何故(なぜ)吾々が 「 生命の実相 」 の扉(とびら)をひらく時、
医術(いじゅつ)などでは 到底(とうてい)及ばない 驚くべき自然癒能(しぜんゆのう)が
発揮されるかと申しますと、人間は 本来(ほんらい)、神の子としてつくられているという真理を
見出(みいだ)すからであります。
人間の本質は 神であり霊的存在である。 「 神なる人 」 こそ人間自身の実相であります。
自由自在の霊性(れいせい)こそ 人間自身の本来の面目(めんぼく)であります。
吾等(われら)の本来の面目は 神 本来の面目にひとしいのでありますから、
吾等(われら)は 自己の全存在の隅々(すみずみ)までも完全であり、
万徳円満(まんとくえんまん)であり、自由自在で 不悩不苦(ふのうふく)であるはずであります。
此(こ)の真理を知ることは、人をして、あらゆる束縛(そくばく)から解放せしむることに
なるのであります。しかも此(こ)の真理は、人の生命(せいめい)の実相に穿(うが)ち
入(い)る者には 何人(なんぴと)も知ることが出来るのであります。
人の生命の実相に穿(うが)ち入(い)るには これを霊的に理会(りかい)する事が必要であります。
頭で真理を理会(りかい)するということは、真理の周囲をどうどう廻(まわ)りして
真理の外的な すがたを知るに過ぎませんが、霊的に真理を理会するということは、
「 生命(せいめい) 」 の実相そのものに 全身全霊(ぜんしんぜんれい)をもって貫(つらぬ)き入り、
力の本源をつかむことになります。
全身全霊をもって、生命の実相に貫き入るには、この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、
黙読(もくどく)する、朗読(ろうどく)する。目で読み、声で読み、声のリズムの中(なか)に
自分を溶(と)かし込(こ)んで読む、
そして静かに端座(たんざ)して「神想観(しんそうかん)」を行(ぎょう)じ、
行じ終(おわ)って動き出すとき 神 ( 愛 ) の生活を活(い)きる、
かくする時、智慧(ちえ)と愛との揃(そろ)った生活が 実現するのであります。
『 生命の實相 』 ( 新編版 第 5 巻 22頁、頭注版 第 3 巻 98頁 、第 4 巻 2頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
http://www.komyoushisousha.co.jp/5kan.html
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます