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☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

「 色即是空 、 空即是色 」 の奥にある「 実相 」を説く

2015-11-08 17:15:56 | 今日の光明法語

生長の家では 「 実相 」 を教える。

実相(じっそう)のうちには、因(いん)もなく 縁(えん)もない、迷いもない、 ・・・・・・


生長の家では 至るところに 「 無(む)よりして いっさいを生(しょう)ず 」 ということを

説(と)いている。この 「 無よりして 物質の無限供給を生ず 」 ということが

「 空即是色(くうそくぜしき) 」 なのであります。・・・・・・


「 色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき) 」 を

「 物質はない、無よりして いっさいを生ず 」 といったん ハッキリ 截(た)ち切っておいて、

そのもう一つ奥には 実相がある ということを 生長の家では 説くのであります。・・・・・・


こんな憂苦(ゆうく)満(み)つる世界は 本来 無いと 断(た)ち切ってしまって、

劫(こう)尽(つ)きて この世が 大火に焼かれると見る時にも、

実相の世界・本当の実在の世界は、このまま、極楽(ごくらく)であると説くから、

このまま われわれは ありがたくなって、自然に われわれは 現象界でも 厭世観(えんせいかん)に

陥(おちい)らずに 喜んで活動しうるようになるのです。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第21巻 経典篇 「 甘露の法雨 」 講義 135頁~137頁 )
谷 口 雅 春 先 生




神の 『 心 』 動き 出でて コトバとなれば 一切の現象 展開して万物 成る

2015-11-08 13:21:11 | 今日の光明法語

ここに「 一切の現象 展開して 万物 成(な)る 」とある その 「 一切の現象 」 とは、
実相界(じっそうかい)の万(よろず)のもの という意味であります。

実相界の万(よろず)のものを 神さまは どういうふうにして お造りになったかといいますと
「 神の心の動き 」 によって造られた ・・・・・・

『 生命の實相 』 ( 頭注版 第21巻 経典篇 「 甘露の法雨 」 講義 22頁 )
谷 口 雅 春 先 生


真象(しんしょう)と偽象(ぎしょう)。 実相(じっそう)を観(かん)ずるという意味

すべてが 絶対者にまします神 又は 久遠(くおん)本仏(ほんぶつ) 如来(にょらい) より
発せられた 想念の展開である という根本真理に立戻(たちもど)って、も少し考えることにしよう。

これが 『 甘露の法雨 』 に示されたる 「 神の『 心 』 動き出(い)でて コトバとなれば
一切の現象 展開して 万物(ばんぶつ)成(な)る 」 という真理なのである。

しかし 爰(ここ)に注意しなければならないことは、 “ 現象 ” と ひとつかみに言ってしまう
けれども、その現象の中には、実は、 “ 神のコトバ ” の展開としての 「 真象(しんしょう) 」 と
“ 迷いの心 ” の展開としての 「 偽象(ぎしょう) 」 とがあることである。

『 ヨハネ伝 』 福音書の第一章の冒頭に 「 言(ことば)は 神なりき 」 と過去形で書かれて
いることに 注目しなければならないのである。

「 “ 言(ことば) ” 即(そく)神(かみ) 」 であるところの 実相世界に於いて
「 神の心動き出(い)でてコトバと、成(な)れば、一切皆善(いっさいかいぜん)の現象あらわれて
万物(ばんぶつ)成(な)る 」 のであり、それが実在界に於ける “ 実在の現象 ” 即ち “ 真象 ”
なのである。

わたしたちが 「 実相を観ずる 」 というのは、この実在界に於ける “ 実在の現象 “ たる
円満完全なる “ 真象 ” の相(すがた)を 観ずることなのである。

『 神 真理を告げ給う 』( 185頁 ~ 186頁 ) 谷 口 雅 春 先 生


真象と偽象とに就いて

ところで この 「 現象 」 という用語について注意すべきことは、
生長の家では、一方に「 現象なし 」 という標語があるのであります。
病気をしておっても 「 現象なし 」 と言って それを心で否定します。

それなのに 「 神の心 動き いでてコトバとなれば 一切の現象 展開して 万物成る 」 と
書かれているのは、一体どういうわけであるかと疑問を起す人もあろうと思いますが、

