イーヴォ・ポゴレリッチといえば、第10回ショパンコンクールの第三次予選で落選した際、マルタ・アルゲリッチが「彼は天才よ!」と抗議、審査員を辞任した、という伝説があまりに有名。それなのに、なぜかこれまで生で聴いたことのなかった演奏家。
さて、本当に彼は「天才」なのか?期待半分、不安半分で会場に向かう。いつもの通り、たった8ポンドのコーラス席。席に向かうと、誰かがステージの端に置かれたピアノを弾いている。コートを脱ぎながら、ステージの方向に顔を向けると、
目が合った。
え?もしかして、これがポゴレリッチ?
はっきり言って、どこの浮浪者か?といわんばかりの格好である。ニットの防寒帽をかぶって、ぼろぼろになった楽譜を横に置いて。でも、こんなに美しい音でピアノを弾くことが出来るのだから、これがポゴレリッチに違いない。しかし、広告の写真とあまりに違う。
曲はチャイコフスキーのPf協奏曲第1番。うわぁ、これまで聴いたことのあるこの曲とは全然違う。それにしても、このオケは何だ?淡々と弾いているだけ、全然ピアノに寄り添おうとしない。
ちゃんとポイントの音のタイミングはピアノとオケで外れないのだけれど、その音へ向かうアプローチがピアノとオケで全然違う。それをお互いが少しも合わせようとしないって、一体どういうこと?
既に62歳のポゴレリッチ、何故だろう、他の人たちと全然違うのに、心をつかんで離さない。ああ、やっぱり「天才」なのだわ、この人。
ロンドンでは10年振りの演奏だったらしい。空席があったのが不思議(勿体無い!!どこでもドアがあれば世界中から友達を呼びたい)-素晴らしい演奏家なのに。ちょっとエキセントリックなのかしら。
後半はショスタコのSym No.5。先ほどの演奏が嘘のように魅力的に聴こえた。このオケには、あるいはこの指揮者(Tugan Sokhiev)には、流れるような曲より、このショスタコのような縦に割ったようなリズムの曲が合っているのかもしれない。
今夜も素敵な演奏をありがとう。
ポゴレリッチのロンドン公演・・・聴いてみたかったです。
本当にいつの間にか、そんな年齢になってしまったんですね。
日本では、(2007年にリサイタル後)今年・5月の
東京開催のラ・フォルジュルネ音楽祭でも
目玉のような扱いで出演し、私も行ってきました。
東京のラ・フォルは今年はショパン記念年の企画で、ポゴ氏は2番
の協奏曲を弾きました。
Que ma vie さんが記されている通り、近年出回っていた宣材写真
とは確かに別人のような風貌になっていて、驚いたというか、正直、
軽いショックを受けました (当日の会場で目にして「誰?この
オッサンは・・・」と呟きたくなった人は少なくないと思われますが。
青年時代はパリコレに出てきても良さそうな位、イケてたのに。)
本番キャンセルされる事を考えれば
目を瞑ったほうがよい事に過ぎないんでしょうが。
5月は、チケットが求めやすい価格だった事もあり、お客さんは
満員でした。
クラシック初心者も多い同音楽祭に、本当に出演するのかと、
正直、信じられなかったけど。(この演奏会ギリギリまで、
いつドタキャン告知があるかと、ちょっと心臓に悪かった)
本番を譜面見ながらに少し驚きましたが、しかし 、この上無く
繊細なクリスタル細工のような弱音のコントロールは凄かったし、
かなり強烈な響きのフォルティシモまで、音作りのバリエが
半端無いという感じですね。
(同5月の来日リサイタルでは、FFの音色の凄まじさに
「破壊的」とまで感じる感想も出ていたようですが、国際フォーラム
の5000人規模の大ホールでは、そこまでバランスを崩すような
印象は無く、それほど違和感は感じませんでした)
ただ、(彼の演奏でのお約束か)楽想の流れが時折り止まりそうに
なる表現箇所もしばしばあり、少々ヒヤッとさせられたり・・・
Que ma vie さんの聴かれたチャイコンも、そんな感じだったでしょう
か。(聴き手にまで、尋常ならざる集中力を要求されると言うか、
他で耳にする通常のコンサートと違った神経の
遣い方を要求される内容である事は確かでしょう)
指揮のチチナゼは、伴奏のシンフォニア・ヴァルソヴィアを
比較的ソツ無く、ポゴレリチに併せていたと思います。
