生長の家においてはまず 「 物質は ない 」 という一つの大いなる真理の前提があるのであります。
「 物質は 無(む)である 」 こういう真理の前提があるがために、 「 この世(よ) 」 とか、
「 この世の創造主(つくりぬし) 」 とかいう場合の 「 この世 」 なる この世は、決して
この物質の この世でない、ということを まず知っておかなければならないのであります。
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それで、この 「 物質は ない 」 という生長の家の発見したる尺度(しゃくど)によって、
キリスト教を解(ほど)いてゆき、仏教を解いてゆくという時に 初めて、この神なるものと
仏なるものとが 一つである ということが わかるのであります。
「 神が この世を造り固(かた)め給(たま)うた 」 として、 「 この世 」 という言葉を
「 物質世界 」 と見る限りにおいて、それは 迷いである。
けれども その 「 この世 」 という言葉を 物質世界の奥にある金剛常楽(こんごうじょうらく)の
「 実相の世 」 という意味において 使う限りにおいては、その創造主(つくりぬし)は
創造神(そうぞうしん)である と同時に、一如(いちにょ)の仏であり 如来(にょらい)である。
その完全円満なることを 形容して この聖経には 「 無限(むげん)、宇宙を貫(つら)く心、
宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則、真理、光明、智慧、絶対の愛。これらは大生命(だいせいめい)
― 絶対の神の真性(しんせい)にして 」 と こう書いてあるのです。
こういう無量寿(むりょうじゅ)、無量光(むりょうこう)、絶対一如(ぜったい いちにょ)の
真理であって 三世(現象世界)を超越(ちょうえつ)し、物質世界を超越せる妙妙(みょうみょう)なる
大生命(だいせいめい)、これが 仏教における仏 でなくてなんでありましょう。
『 生命の實相 』 ( 頭注版 第21巻 経典篇 「 甘露の法雨 」 講義 11頁~14頁 )
谷 口 雅 春 先 生