谷 口 雅 春 先 生
『 生命の實相 』 ( 頭注版 第25巻 教育実践篇 上 102頁~103頁 )
この ‘ 生命の実相 ’ というものは、今までは文字 言語のよく説くところではない、
言詮不及(ごんせんふぎゅう)、不立文字(ふりゅうもんじ)であると言われていた。
それを 文字を立て、文章を立て、言葉の力によって 生命の実相を悟らせるように
させたところが 生長の家の独特なところであるのであります。
今までは 真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は 真理を完全に
あらわすものではないと思われていた。
ところが 生長の家では 言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。
古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、
文字と生命と一体というような域(いき)にまで達せしめえたのだろうと思います。
さればこそ 本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに
到達する人が多勢あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り
境遇環境まで変化してくるというようになってきたのであります。・・・・・
・・・・・今までの宗教のような直接説法、直接指導でなければ効(こう)を
奏(そう)しないようでは このおびただしい世界の人類をいつまでたったら
教化(きょうか)しうるか すこぶるおぼつかない話であります。
これが今までたくさん宗教があるのに、新しく 「 生長の家 」 の出現した所以(ゆえん)で
ありまして、生長の家では 活字が道場である。文章が教化の師である。
活字を印刷した新聞の行(ゆ)くところ、活字を印刷した小冊子のゆくところ、
そこが道場化(どうじょうか)して人を救うということになるのであります。
『 生命の實相 』 ( 頭注版 第25巻 教育実践篇 上 102頁~103頁 )
この ‘ 生命の実相 ’ というものは、今までは文字 言語のよく説くところではない、
言詮不及(ごんせんふぎゅう)、不立文字(ふりゅうもんじ)であると言われていた。
それを 文字を立て、文章を立て、言葉の力によって 生命の実相を悟らせるように
させたところが 生長の家の独特なところであるのであります。
今までは 真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は 真理を完全に
あらわすものではないと思われていた。
ところが 生長の家では 言葉と真理、文章と実相とをピッタリ一致させた。
古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることもできない真理を、
ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり、生命の中に文字あり、
文字と生命と一体というような域(いき)にまで達せしめえたのだろうと思います。
さればこそ 本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに
到達する人が多勢あらわれてきて、その影響を及ぼすところ、肉体の病気も治り
境遇環境まで変化してくるというようになってきたのであります。・・・・・
・・・・・今までの宗教のような直接説法、直接指導でなければ効(こう)を
奏(そう)しないようでは このおびただしい世界の人類をいつまでたったら
教化(きょうか)しうるか すこぶるおぼつかない話であります。
これが今までたくさん宗教があるのに、新しく 「 生長の家 」 の出現した所以(ゆえん)で
ありまして、生長の家では 活字が道場である。文章が教化の師である。
活字を印刷した新聞の行(ゆ)くところ、活字を印刷した小冊子のゆくところ、
そこが道場化(どうじょうか)して人を救うということになるのであります。
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