本番が近づくと、どうしてもその曲ばかりになってしまい、2週間くらい取り組めていなかったバッハのチェロ組曲と久々に仲良くしています。
最近は、練習3時間くらいでは全く疲れないのですが、久々のバッハが楽しく、一気に全曲、というのを結構やっている。
ちなみに、四方襷、胸紐、腹紐、親指にリング、下駄、重いネックレス、指輪、というお助けグッズフル装備であれば、6曲一気が可能。
でも、これらの助けを借りず、生身の身体だけだと・・
4番までで精一杯。
その後、5番6番、と徐々に重量が増す楽曲が控えていると思うと、それだけで、だめに。
というバカなことばかりやって遊んでいたので、久々に右の首と肩に痛みが出ました。
他は全く大丈夫。
以前、一番痛みが生じていた両手首も何ともない。
唯一の痛みの箇所、というのは、そこが上手く協調して使えていない、という証拠でもある。
結果、欠点あぶり出し作業にもなった。
そこで改めて演奏フォームを検討することに。
常々、色々なテキストや奏者を見ていつも感じるのは、
「何故、あんなに動かしにくい処に右手を掲げて演奏しているのだろう?」という疑問。
武術で言うところの「可動域」から大きく外れた場所で構えているのが9割以上・・
それでもやれている、ということなのだろうけれど、楽器のサイズ形状の制約を受けている、とはいえ、わざわざやりにくい処に自分の思い込みと過去の刷り込みのまま、やってしまっているんじゃないのか?
私にしたところで、甲野先生と出会っていなかったら、同じだったろう。
そして年齢と共に動かなくなり、様々な故障を抱えるのが当たり前になっていく・・
そんなことをつらつらと思って自分の痛む右首と肩に注目。
・・私もまだまだ同様の過去の思い込みと刷り込みに縛られていた!?と気付く。
「フルートは横に構える楽器」という刷り込み。
かなりそこからは脱却していて、だからこそ、私の左脚は後ろなのだけれど、相当、笛の先端は胴体の中の範囲のエリアだし、かなり斜めに下を向いている。
でも、それでも、まだまだ「横に構える」という発想から抜け切れていなかった。
右側にドアストッパーを挟むくらい前に出して、とやってきたけれど、そんなものじゃあなかった。
そして思い出したのは先日の音楽家講座での甲野先生のヴァイオリン初心者の方へのご助言。
弓を持つ右手の取り扱い方。
もうこれは何年も前からみていて、知っていて、私も実践し、「ほら、肩甲骨から腕が使えるようになりますよね。」とご指導などもしていたのに・・・
でも、その後、結局は「フルートを横に構える」になってしまい効果半減だったのだ。
・・ということに気付いた水曜日。
今回、何にようやく気付いたかというと、あの所作を行ったその結果の場所、そここそが、「ここしかない」という右手が機嫌よく収まる場所だった。
なのに、そこから自分の思い込みのフルートの構え方の場所に持ち上げてしまっていた、ということ。
やってみればわかる。
「ここしかない」「ここしかあり得ない」という場所がある。
これは一種「型」と言っても良いかと思う。
そこにフルートを置くだけ。
そして、もう一つ。
「横に構える」という刷り込みにより、右手が左手と同じ高さになるようにしてしまいがちなのだけれど、これもNG.
右手は左手に並んじゃだめ。
いつも左手の下。リコーダーやオーボエの様に。
そういえば、ミュンヘンで何度か演奏を聴いたG.パッシンとその名だたる門下生達の構え方って、「ここしかない」という感じの右手・・?(個人の見解です)
果たしてこんなに笛が前に出て、さらにはより斜めになってしまって、良いのか?
という一抹の疑問はまだあるものの、出て来る音、指の動きは最早別物。
今まで、色々と大きな変化があり、その度に驚き喜んでいたけれど、それは変身する前の
青年デンジが色々と工夫して闘っているヴァリエーション。
でも、「ここしかない」の右手による変化は、チェーンソーマンに変身しての闘い。
・・てなことを感じています。
ちなみにチェーンソーマンは息子の部屋にあったので全巻一気読みしましたが、何の共感も湧かなかった。展開があまりにも唐突で救いがなさ過ぎて、ひどすぎる~~
ポチタは可愛いし、基本猫ファーストというのは良いけれど。
でも、こういうのが人気になる、というのも世相かもしれません。
ところどころ「寄生獣」の影響がある気もする。
あの名作程の哲学は感じられないけれど、勢いは凄くある不思議な漫画。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回の変化があまりに劇的だったので、飛んでしまいましたが、甲野先生の紙縒りからも大きなヒントをいただき、かなり変化しました。
最近は、練習3時間くらいでは全く疲れないのですが、久々のバッハが楽しく、一気に全曲、というのを結構やっている。
ちなみに、四方襷、胸紐、腹紐、親指にリング、下駄、重いネックレス、指輪、というお助けグッズフル装備であれば、6曲一気が可能。
でも、これらの助けを借りず、生身の身体だけだと・・
4番までで精一杯。
その後、5番6番、と徐々に重量が増す楽曲が控えていると思うと、それだけで、だめに。
というバカなことばかりやって遊んでいたので、久々に右の首と肩に痛みが出ました。
他は全く大丈夫。
以前、一番痛みが生じていた両手首も何ともない。
唯一の痛みの箇所、というのは、そこが上手く協調して使えていない、という証拠でもある。
結果、欠点あぶり出し作業にもなった。
そこで改めて演奏フォームを検討することに。
常々、色々なテキストや奏者を見ていつも感じるのは、
「何故、あんなに動かしにくい処に右手を掲げて演奏しているのだろう?」という疑問。
武術で言うところの「可動域」から大きく外れた場所で構えているのが9割以上・・
それでもやれている、ということなのだろうけれど、楽器のサイズ形状の制約を受けている、とはいえ、わざわざやりにくい処に自分の思い込みと過去の刷り込みのまま、やってしまっているんじゃないのか?
私にしたところで、甲野先生と出会っていなかったら、同じだったろう。
そして年齢と共に動かなくなり、様々な故障を抱えるのが当たり前になっていく・・
そんなことをつらつらと思って自分の痛む右首と肩に注目。
・・私もまだまだ同様の過去の思い込みと刷り込みに縛られていた!?と気付く。
「フルートは横に構える楽器」という刷り込み。
かなりそこからは脱却していて、だからこそ、私の左脚は後ろなのだけれど、相当、笛の先端は胴体の中の範囲のエリアだし、かなり斜めに下を向いている。
でも、それでも、まだまだ「横に構える」という発想から抜け切れていなかった。
右側にドアストッパーを挟むくらい前に出して、とやってきたけれど、そんなものじゃあなかった。
そして思い出したのは先日の音楽家講座での甲野先生のヴァイオリン初心者の方へのご助言。
弓を持つ右手の取り扱い方。
もうこれは何年も前からみていて、知っていて、私も実践し、「ほら、肩甲骨から腕が使えるようになりますよね。」とご指導などもしていたのに・・・
でも、その後、結局は「フルートを横に構える」になってしまい効果半減だったのだ。
・・ということに気付いた水曜日。
今回、何にようやく気付いたかというと、あの所作を行ったその結果の場所、そここそが、「ここしかない」という右手が機嫌よく収まる場所だった。
なのに、そこから自分の思い込みのフルートの構え方の場所に持ち上げてしまっていた、ということ。
やってみればわかる。
「ここしかない」「ここしかあり得ない」という場所がある。
これは一種「型」と言っても良いかと思う。
そこにフルートを置くだけ。
そして、もう一つ。
「横に構える」という刷り込みにより、右手が左手と同じ高さになるようにしてしまいがちなのだけれど、これもNG.
右手は左手に並んじゃだめ。
いつも左手の下。リコーダーやオーボエの様に。
そういえば、ミュンヘンで何度か演奏を聴いたG.パッシンとその名だたる門下生達の構え方って、「ここしかない」という感じの右手・・?(個人の見解です)
果たしてこんなに笛が前に出て、さらにはより斜めになってしまって、良いのか?
という一抹の疑問はまだあるものの、出て来る音、指の動きは最早別物。
今まで、色々と大きな変化があり、その度に驚き喜んでいたけれど、それは変身する前の
青年デンジが色々と工夫して闘っているヴァリエーション。
でも、「ここしかない」の右手による変化は、チェーンソーマンに変身しての闘い。
・・てなことを感じています。
ちなみにチェーンソーマンは息子の部屋にあったので全巻一気読みしましたが、何の共感も湧かなかった。展開があまりにも唐突で救いがなさ過ぎて、ひどすぎる~~
ポチタは可愛いし、基本猫ファーストというのは良いけれど。
でも、こういうのが人気になる、というのも世相かもしれません。
ところどころ「寄生獣」の影響がある気もする。
あの名作程の哲学は感じられないけれど、勢いは凄くある不思議な漫画。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回の変化があまりに劇的だったので、飛んでしまいましたが、甲野先生の紙縒りからも大きなヒントをいただき、かなり変化しました。
実感としてのスピードと実際のスピードは違う、という師・植村泰一先生の言葉にも繋がった紙縒り。
息はトルネードだ。
カテナリー曲線、紙縒り、そして「ここしかない右手」・・多分左手も。