われらは 生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊(こうれい)を遥拝(ようはい)し
奉(たてまつ)り、次(つ)いで 一家の祖先の霊魂を祀(まつ)れる祭壇(さいだん)
または 仏壇の前に坐(ざ)して その冥福と守護を祈願し、かつ 自己の生命も永遠なれば
常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期(き)す。
この われわれの生命が 永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を
貫(つらぬ)くところのものであります。これがハッキリわからなければ
「 皇霊を遥拝し 」 ということの意義もわかりません。
皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。いろいろの批判はあるにしても、
われわれ日本人は 日本国の歴史を通して 「 今 」 の一点に生きているのです。
そして いろいろの日本国の興隆(こうりゅう)浮沈(ふちん)は あったにしても、
どんなときにも 日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展して
きました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとく ドッシリとして、その中心から
どんな時にも 日本国が立ち直ることができた重心は 天皇がましましたからであります。
われわれは 歴代の天皇の この御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。
恩を知るということが 実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。
だから われわれは 歴代の皇霊に対して崇敬(すうけい)の誠を捧げるのであります。
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われわれは 「 現世 」 とか 「 来世 」 とかいうカンバスに 何で絵を
描(か)くかというと、念波で 絵を描くのであります。
念波という絵具(えのぐ)をもって 絵を描くのでありますから、
その念波を善(よ)くし、また よくしてあげることが 必要であるのあります。
最もよい念波は 何であるかと申しますと、悟りの念波、真理の念波なのであります。
この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施(ほうせ)というもので
ありまして、最も尊い施(ほどこ)しであります。
われわれは 人に物を施すのは、物施(ぶっせ)といって物を施すのと、
それから法施といって 悟りの念波を施すのとがありますが、
真理(さとり)の念波を施すということが 本当の最も根本的な供養になるのであります。
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最高の救いは、やはり真理のお経を 意味が本当に分かって読むに限るのです。
そうしますと そのお経を捧げられる相手方の霊魂は 非常に心が富み、心が満腹し、
生命が生長するということになるのであります。
ですから われわれは 暇があれば朝晩は 必ず 「 祖先の霊魂の悟りのための供養として・・ 」 と
いって生長の家の聖経 『 甘露の法雨 』 を誦(よ)むなり、先祖から伝わっている宗教の経典を
読むということにされることが 祖先に対する子孫の務(つと)めなのであります。
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・・・ われわれは 祖先というものがあって 今ここに生きる機縁(きえん)を
与えられているのでありますから、その祖先に対して われわれが供養する、お経をよんで
真理の念波を供養する、実相のサトリを 供養するということは 実に大切な子孫の務めであります。
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実際上 祖先に対して よく真理を施(ほどこ)しておられる人々は、祖先の守護も多く、
また 自分の善念の具象化として 不幸というものがないのであります。
『 生命の實相 』 ( 頭注版 第28巻 久遠仏性篇 65・66頁、71頁、73・74頁 )
谷 口 雅 春 先 生
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