第2楽章中間部は、弦楽器のトレモロが、風に吹かれてザワザワと
風に吹かれて蠢く森の木々の葉のような様子で再現されて見事で
した。その中を、硬質な澄み切った音色で弾き進むポゴのピアノが、
震撼とした森の奥へ分け入って行く旅人のように感じられました。
アンコールでは、その時引き終わったばかりの協奏曲から
第2楽章を演奏し・・・。 本人的には、公演の後半に入って、
やっと本人の興が乗ってきたという状態だったのか。
(確かに演奏の内容的にもアンコールのほうが、
より精神性を感じさせるものになっていたと思います)
ガイアと言うか、グレート・マザーと言うか、非常に
巨大な構築性を感じさせるもので、何か「悟り」に近い境地に
差し掛かっているような印象を受けました。
(禅に関心が深いと聞きますが、その辺の影響も多少あるかも)
演奏終了後、ピアノの蓋&屋根を自ら閉めて椅子を蹴り込んだり、
(客席の笑いを取ってたけど)最後まで、やりたい放題のポゴ様にも
ちょっと驚きました。
アーティストに取ってロンドン公演は大きな意味を持つものと
思いますし、そこで、10年振りにライブを行なうと言う事は、
本人的にも、近年までのスランプ期を脱した手応えを
感じているのかもしれないですね。
今後の活動に目が離せなくなりそうです。
ポゴレリッチに関するコメントありがとうございます。
本件、演奏そのものもエキセントリックで、面白かったのですが、私にはその後の批評も面白く思えました。
このインターネット時代、まるで自分の友人であるかのように作曲家や演奏家の情報を得ることができ、逆にその色眼鏡を通してしか演奏等を捉えられなくなっているような気がいたします。
ポゴレリッチが亡くなった奥様と住んでいたのもロンドンですし、お父様亡き後コンサートに姿を現さなくなった彼がロンドンで行う実に10年振りのコンサートだったと伺いました。
そういうBackgroundを知ってしまったら、それ抜きにあるいはそこに意味を見出さずに人が演奏を聴くことはかなり難しかったのではないかと思います。
Guardianの批評家Martin Kettleはこんなコメントを書いています(批評の後のコメントのやりとりで)。
Who knows why there was a standing ovation? Part star worship, I assume. But also perhaps a sense that this concert was a struggle for Pogorelic and that they had witnesses a man fighting his demons? This is pure speculation on my part, since I don't know whether it was really a struggle or whether he was, as you say, making fun of us.
ポゴレリッチが、彼の闇と戦っているにしても、聴衆を面白がらせるためにやってきたのだとしても、いずれにしても、こんなことが話題に上るポゴレリッチは相変わらず「鬼才」に分類されるピアニストである、と感じた次第です。
ロンドンでは流石に反響が大きいようですね。
特異な才能を持つ一人として、今後、再び順調にキャリアを伸ばしていって
くれたら、業界も愛好家も本望と思います。
現在も(賛否両論あれ)、鬼才の名に相応しい一人であろう事は間違い無いと思いますが。
意外と、あの極端なテンポ以外は、楽譜の指示に忠実らしいという
話もあるようですね。
今度機会があったら、楽譜持参で確認してみるのも
面白いかもしれません。
(事前に、どの版を使っているか判れば良いのですが)
現地のコメント引用文、ありがとうございます。
ただ、こちらの記事の批評家氏は、彼自身は
ポゴの演奏内容をどのように評価していたのでしょう。
コメントで拝見する限りでは、
当日の聴衆から受けた喝采と、
ポゴ自身が抱えてきたスランプ期からの葛藤に言及するとしても、
記者の方が個人的に、演奏から具体的にどのような印象を感じ取った上で、このような発言に至ったのか、ツボになるポイントが
ちょっと見えにくい感じがしたので。