先日のブログに、アクア・パッツァを作った時の写真を載せた。また、それは友人の来訪に備えたものだとも記載した。しかし、その続報がないことが気になっていらっしゃる方もあるかもしれない。
そう、どうなったかというと-
皆様のご期待通りである!ありえないことが起こったのである。何かと言うと-魚を保存するので冷蔵庫の温度を少し下げたら-冷蔵庫の中にあったすべての食材が凍った-魚も、野菜も、水もペリエもすべて、白ワインを除いて-。大不戦敗である。
こんなにできない人の友人なんて、普通やっていられないものだが(私だったら間違いなく、I am out!である)、親切なその人は、懲りずにリベンジの機会を与えてくれた。
結果は-
爆発することもなく、無事完成。今回の反省点はエビを魚と一緒にずっと煮込んでしまったこと。確かに「出汁」としては良いが、食べるには少し身が固くなってしまった。
何とかリベンジが果たせたことだし、次は何に挑戦しよう?
相変わらず懲りない私である。
今日のプロムスはギル・シャハムのVnでバーバーのコンチェルト、シベリウスの交響曲第2番、他。
今日はちょっとギルが遠くて、アイコンタクトができず残念。また、白魚のような指も拝むことができない。でも、「ポリニャック伯爵夫人」の音はロイヤルアルバートホールのようなコンディションでも美しく響いていた。広すぎるからか、いつもの「ポンパドゥール夫人」と言いたくなるような迫力ある音には聞こえないけれど。
バーバーのコンチェルト、最初は美しく歌い、最後は技巧を遺憾なく発揮。アンコールはバッハの無伴奏ソナタとパルティータから。ヴァイオリニストはこれさえあれば、アンコールには困らないのか知らん。
後半はシベリウスの有名な交響曲第2番。最初が、なんというか、テンポ的に自分のツボにはまらず、あまり気持ちよく楽しめなかったが、後半に入って、それほどテンポ感の違いが気にならなくなった。
このテンポ感について、思いを馳せた。音楽は楽譜であらわされていて、それをどう解釈し、どう弾くかは演奏家次第である。それがどのようなテンポ、揺れをもって演奏されるかで、こんなにも同じ曲でありながら好き嫌いが分かれるのであれば、私は本当に「作曲された曲」を聴いているのだろうか?と。
このあたりが、本当に音楽を学んだ人と素人である私との違いなのかもしれない。ピアノの先生は、どんな速度で演奏されようとも、その曲はその曲に聞こえるとおっしゃってられたし。楽典やらなにやらを学んだら、演奏のされ方に左右されずに曲を評価できるようになるだろうか。それでも、演奏による違いを今と変わることなく楽しめるのだろうか。
いずれにせよ課題や未知なことがある、というのは楽しいことである。
英語になじまなければ、と思って早3年。しかし、なじめないものはなじめない。
今回も結局Amazonで日本語の本を購入。1週間もしないうちに読了してしまった。それにしても便利な世の中。月曜日の夜中に注文して木曜日には手元に届いているのだから。送料込みでは結構な値段だったのに、もう楽しみが終わってしまった。。。
貨幣つながりで
手嶋さんとくれば佐藤さん
で、久しぶりに島田雅彦なので
一番期待していた「悪貨」が意外と稚拙な感じを受け、もしかしたら途中で飽きるかな?と思っていた「徒然王子」を断然面白く感じた。著者の意気込みというか、勉強の具合が違うように思うのは私だけだろうか。
ま、参考文献などを見ると25~20年前を思い出すから、もしかしたら、そのノスタルジーで気に入ったのかもしれないけれど。
三つ子の魂百までではないけれど、ニューアカはいくつになっても私の中から消えないのかもしれない。
先日、ロイヤルフェスティバルホールで指揮振りを見て気になっていた指揮者、ネゼ=セガンが主席指揮者を務めるロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団を伴ってプロムスに登場、ということで出かけた。
ワーグナーの「タンホイザー序曲」。ワーグナーはどうも聴くとハマってしまうので、ネゼ=セガンがすごいのかワーグナーがすごいのかわからないが、個人的にはかなり好きな演奏だった。ネゼ=セガンのパワーが素晴らしい。私はこのエネルギッシュ系の指揮に弱い。しかし、今日は序曲だけだから良いが、この指揮ぶりでオペラ全曲を振れるのだろうか。彼やGustavoがワーグナーを振ったらどんなことになるのだろう。ちょっと見てみたい。
後半はベートーベンの交響曲第3番。ワーグナーもそうだが、ネゼ=セガンは緩急のスピード差が非常に大きい印象。ゆっくり目な部分はかなりゆったりと、速い部分は極限まで速く演奏させるのが好きらしい。
今日のお気に入りは、オーボエのおじさま。演奏が素晴らしくて、目を向けてみたら、フランスのドビルパン元外相張りの渋いお顔。もう、すっかりファンになってしまった。今度はロッテルダムまで演奏を聴きに行ってしまおうかしら。
ネゼ=セガンも今日は大分ご機嫌だったのか、オーボエのおじさまを讃え、ホルンを讃え、活躍の多かったセクションを讃え、アンコールも振り、その後、パートごとに讃え、投げキスをして帰っていった。この間のロイヤルフェスティバルホールは、ご機嫌斜めだったのかしらん。
