『笛物語』

音楽、フルート、奏法の気付き
    そして
  日々の出来事など

フルート奏者・白川真理

第123回音楽家講座~甲野善紀先生を迎えて~in鶴見 11月24日(木)

2022-11-27 14:27:27 | 音楽家講座・甲野善紀先生を迎えて
今回は、かつてない程の、深化した会となりました。

それはおそらく甲野先生の術理の基本の一つが大きく変化したから。

これまでも、毎回様々な気付き、進化があり、だからこそ、この講座もこうして19年続いているのですが・・

事前にお話しした折には

「・・・今日は、もう何を言ってしまうかわかりませんよ!」


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(お話)
以前から所謂「基本」には疑いを持っていたが、「これは確かだろう」と思っていたことまで違うのだなあ、と感じることが最近まざまざとあった。

根本的に考え直した方がいいなあ、と。

(ここからは刀の持ち方の具体的な解説となりますが、先生はツイートでも公開しておいででなく、私の一知半解な解説で誤解を生んでもいけないので、具体的内容は省かせていただきます。関心のある方はぜひ、先生の講座、稽古会に!)

きっかけは、整体協会の野口先生からの提案、そして、御子息である陽紀先生の気付き。

世の中、協力しているつもりでいながら、逆のことが結構ある。人は連想しちゃうから、ワナにはまってしまう。

片手だけの方が絶対強力。

よく二人三脚で頑張りました、というようなことが言われるが、
門人の一人であるTさんが「二人三脚は走りにくいですよね。」と上手いこと表現したが、実際、足は縛られない方がラク。

最近、息子(陽紀先生)と稽古したが、過去に受けた誰よりも強い威力だった。

木刀をバキバキ折ってしまっているのだそうだ。

この持ち方が全く普通じゃない。
(具体的には陽紀先生の講座へ!)

今回のことで、改めて「教え教わることの弊害」ということを考えさせられた。

陽紀には一度も何かをこうしろと教えたことはなく、ただ私の側に居て観ていただけ。

これは昔の職人の世界では当たり前で、親方はただダメ出しを繰り返すだけ。
全く「こうしろ」ということを教えない。

日本に生まれれば、いつのまにか日本語が普通に話せるように(技を会得する。)

カナダに住むあるインディアンは「教え教わる、習う、学ぶ」という概念がない。

その環境の中にいて覚えるのが普通なので、見取り能力が優れている。

どういう風に学んでいくかということに関して、1から自分でやっていくことが重要。

これに気付いてしまったのだから、しょうがない。

とにかく根底から検討せざるを得ない。

ヴァイオリンは根本的に問題がある。
頸椎4番に負荷がかかるので、余程、そのへんをなんとかするか、修正するかしないといけない。

日本人と西洋人では頸椎が違う。

自分の中の感覚が動いた時、その瞬間に良いか否か。

内観的感覚(イメージとは違う)をどこまで引き出せるか。

内観的に上腕がのびる「払えない突き」では自分がやってる感がなくなる。

相手に当たるというところを目標にするのでなく、出た時に既に「あ、そうか!?」という感じになると良い。

目標をもっと手前に持ってくる。

自分の中で空間の認識を変える。

「あそこまで届かせる」が良い。

ピアノでも、ああして、こうして、というのではなく、鍵盤に触った瞬間、触れたか触れないかの瞬間に音の方が近づいてくる感覚で。

現実を認識することは、無駄なことをやりすぎる可能性がある。

客観的事実(現実)を気にするとそれは自分をダメにする。

(ここで受け手に突きを披露。受け手に触れる側の手はフラフラで、触れない方の手は「ひょうけん」)

ひょうけん、蕾の手の内など、みな鎮心(ちんしん)のツボに作用するもの。
動転した気持ちが落ち着くツボで、身体を変えることで感情に作用を及ぼす。

画面のように見え方が変わり、リアル感が消え、高所恐怖症などに効く。

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1.クラッシックギター
人前で演奏する時に緊張してしまう。左手が大変で、意識が左に寄って行ってしまうと身体のバランスが崩れ、整えるのが難しくなる。
グっとやる時にこわばりや痛みがある。

(ご助言)
落ち着いている時の鳩尾の奥にある感覚。

鼻で息を吸おうとしながらつばを飲み込む感じで。

丸紐での四方襷、指紐。



2.エレキベース
即興演奏が多いのだが、人前で演奏したことがない。
というのも、決まったフレーズを弾くのが恥ずかしい感じがして、家で思いついたのを、いざやろうと思うと、ライブで同じテンションで出来るかどうか考えてしまって。
この場、この時の雰囲気に合ったフレーズを弾いていきたい。

(ご助言)
空間、場に感応してやってみていくと面白い。
「能」はもともと、拍手はしないものだけれど、本当によく出来ると、自ずと拍手は起きない。何故なら観ている人達がみな、自分がやった気になるから。
(あなたには)他の人にはない何かがあるかもしれない。
普通のライブとは違って、来た人が昔の自分を想い出したり、知らなかった自分に気付いたりする様々な不思議な感じになるようなライブができるかもしれない。
それは特殊な才能で、その場に合わせて自分の中の何かが出て来る。
これも音楽が持っている一つの世界。
「この場とは何か?」「どういう場なの?」と問いかけてから一人でに出て来る。
その場に合わせられる力であり、その場に必要とされる力。
唯一無二の力。
周りが自分をどう動かすか、その空間に反応。自分が側で自分を見ている感じ。
その場で一番必要とされている音であり、その場が自分の指を動かしているような感じ。
「場の力」


