・・タイトルを改めて読むと、ちょっとホラーでしたね。失礼しました。
指とはいっても、指先で、埋めるのはフルートのキーの穴。
これは数か月前に変化してきて、ブログにも書いたか?書かなかったか?
口元をフルートの歌口に埋める、というのは、昨年1月での大きな気付きと変化で、その後の様々な変化のきっかけとなった気付きなのですが、それが指にも。
つまり埋めることが出来る様な柔らかい指、手の状態であることが大切。
この変化の基盤になったのは、やはり先日の音楽家講座で甲野先生に御教えいただいた
「浮き構え」あればこそ。
肩、喉、横隔膜が下がって、フルートの響きが大きく変化したのですが、手指の感覚も著しく変わったのでした。
先に気付いたのは生徒さんのピアノ伴奏をしたとき。
オクターブや音数の多い和音など弾くときは、いつもややこわばり感があったのだなあ、ということに気付いた。
つまり、それが軽減されたから。
それまでは、そのこわばった状が「普通」だったので、こわばりとは認識されていなかった。
それが、なんだか、よくわからないけれど、柔らかくなってのびる指。不思議でした。
フルートのキィに触れる感触も変化し、より穴の中に埋まる感じに。
無意識の脱力信仰は、未だにあって、そいつが何かと邪魔している、ということも再認識。
つまり、硬い手指だから力を抜いて何とかしようとしていたのかも。
でも、それは、とてもよそよそしい関係だ。
それが柔らかくなれば、スルっと穴に埋まって力感なしに密着し繋がり、仲良しに。
リングキーだととてもよくわかる。
でもカバードでも、キーの中央のくぼんだ部分に同様に「埋める」という感覚で触れることが出来る。
落とし穴は、左手人差し指。
連結するためのキーで、小さいということもあり、取り扱いが雑だった。
でも、人差し指は親指のすぐ隣にあり、親指への影響は大。
左人差し指も「埋める」で。
この触れ方を工夫するだけでも、かなり音は変化する。
『浮き構え』による変化で、驚いたのは、キュウリが殆ど力感なく、切れたこと。
鋭い包丁は、それた時に怖いので、切れ味の悪いものでせっせと切っている。
何かの拍子で触れても大丈夫なので。
それが、この『浮き構え』になると、何もしていないのに、よく砥がれた包丁が勝手に切っているような不思議な感覚に。
あまりの不思議さと面白さに、半ばあきれつつ、普段は1本しかサラダに入れないキュウリを2本も切ってしまいました。
・・・・・
これらに付随しての気付きと反省は、やはり「リラックス信仰」。
結果としてのリラックスではなく、主観的思い込みのリラックスは本当に危険だ。
フルートを捧げ持つ構えなのですが、その折、無意識に、この「リラックス信仰」の手となっていました。
つまり手首までしかつながっておらず、先は死んでいる状態。
指先までちゃんと通しておかなくては、なんてことは初期の頃、随分と気を付けていたはずなのに・・
指先を揃えて軽くピンとしてから捧げ持つだけで、ちゃんと指先までが生きた身体に。
茶道における手の動きなどは、良いお手本?
・・とふと思いついて、久々に正座をしてみましたが、とてもラクに。
これまたかつてなかった感覚で、じっとしているのだけれど、内側が跳ね回っているような不思議な感じ。上機嫌な正座。
甲野先生が実際におやりになっている『浮き構え』に比べたら、私のものは、ほんのモドキにすぎないのだけれど、それでも、この効用。
そうそう。バッハのチェロ組曲、1番から5番まで、一気演奏、出来ました。
まずは、リピートはなしにして、計80分。
吹き終わった後の疲れも特にない、というのが、今までと一番違うところ。
このところ、猫とばかり遊んでいたので、あまり練習はしていなかったのに、指はよりまわり、息も続くようになっていた。
もちろん、バッハはバッハでとても崇高なものなのだけれど、誤解を恐れずに言うならば、いつか鼻歌のような感じで演奏したいと思っている。
組曲は舞曲を集めたものなので、案外「鼻歌交じりで」というのもそう悪い捉え方ではないと思っている。
でも、技術が足りなくて、必死でやっているのに「鼻歌風」にしようとしたら、そこに嘘があり、インチキな感じになってしまう。
それくらいなら、そのまま正直に必死さや大変さを伝えた方が、マシである。
ということで、私のバッハはまだまだ生真面目にならざるを得ない。
ピピにご飯やチュールをあげている時の鼻歌のような、上機嫌な身体のままの演奏が理想だけれど、少しではあるけれど、その入り口にさしかかったかな?という手ごたえがありました。
この調子であれば、多分リピートしても、大丈夫そう。
6番は音域が高いこともあり、躊躇していたのですが、こちらも、すっかり他の楽曲と同様に、特に構えることなく吹けるようになってきました。
指とはいっても、指先で、埋めるのはフルートのキーの穴。
これは数か月前に変化してきて、ブログにも書いたか?書かなかったか?
