く触れず、むしろ米軍の「トモダチ作戦」を例にあげて「かつて、熾烈に戦ったもの同士が、心の通い合うこうした関係になった例は、古来、稀であります」と戦後の日米関係を讃えた。沖縄への言及が単なるリップ・サービスに過ぎず、むしろ米軍との関係の「深化」を願う安倍内閣の姿勢をよく示している。
 ◆ 朝鮮戦争最中に調印・発効された講和条約
 しかしながら、サンフランシスコ講和条約の問題点はこれだけに留まらない。まず触れておかねばならないのは、朝鮮戦争の問題である。言うまでもなく講和条約は朝鮮戦争の最中に調印・発効・した。第二次世界大戦という戦争の終結プロセスが、新しいアジアの熱戦の渦中で進行したのである。「四月二八日」の講和と日米安保条約の発効は、こうしたアジアにおける熱戦の構造を固定させることになった。
 沖縄の基地問題についても、本土との格差や地位協定の差別性だけではなく、むしろ基地の銃口が誰に向けられているのかという問題にこそ関心が払われるべきであろう。「四月二八日の意味」を再考するためには、継続する東アジアの戦争を問いなおす視点が求められるといえる。
 安倍政権を批判する論者のなかには、これを戦後日本の「平和と民主主義」からの逸脱と捉える者が少なくないが、日本が朝鮮戦争時から引き続き米国中心の戦争体制の一部分であったことが過小評価されてはならないだろう。
 もうひとつは戦争責任の問題である。むしろ「講和」の本来の意義-第二次世界大戦の終結と平和の実現-を考えれば、「四月二八日の意味」をめぐる議論において最も注目すべき論点は戦争責任・植民地支配責任の問題であるといってもよいだろう。とりわけアジアに対するそれは最も重要な論点であるといってよい。
 ◆ 「早すぎた主権回復」植民地支配の責任は未済
 だが式辞におけるアジアへの言及は「主権回復の翌年、わが国が賠償の一環として当時のビルマに建てた発電所は、いまもミャンマーで、立派に電力をまかなっています。主権回復から6年後の昭和33年には、インドに対し、戦後の日本にとって第一号となる、対外円借款を供与しています」という、戦後日本のアジアへの「貢献」を讃えるものだった(なぜ「賠償」を支払わなければならなくなったのかには一切触れずに!)。
 だが、周知のとおり中国・朝鮮はいずれも講和会議に参加しておらず、他のアジア諸国への賠償も日本の「経済復興」を優先させる米国の冷戦戦略のためわずかに留まった。こうした視点からすると、問題は「四月二八日」の講和が、戦争責任と植民地支配責任の未済にもかかわらず強行された「早すぎた主権回復」だったことにあるといえる。
 この問題を朝鮮現代史に即してもう一歩進めて考えてみよう。1945年以前において朝鮮は日本の植民地支配、つまり「主権」の下にあった。だが45年以後も、日本は朝鮮の主権回復を講和条約まで承認しなかった
 ポツダム宣言第八項はカイロ宣言の履行に言及していたにもかかわらず、45年8月24日の終戦処理会議は「朝鮮二関スル主権ハ独立問題ヲ規定スル講和条約批准ノ日迄法律上我方二存スル」と判断し、結局、1952年4月28日の講和条約発効まで朝鮮の主権は引き続き日本のもとにあるという解釈を政府は採り続けた
 ◆ 講和条約批准まで、日本は朝鮮の「主権」回復を承認せず
 もちろん、この解釈はすでに独立への動きが進む朝鮮では一つのフィクションに過ぎなかったが、在日朝鮮人にとっては絶大な力を発揮した。日本政府は在日朝鮮人の「解放民族」としての要求を封じ込めるために、積極的にこの解釈を利用したからである。
 1948年に朝鮮人児童の日本の学校への就学を命じた背景にもこの政府解釈があった。依然として「日本人」である朝鮮人は朝鮮学校ではなく日本の学校へ通うべきだ、という理屈である。
 その一方で外国人登録令においてのみ「外国人とみな」し、強制送還や登録などを強制した。朝鮮の主権回復の否定は、こうした日本政府の在日朝鮮人に対する支配の戦後的な再編を担保する論理だったのである。
 ◆ 在日朝鮮人の多くが無国籍状態に
 在日朝鮮人のこうした「戦後」の歴史からみると、「四月二八日」は講和条約に伴う日本国籍の喪失措置のもと、支配の戦後的な再編のもとに最終的に朝鮮人が組み込まれた日であった。
 しかも日本が国籍国(南北朝鮮)を承認しない状態での国籍喪失措置は、多くの在日朝鮮人を「外国人」どころか無国籍状態におしこめる結果を生み出した。
 このようにみたとき、「『主権回復の日』は[中略]加害者が被害者に責任を転嫁する価値の転倒が起きた不条理の始まりであった」(「時論「主権回復の日」、意味が反対だ」『朝鮮新報』2013年5月1日付、原文朝鮮語)という指摘は妥当なものであると筆者は考えるが、より正確には「不条理の完成であった」といえるかもしれない。
 朝鮮戦争の継続、沖縄の軍事基地化、朝鮮民主主義人民共和国との未「講和」、植民地支配責任の未済など、「四月二八日」が作り出したこれらの歪な構造は、決して過去のものではなく、今なお東アジアを生きる人びとの桎梏となっている。
 日本の「主権回復」という狭隘な視点からは決して見えてこない、こうした「四月二八日の意味」をいま改めて掘り下げるべきであろう。(ちょん・よんふぁん)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 96号』(2014.6)
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