神想観の第六過程である「瞑想」は Contemplationを訳したのであります。「黙念を持続的につづけておれば自然に瞑想になる」とスター・デーリーは言っています。
「黙念」の場合には「吾々は本尊を通して本尊の中で念ずるが、瞑想の場合には吾々の内で吾々を通して本尊が念ずるのだ」とデーリーは注釈しています。
まことに神想観の深い状態に於ける心境を道破(どうは)したものと言えましょう。
「自分」と云うものが「神」と対立していて、「自分」が神に対して「祈る」と云う最初の状態から段々「自分」が神に近づいて行って距離がなくなり、ついに「自分」が神の中に入って念ずる ー まだその境地では、神の中に「自分」と云うものがありながら、「自分が祈る」と云う感じがある限り、神と「自分」と云うものの対立は消滅していないのであります。
それが段々、「自分」が無くなり、「自分」と云うものが神に同化する境地になります。自分と神とが一体になってしまう。
神が自分であり、神がこの肉体の中で念じておられるのだと云う境地になるのであります。これが黙念→瞑想→既に成就せりとの強烈なる自覚への到達と云う順序であります。
【完】
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