『 理想世界 』 誌 昭和五十五年六月号
「 吾ら皆集まって 世界平和の祈りを致しましょう 」 谷口雅春先生
『 人生を見つめて 』という本の三十五頁に次のような重要な事実が書いてあります。
【 暗黒な感情の精神の波はどこへ行くか 】
「 あなたが腹を立てたり、憎んだり、争ったり、詛(のろ)ったり、怨(うら)んだり、
およそ悪い感情を起したときには、その精神の波はどこへ行くと思いますか。
それらの破壊的な精神の波は決して消えてしまうことなく、宇宙のどこかへ散って
行きます。それは水蒸気が散って行くけれども、決して消えてしまうことがないような
ものです。
心の力というものは一種のエネルギーでありますから、エネルギー不滅の原則に従って
それは決して消えることなく、ただ一時どこかへ散って行くだけなのです。
それらの怒り、憎み、嫉妬(しっと)、反感、呪(のろ)い等の念波(念ずる心の波)は
水蒸気が散って行くように散っては行くが、水蒸気が或る上空に達するとそれが互いに
類をもって集まって雲となるように、それらの害悪争闘性の破壊的精神の波動は、それが
互いに類するがゆえに一大雲峯(うんぽう)(雲の峰(みね))の如くなって団結します。
吾々の住んでいる地球は一定の軌道(きどう)を通りつつその争闘性の(闘いの性の)
破壊的一大精神雲峯に段々近づいて行こうとするのです。
それは地球が雲に近づくのではなく、雲が豪雨(ごうう)となって地球にぶつかって
くるように、その目に視(み)えない破壊性の精神雲峯が或(あ)る飽和状態以上の
呪いの密度になると、具体的な或る破壊力となって地上に降りそそぐのです。
それが原爆と具体化し、水爆と具体化して来るのです。
原爆、水爆は人間の科学的発明ではあるが、それが破壊力となって人類に注がれるのは、
原爆、水爆を使用する人間が此の巨大な破壊性の精神雲峯に巻き込まれた時なのです。
これを避けるためには、此の眼に見えない星雲のような」(P36七行目、下から十五語目)
われわれの憎しみ、争い、憤怒(ふんぬ)、呪い、嫉妬、反感、怒りというような、
そういうわれわれの心の波動が集まって一大精神雲峯となっているその巨大な破壊性の
精神的雲峯を、愛のわれわれの祈りの波によって消してしまわなければ、世界から、
恐るべき原爆、水爆の戦いを避けることはできない、ということになるのであります。
【 世界平和の祈りの集団的実修が必要 】
こういう訳ですから、われわれは、特にわれわれ生長の家の同志は、「 世界平和の祈り 」
というのを、毎日、神想観という観法(かんぽう)実修のつづきに行(や)ることになって
いるのであります。
【 世界平和の為にどのように祈るか 】
「 即ち吾々ができるだけ憎悪(にくしみ)、排斥(はいせき)、憤怒(はらだち)、
呪詛(のろい)等の反対感情たる愛の感情を起すことをつとめ、
一定の時刻を定めて同志相集まり、(集まれない場合には自分の自宅でもいいけれども)
同一の時刻に、『 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情は それによって
消し去られているのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて
互いに相愛し合っているのである。今よりのち、怒り 憎み 呪い 争い あることなし 』 と
(P.36 )こういう祈りをするように実行したいと思うのであります。
すでにわれわれはそれを実行しているのであります。
皆さんもそれを実行して下さい。もう一遍この祈りの言葉を朗読します。
「 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情は それによって消し去られて
いるのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて互いに
相愛し合っているのである。今よりのち、怒り 憎み 呪い 争い あることなし 」
こういうように何遍もこの言葉を心で繰り返して念じて、そして神の愛が実際に宇宙に
満ちみちて、憎み争い恨み呪い等の波を、消していきつつある有様を具体的にじーっと
観ずるようにすると、いいのであります。
これは、人類愛のためのわれわれの協同的祈りでありまして、この祈りをする
ことによって、人類の平和が速やかに来(きた)る ー“より速やかに”―
普通来(く)るよりも“より速やかに”来(く)ることになるのでありまして、
同時にこの世界平和の祈りによって自分の病も癒されるということになるのであります。
【 世界的人類的大目的の為に祈る功徳 】
われわれが祈る時に、この人類的な宇宙的な大目的のために祈りますと、そうすると
神の力が自分を媒介として流れ入る時に、目的が大きい目的であると、
大いなる力となって流れ入るのであります。
それは、恰度(ちようど)、電気の流れが、・・・目的が大きいものへ送電の
ワイヤ(線)をつなぐと、沢山(たくさん)の電流が流れるのと同じことであります。
ストーヴでも、五○○ワットのストーヴへつなぐとですねぇ、それだけに必要な電流しか
流れない。それでそれを、一キロワットの電気ストーヴにスイッチを入れると、
その電線には一キロワットに相応(ふさわ)しいだけの強い電流が流れる。
さらに二キロのストーヴに線をつないだらですねえ、そしたら二キロの電気ストーヴを
温(ぬく)めるのに必要なだけの電流が流れる。
で、われわれは、ちょっとした病気を癒す祈りをしたら、
病気を癒すほどの小さい神様の生命(いのち)の流れしか流れ入らないということになる。
ところが、「 世界平和の祈り 」であるとか、“ 人類のためになる ”祈りであると
いうような祈りをしますと、そういう世界的とか「 人類 」という大きな目的に対して
吾々が愛念を実行するとき 神様の生命(いのち)が流れるもんですから、
それに伴ってわれわれの病気は(個人の病気ぐらいの簡単なもんですから・・・)
速やかに癒(なお)るということになるのであります。
病人は自分の“ 病気 病気 ”と、“ 病気を治そう ”という小さな目的だけを思わないで
こういう偉大なることを目的とする祈りをすると、却って病気が速やかに癒る、という
事実も出てくるわけであります。
【 定時の祈りと随時随所の祈り 】
ところで、この祈りというのは、一定の時間の祈りと、それから随時随所で行なう祈りと
いうのとがあるのであります。
神想観といって、われわれの生長の家のグループの人達が実修しているのは、
私の時間は 朝五時十分から三十分間、それから午後八時半から三十分間実修している
のです。私と一緒に、その時間に念じたい人は、その時間に念じてもいいのであります。
それは、互いに念波の共鳴を起して、それだけ祈りが増幅され易いということになる
わけであります。
【 随時随所の祈りはこう念ずる 】
ところで、その一定の時間でなしに、随時随所で行(や)る祈り、これは一寸(ちょっと)
した休憩時間であるとか、仕事の切れ目の煙草(たばこ)一服(いっぷく)の時間である
とか、台所の一寸した暇(ひま)に、目をつぶって静かに息をととのえて、
このように念ずるといいと思うんです。
その祈る言葉は、『 人生を見つめて 』という本の三十七頁に書かれているんです。
「 吾れ心を空しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」
こう、二、三回 念ずるんです。
もう一遍、憶(おぼ)えるために言いますと、
「 吾れ心を空(むな)しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」
【 心を空しくする事が何故必要か 】
右の如く、二、三回念じまして、神様の御心を一心に心の耳で、ジーッと耳を澄(す)ま
して聴く気持になるんです。“ 吾、心を空しくして ”という事が必要であります。
何か問題を引っ提(さ)げて「 此の問題を神様どうしたらよろしいか、神様 御心を示し
給え 」という事になりますと、どうしてもやっぱり「 我 」の考えが入って来るのです。
そして自分の斯(か)くありたいという願いが、神様の返事の如く思い浮かんで、
実は自分自身の潜在意識の囁(つぶや)きを、それを神様の啓示の如く、思い間違うと、
いうことが往々ありますから、そこで自分の「斯(こ)うありたい」という思いを捨てて、
「“ 吾れ心を空しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」
こう祈って、そこで神様に全托する気持になるということ、これが必要なわけであります。
【 神に全托したらこうなる 】
こうして神様に全托したら、神は無限の智慧であり、無限の力であり、
無限の愛であるから、悪いことが出てくる筈(はず)がない。
きっと「 神は祈るに先だちてなくてならぬものを知り給う 」と聖書にあるように、
自分のなくてならぬものを教えて下さる、ということになるわけであります。
「 自分 」が零(ゼロ)になって受身になることが、祈りのときの本当の正しい気持なので
あります。そして神様の御心に一心に聴き入る気持になるんです。
それを短時間二、三回唱(とな)えるだけでも、あるいは二、三分間、念ずるだけでも
よろしい。その位の時間ならば、どんな台所仕事をしておっても、
ちょっと電車に乗った時でも、煙草一服の時でも、できるということになるのであります。
それでこういう祈りの急所、こういう神想観のコツは、雑念を起さずに
自分のうちにまします神様の御心にジーッと聴き入る気持になることがポイントなんです。
短時間の神想観というのは倦(あ)きて来ませんから 雑念が却(かえ)って湧いて
来ないんです。
「 吾れ心を空しくして神の御心に従い奉る。神よ、吾に神の御心を示し給え 」―
これ位の言葉を唱えるのは、それを五、六回 唱えたり 二、三回 唱えたりするのは、
これは極(ご)く簡単です。簡単ですけれども、“ 言葉の力 ” というものは、
われわれの潜在意識に入って、そして潜在意識が宇宙意識を動かして、
そして自分の希望するものを実現して呉(く)れると、いうことになるわけであります。
【 「 完全な祈り 」 というものは? 】
ところで、「 完全な祈り 」というものは、問題を引っ提げて神様に
「 斯(こ)うして欲しい 」というのではないんです。― 尤(もっと)も、
そういう祈りが必要なときもある。だから、別段それは悪いというのではないのです。
けれども、本当に完全な祈りというものは、神様と一体(ひとつ)になってしまう。
自分がなくなって ー 「 我(が)」が無くなって、そして神様と一体(ひとつ)に
なってしまうことです。
神様の御心の中には全然悪はない、不幸はない、病気はない。
そうすれば、神様と一体(ひとつ)になれる。
「 先ず神の国と神の義を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし 」、と聖書の中で
イエスが教えられたように、自然に善いものが出てくることになるわけであります。
【 神様に自分の願いを申し上げる祈り 】
しかし、神様に、こちらからわが希望を申し上げる祈りも、人は或る心境においては、
別に悪いということはないのです。魂がまだそこまで発達しない時には、赤ん坊が
お母ちゃんに祈るように、お母ちゃんに頼むように、
「お母ちゃん、これ頂戴(ちょうだい)」
と素直に祈るといいんです。
「お母ちゃん、これ頂戴」と、幼児(おさなご)がおねだりする。それは純粋な感情で
あって、その純粋な信頼の感じの中には、それは“もうきっとお母ちゃんは下さる”
という、そういう予期(よき)作用というか、全き信頼の期待が必ずあるのです。
で、皆さんの祈りもこの幼児の祈りのように、「 神様、これ頂戴 」と祈るんだったら、
“ 必ずそれは与え給う ”ということになる。
幼児が母親を信頼しているのと同じような信念をもつということが必要です。
だからイエスは、こう仰言(おっしゃ)っている ー
「 もし芥子種(からしだね)ほどの信だにあらば、此の山に動いて海に入れと言うとも
必ず成らん 」と、こう仰言っているんです。「 もし辛子種ほどの信だにあらば 」です。
信だにあらばで“ 信 ”がなかったら駄目です。
それで「 神様、これを下さい 」と念じたら、“ ああッ、これはもうすでに・・・
この祈りは効(き)かれたのである!”という素直で純粋な信を、もつことによって、
山をも動いて海に入るというそういう・・・表現のように、われらの希望がどんな大きな
希望であっても実現する、ということになるわけであります。
( 了 )