書いておかないと忘れるので・・
2003年、甲野先生にであってすぐ、抜刀術をお教えいただいた時に衝撃を受けた身体の使い方から、胴体をねじらないようにする、というのが私の奏法の一番の基本となった。
それは2004年に出た『身体から革命を起こす』(甲野善紀・田中聡 共著/新潮社)にも写真付きで掲載していただいた。
来年で20年となる。
今となっては、改めて思い出すことすらない自分にとっては極当たり前のこの「見返り美人」。
フルートではそのオリジナルの反転形。
それが、「圧を変える」にも役立つこととなった。
それまでは、ただ、前後の力のかけ方しかやっていなかったけれど、何故かレッスンしている時に、生徒さんの様子をみて、こちらの方が自然だな、と思いついたのでした。
ピアノもマリンバも自分から向かって左が低音、右が高音だけれど、フルートの場合はその逆。
圧のかけかたも、左右一律では、右に詰りが生じる。
それを回避するためのやり方。
これがなかなか面白く、より自然に全ての音域の音を吹けるように。
いつだったか、おそらく師事してすぐの頃、植村泰一先生に質問したことがある。
「先生、パイプオルガンのふいごを押すカルカントさんは、曲の表情やアーティキュレーションによって、ふいごの押し方を変えるのでしょうか?」
フルートでは相当こうした身体の内側の変化を駆使してやっているので、フト気になって質問した。
すると、先生は笑いながら
「それと全く同じ質問をニコレにしたことがあるんだよ。」
「えっ!?で、ニコレはなんと??」
「そんなバカなこと聞くんじゃない!、って言われた。」
・・つまり、カルカントさんはそんなことはしていない、ということ。
まあ、出来る訳ないよね。考えてみれば。
当時は、パイプオルガンはそうしたもの。フルートはそうではなく、人間が息を出しているのだから、その送り方の微細な変化こそが重要、と捉えていた。
もちろん、それも一つの真実だろう。
でも、ここ数か月の進展に伴う奏法は、どちらかというと、パイプオルガンのカルカントさんの仕事的な身体の内側の使い方になってきている。
音域の違い、音量の違い、アーティキュレーションの違い、それら全てに対応する吹き方。ただ息を出すだけ。
アンブシュアやお腹の支え等の部分的なものを自分で意識的に変えるのではなく、楽器と自分との接点の圧力、方向、重心移動など、全身での対応で変化させているような、どちらかというと、どんどん機械化されているような感じ。
もちろん、細かい箇所や特殊なところは、従来駆使していたやり方も使っているけれど、これも、今の自分のレベルでの間に合わせ、という気もしている。
大元はよりシンプル、つまり、とても簡単になってきた。
そして本日。
ピピにねだられて蛇口からの水を掌に受けて飲ませてやっていて改めて感じた猫の舌の感触。
水を飲む時の猫の舌に関しては2014年だったか、バッハのシャコンヌのフルート編曲譜を出版した時に古武術奏法に関しても触れ、猫の舌のことを書いた。
でも、当時は、実際に猫を飼っていた訳ではなく、なんとなくのイメージのみ。
それが今回、時折掌にグンと触れるピピの舌の感触のお陰で、気付くことができた。
タンギングの折の舌のイメージが直線的すぎてたな、と反省。
これも、最短距離を最短時間で、というヒトの浅知恵が邪魔していた思い込みだろう。
それを目指してしまうことで、舌根、そして口回りの筋肉はむしろ硬くなる。
この影響で、かなりの響きがまだまだ阻害されていた。
・・なんと勿体ないことをしていたことか・・
猫の舌といえば、ラングドシャ(食べたい!)を思い出すけれど、あれは真っすぐなのでタンギングには不向きのイメージ。
お手本は水を飲む時の猫の舌。
ピピ、ありがとう!!
