将棋で例える。
まだ指しかけの勝敗の決していない将棋。
重要な次の一手を考える場面で、すでに自分の指した悪手を
振り返っては悔やみ、延々と愚痴をこぼしている人。
それが私の父親である。
将棋で例える。
まだ指しかけの勝敗の決していない将棋。
重要な次の一手を考える場面で、すでに自分の指した悪手を
振り返っては悔やみ、延々と愚痴をこぼしている人。
それが私の父親である。
『タイム・トゥ・ラン』
リアリティー0でも楽しめる映画。
★★★~★★★☆
『サボタージュ』
リアリティー0にうんざりする映画。
★★
ふと思う。
歯科医は自身の老眼とどう向き合っているのだろう。
老眼鏡で治療するには患者の歯までちと遠すぎる。
かといって老眼鏡なしで治療するにはちと近すぎる。
歯科医はこの難題をどう克服しているのだろう。
1年前から2階のトイレを使っている。
正確には2階のトイレだけを使っている。
1階のトイレは使わないことにしている。
理由は二つある。
ひとつは2階のトイレの便座が新しくなったからである。
もうひとつは運動のため。
とりわけ後者の理由が大きい。
いかなるときも2階まで上がって用を足す。
結果、1日5~6回は階段を上り下りすることになる。
最近動きの少なくなった私には得難い運動になる。
1階のトイレには悪いが、当分使うことはないだろう。
とはいえ、たまには1階のトイレをのぞくことがある。
用を足すわけでもなく便座に座り漠然とトイレの中を見渡す。
1年の間、放置されたままの本や雑誌に目がいく。
半分は私の本である。
使っていない手洗器の中で無造作に重なり合っている。
一番上にあるのは、つげ義春の特集本である。
あのとき置いたままの本が同じ状態で積まれている。
ヤクルトのカレンダーは今月のページがめくられている。
それ以外、なにも変っていない。
取り残された過去を振り返るようである。
わびしさとほんのり懐かしさがこみ上げてくる。
元妻や元夫に久しぶり会うというのはこういう感覚ではないだろうか。
薄汚い黄ばんだ便器を見ながらしみじみそう思う。
「誤解を招いた」という謝罪の大半が誤解ではない。
ありのままに本音をいって叩かれているだけのことである。
発言者と民との間にはどこにも「誤解」は生じてしない。
なのに彼らはいう。
「誤解を招いてしまって申し訳ありませんでした」 と。
今日は土曜日。
昼の12時に目が覚める。
起きる前に夢を見た。
オカンの作った焼き飯を食べていた。
異様に細長い皿に盛られていた。
全部は食べれないので、皿の端の部分を娘にあげた。
残りの約7割を食べて、あとはオカンにあげた。
香ばしくて意外と美味しかった。
集落の12時のサイレンで目が覚める。
15分後にベットから立ち上がる。
1階に降りて、リビングの入り口からダイニングの食卓を覗く。
丸い皿に焼き飯が盛られていた。
引き続き、オカンの焼き飯を食べる。