まだ8月の半ばを過ぎたばかりなのに、ロンドンはもう秋のような日々である。日の落ちる時間も大分早くなってきた。
涼しくなると食欲が亢進する-ロンドンの場合、暑さで食欲が減退することもないのに(即ち食欲は亢進する一方)。
というわけで朝からサラダを作って食べる。最近、アクア・パッツァを作ったときの材料-ケイパー、オリーブ、ドライトマト、アンチョビ-をドレッシングに混ぜるのがマイブーム。
そして、お買い物の途中、ちょっと疲れたので-
William Curleyで大好きなモンブラン。ちょっとクリームが多いかなぁ。でも、秋の定番スイーツといえばこれ。せっかく歩いてカロリーを消費したつもりになっていたけれど。。。
サロネンが先日のArvo Partの交響曲第4番「ロサンゼルス」を振る、というので、Gustavoの前のLAフィル音楽監督であるサロネンということに興味を覚え行ってみた。
音楽から特別に何かを想起してほしくて曲を作るわけではない、といっていた作曲家も居たが、「ロサンゼルス」と標題が付くからにはなんらかの関係があるのだろうが-印象としては砂漠のような荒涼とした大地に日が昇る、あるいは黄昏が訪れる、といった感じで、先日訪れたロサンゼルス市街地とはちょっと違った印象。
後半はラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲。左手だけで弾いているなんて信じられない。しかし、このひどく派手な感じは、ヴィトゲンシュタインのイメージと恐ろしくかけ離れている-勿論、ヴィトゲンシュタインといっても、哲学者本人ではなくそのお兄さんだが。
しかしやはりWikiを見ると、ヴィトゲンシュタイン兄はこの曲が気に入らなかったらしい。弾けなかったから悔しいのかも、という見方もできるけれど、ヴィトゲンシュタインっぽくないことは確かだ。
最後はスクリャービン。全体的に派手な曲が多かった。ちょっと疲れたかな。
ロンドンのマンション(フラットという)は、家具付きという物件が多い。今住んでいるフラットも家具付きである。かなりの大画面液晶テレビとDVDが付いている。日本に居たときからTVは持たない、見ない私であるが(TVから聞こえてくる人の声、その音が苦手である)、折角だから、とGustavoのDVDをBGMに。
今日見たのはエル・システマのDVDとLAフィルの就任コンサートのDVD。いろんな指揮者が居て、Gustavoよりずっと綺麗なお顔の指揮者も多い。しかし、Gustavoのこの笑顔。この音楽に対する情熱。オケの奏者が微笑みながら演奏する、ってあまり見ないけれど、Gustavoの時には頻繁に起こる。
実際、こうやってDVDを見ている私の顔も、彼の顔を見ていると思わず緩んでしまう。これが天が彼に授けた才能の一つだ。
あるとき知人が「Gustavoが政治的に受け入れられない体制に走ったら彼の音楽を受け入れられるか?」と聞いてきた。
私の答えは「No」である。他の指揮者に関しては、音楽は音楽、その指揮者の人間性は人間性、と割り切れるのだが、Gustavoに限っては、その人間性も私にとっては彼の音楽の一部である。このマラ1も、決して音楽として私の一番の演奏ではないのだが、彼の指揮様を見ていると、そうしたことを通り超えて心に迫り来る何かがあるのだ。
Gustavo、あなたの笑顔が私を支えてくれている気がします。ありがとう。
ここのところ寝不足だし、昨日は22時15分からのプロムスでシンデレラ帰還だし、どうしようか迷ったが、パリに住む元ピアニスト志望の友人が好きなルガンスキー-というわけで、前半だけ聴くことにした。
ルガンスキーといえばラフマニノフ弾きとして有名。その彼がラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲を弾いた。以前、ロイヤルフェスティバルホールでラフマニノフのPf協奏曲を弾いたときは今一つに思えていたのだけれど、今日はなんだかいい感じ。
テクニックは評判通り素晴らしい(コンマスはアンコールの時、物珍しいものでも見るかのようにルガンスキーの指を見つめていた)し、有名な第16変奏のアンダンテ・カンタービレも綺麗に歌っている。いやいや、満足。音については、会場のせいでオケにかき消されてしまった部分もあって、ちょっと残念。もう一度きちんとしたホールで聴いてみたい。
聴衆も大歓声でルガンスキーを讃える。この出来ならば当然だろう。ちょっと疲れ気味だったけれど、来て良かった。
ヨハネ受難曲といえば勿論JSバッハのものが有名なのだけれど、今日はArvo Part(アルヴォ・ペルト)が1982年に作曲したもの。知人がこの作曲家が好きだということで紹介してもらった。
古典的な和声に基づいた教会音楽、といえばよいのだろうか。歌手の声質も透明を旨とするようなもので、聴いていると心が洗われるようであった。キリストを担当したバスのBrindley Sherrattの声がとても美しく心地よかった。平均律ではない音律を使っているのかな?などと思ったけれど、よくわからない。教会で聴いたらさぞかし美しいだろう。
こういう美しい声で歌われる曲を聴くと、一緒に歌いたくなる。帰り道、バッハのマタイ受難曲を思わず口ずさんでしまった-が知人には「何の曲かわからない」といわれた。
ショックからまだ立ち直れないで居る。