3.ピラティス指導者
人の身体を動かす物理的な説明だけでなく、how toはきっかけでしかなく、それをやり感じることで広がる世界があることを伝えたい。しかし仕事だと「動かさない」等、言葉にすることでやり方で伝えることになる。この時の声の出し方や話し方で(より深い世界を)伝えることができないか、と考えている。
自分は英語と日本語の両方を話すが、英語のだと、もっと流れや空気感が作れるのだが、日本語だとそれが難しく、息詰まってしまう。

(ご助言)
日本語は論理的な説明をするのには向かない言葉。
整体の野口先生から聞いた話だが

「ムラサキ」という言葉で何を連想するか?と聞いたところ

「雪を踏む音」

と答えた少女がいた。

日本語をどう感じていくか、そしてそれは(自身の)身体の使い方をどうするかにも関わってくる。
ある感じ方が変われば、随分違う。

(丸い腰紐による実践)
緩ければ、差し出した両手に乗られても崩れないのが、きつくなると崩れる。
平らな紐でもだめ。

(自分は意識的には変わらないのに)何がこんなに違うのか?
身体の繋がりの良さを生む、人間の中にある色んな要素を繋ぐ働きがある。

筋肉の緊張と弛緩のグラデーションを上手く繋げることができるかどうか、そういうのをどうやってやるか?

(虎拉ぎによる実演)
前腕をねじってから肘を脇に付けることで、脇に緊張が生れ脚のサポートをする。

(火焔による実演)

(心法的実演)
現実の物理的距離の感覚を違うものにする。
階段を下りるときは上るつもりで。事実を事実としてだけでなく、違うように意識することで変わってくる。のびるはずのないところがのびる。
人間の)にとっての?)事実そのものをやっていっても何の意味もない。
事実を正確に捉えることでますます変われないままになる。

「天才は我に返らない」は結構大切なこと。



4.一般
首が痛いのがずっと普通の状態で生きているのでなんとかしたい。
手指の紐の巻き方を知りたい。

(ご助言)
祓い太刀
巻き方指導





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この日はうっかりスマホを自宅に忘れてきてしまいました。
腕時計を貸してくださったTさん、後から、良かったらとお写真をお送りくださったSさん、ありがとうございました!

また終了後、JRで人身事故があり電車が止まってしまって、これに伴う物語も色々あって、まあ、楽しかったのですが、思い出深い会となりました。

ご参加くださった皆様、スタッフの五十嵐くん、鈴木さん、会場スタッフの皆様、
そして甲野先生、ありがとうございました!

次回は同会場同時刻(鶴見区民文化C,サルビアH3階音楽ホールにて19時開催)にて12月15日(木)を予定しております。

どうぞよろしくお願いいたします!

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(所感)
今回受講者からの質問内容が深いものが多かったこともあり、じっくりと時間をかけてとなりました。
先生はご助言しつつも、何かしらご自身で納得しながら、探しながら、何かもう一人のご自身の声を聞いて探しているような感じもあり、普段は私から時間のことを申し上げてある程度気にかけていただきながら進行できるのですが、今回は、それができませんでした。というか、しちゃいけないな、とかんじた次第です。
個別指導が受講できなかった皆様申し訳ありませんでした。
次回は最優先とさせていただきますので、お申し出ください。

新たな刀の持ち方、左右の手の使い方は本当にそれまでの概念を覆すものでした。
ここ数日忙しく、まだフルートではじっくり試していませんが、頭の中でシュミレーションはかなり進みました。
これは、やはり陽紀先生から「フルート体」の教えを授かったこと、美彌先生から腹奥と繋がる触れ方をお教えいただいたことと、とても関連する。

この感覚がないと、「なるほど!?」となるのには、もう少し時間が必要だったかも。

実際何が変わったか?
好きなママレードの瓶の蓋がとても固く、いつも蓋をコンロの火で炙って布巾で覆ってでないと開けられなかったのですが、今回の手の内と二人三脚ではない左右の手の使い方を試みると、簡単に開いたのでした。それもほぼ実感なく。\(^o^)/
些細なことですが、とても嬉しい!
ちなみに、山芋をすり下ろすのもラクになりました。

あと、階段を上るつもりで降りる。(その逆も)というのは、10年程前だったか、野口聡一宇宙飛行士と前の團十郎、甲野先生、とのお話を聞いたあと、無重力の中、天地がないので、ミノムシみたいに錘を付けた寝袋に入って眠るという話を聞いて刺激されて気付いた「天邪鬼の気付き」。

階段で遊んでいるとエッシャーの絵の中の人物になったような気もして面白い。
天地がひっくり返るのだもの。

この天邪鬼の技法は他にも色々あって、何かと便利だった。
私の場合は「人は失敗しないように想定したよりも少し多めに出力することが多いので、それを調整するための方便」という捉え方ではあったけれど。
つまり釣り合いをとるためのやり方。

先生に報告した折に「流石、真理さん!」と返信があり、後にも先にも先生が私を名前で呼んだのはこの時だけではないかしら?ということでよく覚えていたものです。
採用してくださっていて嬉しかったです。


そして「ムラサキ」からの連想で、「雪を踏む音」と答えたの少女の言葉が最も心に残りました。

素晴らしい感受性の少女のお話に涙腺が緩みそうになりました。

・・・私が真っ先に連想したのは「茄子」だもんなあ・・・