口元をフルートの歌口に埋める、というのは、昨年1月での大きな気付きと変化で、その後の様々な変化のきっかけとなった気付きなのですが、それが指にも。
つまり埋めることが出来る様な柔らかい指、手の状態であることが大切。
この変化の基盤になったのは、やはり先日の音楽家講座で甲野先生に御教えいただいた
「浮き構え」あればこそ。
肩、喉、横隔膜が下がって、フルートの響きが大きく変化したのですが、手指の感覚も著しく変わったのでした。
先に気付いたのは生徒さんのピアノ伴奏をしたとき。
オクターブや音数の多い和音など弾くときは、いつもややこわばり感があったのだなあ、ということに気付いた。
つまり、それが軽減されたから。
それまでは、そのこわばった状が「普通」だったので、こわばりとは認識されていなかった。
それが、なんだか、よくわからないけれど、柔らかくなってのびる指。不思議でした。
フルートのキィに触れる感触も変化し、より穴の中に埋まる感じに。
無意識の脱力信仰は、未だにあって、そいつが何かと邪魔している、ということも再認識。
つまり、硬い手指だから力を抜いて何とかしようとしていたのかも。
でも、それは、とてもよそよそしい関係だ。
それが柔らかくなれば、スルっと穴に埋まって力感なしに密着し繋がり、仲良しに。
リングキーだととてもよくわかる。
でもカバードでも、キーの中央のくぼんだ部分に同様に「埋める」という感覚で触れることが出来る。
落とし穴は、左手人差し指。
連結するためのキーで、小さいということもあり、取り扱いが雑だった。
でも、人差し指は親指のすぐ隣にあり、親指への影響は大。
左人差し指も「埋める」で。
この触れ方を工夫するだけでも、かなり音は変化する。
『浮き構え』による変化で、驚いたのは、キュウリが殆ど力感なく、切れたこと。
鋭い包丁は、それた時に怖いので、切れ味の悪いものでせっせと切っている。
何かの拍子で触れても大丈夫なので。
それが、この『浮き構え』になると、何もしていないのに、よく砥がれた包丁が勝手に切っているような不思議な感覚に。
あまりの不思議さと面白さに、半ばあきれつつ、普段は1本しかサラダに入れないキュウリを2本も切ってしまいました。
・・・・・
これらに付随しての気付きと反省は、やはり「リラックス信仰」。
結果としてのリラックスではなく、主観的思い込みのリラックスは本当に危険だ。
フルートを捧げ持つ構えなのですが、その折、無意識に、この「リラックス信仰」の手となっていました。
つまり手首までしかつながっておらず、先は死んでいる状態。
指先までちゃんと通しておかなくては、なんてことは初期の頃、随分と気を付けていたはずなのに・・
指先を揃えて軽くピンとしてから捧げ持つだけで、ちゃんと指先までが生きた身体に。
茶道における手の動きなどは、良いお手本?
・・とふと思いついて、久々に正座をしてみましたが、とてもラクに。
これまたかつてなかった感覚で、じっとしているのだけれど、内側が跳ね回っているような不思議な感じ。上機嫌な正座。
甲野先生が実際におやりになっている『浮き構え』に比べたら、私のものは、ほんのモドキにすぎないのだけれど、それでも、この効用。
そうそう。バッハのチェロ組曲、1番から5番まで、一気演奏、出来ました。
まずは、リピートはなしにして、計80分。
吹き終わった後の疲れも特にない、というのが、今までと一番違うところ。
このところ、猫とばかり遊んでいたので、あまり練習はしていなかったのに、指はよりまわり、息も続くようになっていた。
もちろん、バッハはバッハでとても崇高なものなのだけれど、誤解を恐れずに言うならば、いつか鼻歌のような感じで演奏したいと思っている。
組曲は舞曲を集めたものなので、案外「鼻歌交じりで」というのもそう悪い捉え方ではないと思っている。
でも、技術が足りなくて、必死でやっているのに「鼻歌風」にしようとしたら、そこに嘘があり、インチキな感じになってしまう。
それくらいなら、そのまま正直に必死さや大変さを伝えた方が、マシである。
ということで、私のバッハはまだまだ生真面目にならざるを得ない。
ピピにご飯やチュールをあげている時の鼻歌のような、上機嫌な身体のままの演奏が理想だけれど、少しではあるけれど、その入り口にさしかかったかな?という手ごたえがありました。
この調子であれば、多分リピートしても、大丈夫そう。
6番は音域が高いこともあり、躊躇していたのですが、こちらも、すっかり他の楽曲と同様に、特に構えることなく吹けるようになってきました。