「 現象 」 のうちには “ 真象 ” と “ 偽象 ” とがありまして、
“ 真象 ” とは実在の真の象 ( かたち ) が 現象化したものであります。
これは 円満完全であって どこにも欠陥がないのです。

それから “ 偽象 ” とは 偽 ( に ) せの象 ( かたち ) ですね 、
偽という字は “ 人( にん ) ” 扁 ( べん ) に “ 為す ” という字であります。

神様が お拵(こしら)えになりましたところの、神様の心 動き出でて コトバとなって
展開して居るところの現象界は 「 真象の世界 」 「 本当に実在する世界 」 であります。

これに反して、偽象の偽は 人扁に為すという字が書かれているように、
人間が 人為的に‘ わたくし ’ の計 ( はから ) い心によって、
神様の御心と違うことを 人間が心に想念して、それが象にあらわれたのが
即ち 偽象であります。

例えば、神様の御心の中には 病気は無いのに 人間が心の中に 「 病気あり 」 と
神の御心と反対のことを思って、病気を現象界にあらわしている如きが“ 偽象 ” であります。

「 現象無し 」 と一喝 ( いっかつ ) する場合は、 「 偽象 無し 」という意味であります。
「 本当に在る 」 ものは、 “ 真象 ” のみである。
“ 真象 ” は 即ち “ 實の相 ( すがた ) ” でありますから、實相であります。

実相世界に展開せる現象は 即ち “ 真象 ” であって、神のコトバ 即ち 理念 が展開して
実相世界の万象が 出来上ったのであります。

しかし神は “ 霊 ” であって “ 物質 ” ではないのでありますから、
神様の造り給うた 「 真象の世界 」 は 唯 “ 霊 ” によって出来て居るのであって、
物質によって出来て居るのではないのであります。

人間も神によって、造られた其の儘の 「 人間 」 ( 実相人間 ) は、決して肉体では
ないのであります。

物質の世界や肉体の人間として、吾々が感覚で見ているのは 吾々の五官で翻訳して
物質化して そのように見ているのです。

例えば ここに映画が写るとしますと、それは 「 時間・空間 」 という縦 横 厚み の
ひろがりのある所の映写幕 ( スクリーン ) が 「 心 」 によって造られ、
そのスクリーンに向うから光が来て 映画が映る。

ところが映写機から来るのは 光の波動が来るのであって、物質的な固定化した 「 形 」 では
ないのであります。それが 時間・空間 の 縦 横 厚み の映写幕 ( スクリーン ) に触れると、
それが翻訳されて、波動が空間的ひろがりある形として表現されるというわけであります。

物質界 又は 肉体の健全な姿は、実相世界の真象が 誤訳なく翻訳されて 完全な時間・空間面に
物質化して映出された訳でありまして、病気・不幸・災難の如きは、 「 人間の心 」 が
実相世界の真象が 時間空間の映写幕 ( スクリーン ) に うつされる途中で、
誤訳 ( 迷い ) が入って 歪んであらわれている結果であります。

新講 『 甘露の法雨 』 解釈 ( 100頁 ~ 101頁 ) 谷 口 雅 春 先 生



金剛常楽の実相世界 ― 万教帰一の根本

2015-11-07 08:18:11 | 今日の光明法語

生長の家においてはまず 「 物質は ない 」 という一つの大いなる真理の前提があるのであります。

「 物質は 無(む)である 」 こういう真理の前提があるがために、 「 この世(よ) 」 とか、

「 この世の創造主(つくりぬし) 」 とかいう場合の 「 この世 」 なる この世は、決して

この物質の この世でない、ということを まず知っておかなければならないのであります。

・・・・・

それで、この 「 物質は ない 」 という生長の家の発見したる尺度(しゃくど)によって、

キリスト教を解(ほど)いてゆき、仏教を解いてゆくという時に 初めて、この神なるものと

仏なるものとが 一つである ということが わかるのであります。


「 神が この世を造り固(かた)め給(たま)うた 」 として、 「 この世 」 という言葉を

「 物質世界 」 と見る限りにおいて、それは 迷いである。


けれども その 「 この世 」 という言葉を 物質世界の奥にある金剛常楽(こんごうじょうらく)の

「 実相の世 」 という意味において 使う限りにおいては、その創造主(つくりぬし)は

創造神(そうぞうしん)である と同時に、一如(いちにょ)の仏であり 如来(にょらい)である。


その完全円満なることを 形容して この聖経には 「 無限(むげん)、宇宙を貫(つら)く心、

宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則、真理、光明、智慧、絶対の愛。これらは大生命(だいせいめい)