肝心の口元が隠れてしまっているけれど、水を飲んでいる写真がありました。
元気がなくなってきた薔薇を短くして器に活けたとたんに、ピピが・・
薔薇は猫には大丈夫な花ということなので、黙認。
2003年、甲野先生にであってすぐ、抜刀術をお教えいただいた時に衝撃を受けた身体の使い方から、胴体をねじらないようにする、というのが私の奏法の一番の基本となった。
それは2004年に出た『身体から革命を起こす』(甲野善紀・田中聡 共著/新潮社)にも写真付きで掲載していただいた。
来年で20年となる。
今となっては、改めて思い出すことすらない自分にとっては極当たり前のこの「見返り美人」。
フルートではそのオリジナルの反転形。
それが、「圧を変える」にも役立つこととなった。
それまでは、ただ、前後の力のかけ方しかやっていなかったけれど、何故かレッスンしている時に、生徒さんの様子をみて、こちらの方が自然だな、と思いついたのでした。
ピアノもマリンバも自分から向かって左が低音、右が高音だけれど、フルートの場合はその逆。
圧のかけかたも、左右一律では、右に詰りが生じる。
それを回避するためのやり方。
これがなかなか面白く、より自然に全ての音域の音を吹けるように。
いつだったか、おそらく師事してすぐの頃、植村泰一先生に質問したことがある。
「先生、パイプオルガンのふいごを押すカルカントさんは、曲の表情やアーティキュレーションによって、ふいごの押し方を変えるのでしょうか?」
フルートでは相当こうした身体の内側の変化を駆使してやっているので、フト気になって質問した。
すると、先生は笑いながら
「それと全く同じ質問をニコレにしたことがあるんだよ。」
「えっ!?で、ニコレはなんと??」
「そんなバカなこと聞くんじゃない!、って言われた。」
・・つまり、カルカントさんはそんなことはしていない、ということ。
まあ、出来る訳ないよね。考えてみれば。
当時は、パイプオルガンはそうしたもの。フルートはそうではなく、人間が息を出しているのだから、その送り方の微細な変化こそが重要、と捉えていた。
もちろん、それも一つの真実だろう。
でも、ここ数か月の進展に伴う奏法は、どちらかというと、パイプオルガンのカルカントさんの仕事的な身体の内側の使い方になってきている。
音域の違い、音量の違い、アーティキュレーションの違い、それら全てに対応する吹き方。ただ息を出すだけ。
アンブシュアやお腹の支え等の部分的なものを自分で意識的に変えるのではなく、楽器と自分との接点の圧力、方向、重心移動など、全身での対応で変化させているような、どちらかというと、どんどん機械化されているような感じ。
もちろん、細かい箇所や特殊なところは、従来駆使していたやり方も使っているけれど、これも、今の自分のレベルでの間に合わせ、という気もしている。
大元はよりシンプル、つまり、とても簡単になってきた。
そして本日。
ピピにねだられて蛇口からの水を掌に受けて飲ませてやっていて改めて感じた猫の舌の感触。
水を飲む時の猫の舌に関しては2014年だったか、バッハのシャコンヌのフルート編曲譜を出版した時に古武術奏法に関しても触れ、猫の舌のことを書いた。
でも、当時は、実際に猫を飼っていた訳ではなく、なんとなくのイメージのみ。
それが今回、時折掌にグンと触れるピピの舌の感触のお陰で、気付くことができた。
タンギングの折の舌のイメージが直線的すぎてたな、と反省。
これも、最短距離を最短時間で、というヒトの浅知恵が邪魔していた思い込みだろう。
それを目指してしまうことで、舌根、そして口回りの筋肉はむしろ硬くなる。
この影響で、かなりの響きがまだまだ阻害されていた。
・・なんと勿体ないことをしていたことか・・
猫の舌といえば、ラングドシャ(食べたい!)を思い出すけれど、あれは真っすぐなのでタンギングには不向きのイメージ。
お手本は水を飲む時の猫の舌。
ピピ、ありがとう!!
肝心の口元が隠れてしまっているけれど、水を飲んでいる写真がありました。
元気がなくなってきた薔薇を短くして器に活けたとたんに、ピピが・・
薔薇は猫には大丈夫な花ということなので、黙認。