備中松山城を堪能して再び賀陽ICから岡山道に乗って
倉敷JCTで山陽道に入る。ひたすら西に走って尾道JCTで
6つの島を懸けるしまなみ海道に入った。
四国に入れば、今治はもうすぐだ、四国歩き遍路の
時にも何度か歩いた場所である。
今治城の堀には海魚が泳ぐ。
藤堂高虎像
今治城のつ地は、昔瀬戸内海に面し、「吹揚の浜」と呼ばれてた
砂丘帯であった。築城の名手として名高い藤堂高虎は関が原の
戦功で伊予(愛媛県)の半分20万石を領し、慶長7年(1602)に
この地に築城を始めた。関が原の戦いから2年後のことである。
6年の歳月をかけて城は完成したが高虎は伊勢、伊賀に移り
今治城には養子の高吉が入る。
明治に入って城は取り壊され、残った石垣が往時を忍ばせている。
ここ今治城は前の松山城に山城と変わって海に近いことから
堀には海魚が潮の干満で出入りしているという。
次は愛媛の県庁所在地松山市にある松山城へ。
今治から松山までは40km、のんびり走っていると、ふと先にも
書いた歩き遍路の時に見た三坂峠から見た松山の灯が懐かしく
思い出された。
松山市は大きな町だ。
松山市内にはわが町豊橋と同じ、市電が今も走っている。
松山城は街中の海抜132mの勝山山頂に本丸・中腹に二の丸、
山麓に三の丸(堀の内)を置く、連郭式平山城で敵の侵入を防ぐ
ため、二の丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的に
もめずらしい「登り石垣」が配置されている。
築城主は、先の藤堂高虎と同じく関が原の戦いで戦功をあげた
加藤嘉明が伊予の半分20万石を拝領し、ここに城を築いた。
なんせ広大な敷地だ、山頂まではロープウェイが通っており
それに乗っていくことになる。
本丸まで多くの門をくぐっていくと突然平地が現れ、その向こうに
で~んと本丸が見えた。
本丸の中には木組みの展示があり、興味深く見た。
昔の職人は頭も良いし技もある、重要な部分には多くのこのような木組みが使われている。
市内にっ戻って道後温泉にでも入って温もろうか。と山頭火も言ったとか(ウソです)
石垣名人であった藤堂高虎公のお城だけありますね。
高石垣が、伊賀上野のものと酷似しているのは、
お殿様がどのように指令を出して積んだのでしょうね?
登り石垣は、彦根城でも見られますが、
地味ぃ〜なんでね。(笑)
攻める武将にとっては辛いの何物でもありませんが。
大阪城の大手門控柱の継手も、
特別な継ぎ方で「腰かけあり継ぎ」って言って、
これは腐った柱を後世の方が巧みに考えた代物で、
こちらの元は意味合いが違いますけど、
まるでパズルですよね〜〜。
いつも(^_-)-☆ありがとうです!
余り知らないお城ですが魅力を感じます、
お城は何処も風格があって良いですね(^^♪
種田山頭火さんも温泉に入れば極楽だなぁ
と思ったかも、
かなりびっくりしました!
釘を使うときっと何か影響が出るのでしょうね
昔の人たちは経験値が高い!""ハ(^▽^*)パチパチ♪
藤堂高虎って言う人は意外と変化に対応できる
人なんですね、まぁ戦国の世だから
身代わりが早くないと生き延びていけないんでしょうが・・・
城づくりの名人なんですね。
この同語温泉の近くに種田山頭火の終の棲家が
ありますね、酒と放浪と自由句で人生を
終えた彼も、道後温泉に入ったかも・・・
そうですね、職人技ですね。
釘も使わなかったわけではないですが
和釘と言うものだったです、それよりもはるかに
多く使ったのが閂や木の楔など木と木をうまく
絡めて強固な城を作ったんですね。
今治城・宇和島城は、
海に繋がるお堀が名物でしょうけど、
びわ湖も長浜・坂本・大津・膳所の各お城は、
「水城」だったようで、
地の利を生かしているんでしょうね?
そんな方面から見て、
四国のお城は大海に直ぐに出て行くことが出来、
水軍の船や武器などが残っていたら、
もっと見るべきところが広がりそうですね?
いつも(^_-)-☆ありがとうです。
特に瀬戸内にはそういう仕掛けのある
お城があるようですね、
こうして城を巡っていると、その時々の
城を造る狙いを持っているんですね。