 ― 絶対の神の真性(しんせい)にして 」 と こう書いてあるのです。


こういう無量寿(むりょうじゅ)、無量光(むりょうこう)、絶対一如(ぜったい いちにょ)の

真理であって 三世(現象世界)を超越(ちょうえつ)し、物質世界を超越せる妙妙(みょうみょう)なる

大生命(だいせいめい)、これが 仏教における仏 でなくてなんでありましょう。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第21巻 経典篇 「 甘露の法雨 」 講義 11頁~14頁 )
谷 口 雅 春 先 生




すでに 成仏している ‘ 生きとおし ’ の生命

2015-11-06 20:07:32 | 今日の光明法語

生命は 始めなく 終わりなく 無限時間に 生きとおす ― 

それを 生長の家では ‘ 生きとおし ’ の生命 と言っているのであります。


・・・・・ われわれの生命は 生き ‘ とおし ’ のものであって、

始めなく、終わりなく、亡(ほろ)びなく、死滅(しめつ)のないものである。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第21巻 経典篇 「 甘露の法雨 」 講義 86頁 ~ 87頁 )
谷 口 雅 春 先 生



すでに 無限億劫(むげんおくこう)以前(いぜん)から 成仏している 生きとおし の

自分であるということを 知ることが 肝要(かんよう)であります。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第22巻 経典篇二 聖経「天使の言葉」講義 103頁 )
谷 口 雅 春 先 生



『 生命の實相 』 の読み方

2015-11-02 15:05:05 | 今日の光明法語

何故(なぜ)吾々が 「 生命の実相 」 の扉(とびら)をひらく時、

医術(いじゅつ)などでは 到底(とうてい)及ばない 驚くべき自然癒能(しぜんゆのう)が

発揮されるかと申しますと、人間は 本来(ほんらい)、神の子としてつくられているという真理を

見出(みいだ)すからであります。


人間の本質は 神であり霊的存在である。 「 神なる人 」 こそ人間自身の実相であります。

自由自在の霊性(れいせい)こそ 人間自身の本来の面目(めんぼく)であります。

吾等(われら)の本来の面目は 神 本来の面目にひとしいのでありますから、

吾等(われら)は 自己の全存在の隅々(すみずみ)までも完全であり、

万徳円満(まんとくえんまん)であり、自由自在で 不悩不苦(ふのうふく)であるはずであります。


此(こ)の真理を知ることは、人をして、あらゆる束縛(そくばく)から解放せしむることに

なるのであります。しかも此(こ)の真理は、人の生命(せいめい)の実相に穿(うが)ち

入(い)る者には 何人(なんぴと)も知ることが出来るのであります。


人の生命の実相に穿(うが)ち入(い)るには これを霊的に理会(りかい)する事が必要であります。

頭で真理を理会(りかい)するということは、真理の周囲をどうどう廻(まわ)りして

真理の外的な すがたを知るに過ぎませんが、霊的に真理を理会するということは、

「 生命(せいめい) 」 の実相そのものに 全身全霊(ぜんしんぜんれい)をもって貫(つらぬ)き入り、

力の本源をつかむことになります。


全身全霊をもって、生命の実相に貫き入るには、この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、

黙読(もくどく)する、朗読(ろうどく)する。目で読み、声で読み、声のリズムの中(なか)に

自分を溶(と)かし込(こ)んで読む、


そして静かに端座(たんざ)して「神想観(しんそうかん)」を行(ぎょう)じ、

行じ終(おわ)って動き出すとき 神 ( 愛 ) の生活を活(い)きる、

かくする時、智慧(ちえ)と愛との揃(そろ)った生活が 実現するのであります。


『 生命の實相 』 ( 新編版 第 5 巻 22頁、頭注版 第 3 巻 98頁 、第 4 巻 2頁 ) 谷 口 雅 春 先 生

http://www.komyoushisousha.co.jp/5kan.html