走ってばかりじゃ
つかれちゃう
たまには歩いて
たまには止まって
たまには昼寝。
よく人から言われます。
疲れませんか?って(苦笑)
何時の頃からでしょうか??
こういう生活?
ボランティアという世界への関わり?
それが始まってからですね。・・・
元々は、青年会議所(JC)との関わりがスタート
正確に言えばきっかけという表現が正解??
JCに入会しただけではこういう状態にならない(苦笑)
JC=今ではなく
そこでの役割?活動の積み重ねが(途中経過?)あって・・・
JC→JCでの役割・関わり→その通過点での理事長職
結果、今の自分がある?という状態・・・
以前も書きました?(ふれた記憶が・・・)
2002年度高崎JC理事長時のフォーラムのパネリストとの出逢い!?
そのお一人が当時の市P連(今の高崎市PTA連合会)の副会長・・・
そのご縁?でよく年JC現役最後の年にPTA役員デビューをしました(笑)
とはいえそのPTA活動=今ではなく
自身の子どものいる学校でのPTA本部役員として
自身の住んでいる地域の市のPTA本部役員として
自身の住んでいる地域の県の役員として・・・
さらにいろいろな関わりが・・・
たくさんの縁と出逢いもありました。
その縁の中で戴いた情報で父親クラブの創設のお誘いが・・・
結果、観音山コミュニティクラブが設立された・・・
父親クラブ的な存在?としてのご案内ではありました・・・が
私の思いは当初から男女協働参画の組織として設立!?でした。
PTA会長時代だったのでいい意味でのPTAとの協働も・・・
今にして思えば総て?いい?タイミングだったと思います。
結果・・・
その観音山コミュニティクラブとしての活動からの広がりで
群馬県の社会教育委員の情報も・・・
書類審査、面接審査と緊張の連続の中での合格通知?
長男君が就職活動中ですが・・・
まさに同じような気持ち??
ただ、私の場合は不合格=人的魅力の不足?という烙印だけですが(苦笑)
合格できたから言えることですが・・・
PTA活動と並行して多くの役職との関わりがありました。
PTA会長としてのあて職もありますが・・・
市P連会長としてのあて職は本当に多かったと思います。
小中の保護者の意見を聞く=市P連会長の意見的な図式があったのでは?と思います。
逆の立場で言えば、特定多数の中から一人を抽出するのはかなり大変です。
そういう意味で市P連会長という存在は、抽出する理由に苦労しないポジションだった(笑)
40歳までだから(JCの卒業が40なので)・・・と
家族に話をしながら子育ての多くを家内に依存をしてきた過去・・・
市P連会長が終わるまでだから・・・と
家族に話をしながらその延長戦に入り??
そのまま教育委員という役割が舞い込んできてはや4年・・・
29歳でJCに入会をして・・・
気がつけば20年という月日が経過しようとしています。
年齢で追ってみると(改めて?書いてみると・・・)
29歳から助走に入り・・・(JC入会)
38歳で高崎JC理事長に・・・
42歳で市P連会長に(単P会長は40歳から4年間)
44歳で教育委員になり・・・
47歳で教育委員長へ 私の中では、総てボランティア精神としての関わりです。
今日の言葉・・・
確かに走り続けている?人生・・・仲間がいるから出来ているんでしょうね(*^_^*)