2009年6月26日、グスターボ・ドゥダメル指揮、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団、ヴァイオリン独奏、ルノー・カプソン。パリ、プレイエルホールにて。
コルンゴルト、ヴァイオリン協奏曲。カプソンはかなり激しい演奏振りで、体が弓なりになる。まるでジャズヴァイオリンか何かのようですらある。ところどころ、別の弦を引っかく音がしたが、前から2列目で、また私自身がレッスンでよく先生に注意されていたから気になったのかもしれない。ヴァイオリンの音が深く明るく、とても好みだった。プログラムに拠れば1737年製Panetteという銘を持つガルネリ・デル・ジェスとのこと。やっぱり、いいね、ガルネリ。私もいつか欲しいよ。。。
マーラー交響曲第一番。
第一楽章は、管楽器の出だしが揃わない・音が出ない、曲の分析はできているのだが、それがIntegrateされ切っていない、上手くまとまりきっていないという印象が当初あった。しかし後に行くほどどんどん良くなってゆき、楽章の終わりは、華麗にフィニッシュ!
第二楽章の演奏は、彼一流のちょっとアーティキュレーションが強いというのだろうか、独特の節回しがある。50小節目ホルン(後にトランペットも)の八分音符6つの「ぎしぎしぎしぎー」は、絶対ドゥダメルは楽しく弾くだろうと思ったら、その通りだったので噴出しそうになる。
第三楽章の冒頭、コントラバスのソロはとてもよかった。事前学習で聴いていたCDのコントラバスはAの音を低くとっていて、短調らしさは出るように思うものの気持ち悪かったのだが、今回のソロは普通に聴こえてすっきり。
第四楽章。青春を謳歌するような素敵な楽章。指揮とオケの一体感がたまらない。記憶が定かでないが、375小節目に入る前-Luftpauseの一瞬の間が魔法のような瞬間に思われた。聴きながら、いつかドゥダメルは自分の青春を振り返ってこの曲を演奏するときがくるのだろうな、その演奏を聴いてみたいな、と思った。長生きせねば。
有名なエリヤフ・ゴールドラット『ザ・チョイス』のなかに、こんな感じの一節がある(手元に本がないので曖昧なのだが)「もし、自分の考えを十分に表現できないのなら、なぜ本を書く必要があるのか」。ドゥダメルを見て、「もし、十分に音楽を表現できないのなら、なぜ演奏をする必要があるのか」というメッセージを聞いたような気がした。すなわち、全力で物事に向き合わないのであれば、何もしないほうが良いよね、ひいては「生きる限り全力投球」と。
演奏が終わった後、第二ヴァイオリンのトップはドゥダメルに拍手をしていた(ソリストに対しては良くあるが、指揮者に対しては初めて見た気がする)。またほかの団員も足を踏み鳴らして、観客とともにドゥダメルを讃えた。また、私の後ろにいた人は、「ブラボー」に加えて「メルシー」と叫んでいた。グスターボ・ドゥダメル。若干28歳の指揮者。彼の音楽と音楽に対する姿勢は、今日も人々の心を捉え、彼ら・彼女らの人生をも変えたことだろう。
2009年6月21日、グスタボ・ドゥダメル指揮、ケルンフィルハーモニー管弦楽団。ヴァイオリン独奏:クリスティアン・テツラフ。
前半はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。もともとヴァイオリンを演奏していたドゥダメルにとっておなじみの曲なのか、協奏曲の時にはスコアを使う傾向にあるドゥダメルだが、譜面台は取り払われた。
テツラフのヴァイオリンは、なんとなく深みが足りなく感じられた。現代物(楽器)の限界か。朝雨が降っていたせいなのか、まだ朝(11時開演)で、テツラフも楽器も起きていないのか。それともホールの音響のせいなのか。また、かなり「飛ばし」て弾いたため、単音から重音に移るとスピードが落ちるような印象を受けたり、ところどころ音をミスしているようなところがあったり、いまひとつ冴えない。協奏曲ではソリストと指揮者どちらがテンポコントロールをするのかわからないけれど、少々今日のテンポはテツラフの限界を超えた気がしないでもない。
さて、後半はお待ちかね、アルプス交響曲。オケの管楽器になかなか良い印象を受けていたので楽しみ。
期待を裏切らない演奏であった。これまでに聴いたアルプス交響曲の中でも、一番エキサイティングな演奏だったと思う。注文をつけるとすれば、出だしとオーボエ(彼は長いメロディは上手いのだが、短い装飾音は緊張するのか?)。
ドゥダメルのすごいところは、曲をとても綺麗にわかりやすく再構成できるところ。沢山の小さな美しいメロディが彼の演奏を聴いていると聴こえてくる。これは、彼の曲の分析力に加えてコミュニケーション力に拠るところも大きいのだろう。あの表情豊かな顔で見つめられると、思わずその気になる。どんなオケでも楽団員が楽しそうに弾くのがすごい。プロのオケでは、「もうこの曲飽きたよ」といった顔をしながらいい加減に弾いている印象を受けることがままあるが、ドゥダメルにかかると、メンバー一人一人が、音楽を作ることが楽しくて仕方がない、楽器を弾ける才能に恵まれてよかったと感謝しているようにすら見える。
偶然隣り合わせた女性は、ロンドン在住で、ケルンの親戚を訪ねた機会にこの演奏会に来た、と言っていた。私がドゥダメルを追いかけてヨーロッパ中を旅している、と言ったら最初は驚いていたが、アルプス交響曲が終わった時、彼女の目は赤かった。そして言った。
あなたが彼を追いかけるのがわかったような気がする。
日曜日のコンサートを目当てにケルンに来たが、土曜の夜、ショスタコーヴィッチのプログラムがあることに気がついて、鑑賞。
ピアノ協奏曲は、デニース・マツーエフのピアノ(彼の名前を知らなかったが、1998年チャイコフスキーコンクールピアノ部門優勝者であった-無知にもほどがある)。知らない人、どんなピアノを弾くんだろう、と思ったら、ああ、ピアノの先生に言われる「力を抜いて」がここにある。
さらさら、っと弾いてゆく。ショスタコの協奏曲の難易度ってどのくらいなんだろう。左右が比較的同じような動きをするので、プロコに比べたらシンプルで楽な気がするが。
これまた、アンコールで自分をアピールするだろう、と思っていたら、その通り。グリーグの「山の魔王の宮殿にて」だった。なるほど、技巧を売りにしているのだな。最後は、音が正しいのか、ちょっと怪しいが、物凄い「ノリ」で弾ききった。ピアノが壊れるかと思った(もう演奏しないから、調律が狂ってもかまわない、ということだったのかも?)
思わず、カーネギーホールでのライブを購入(なぜなら、プロコのソナタが入っていたから)。ライナーノートを読んでいたら、身長195cmとか。演奏中は、そこまで大きいとは思わなかった-手が、美しく動くので。ああ、いつかこの人の手の写真も撮りたい!!
ケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館にはレンブラント晩年の自画像がある。中央には勿論レンブラントなのだが、左手に背の高い人の姿を見ることができる。これが誰なのかはいまだに謎らしい。
この左の人物は、サーベルを腰から下げているようにも見えるし、レンブラントも「ほな、さいなら」とうっすら微笑んでいる(本当に関西弁風なのである、その微笑が)し、なんだか死神みたい、と思った。作成年(1662/63年)から彼の死(1669年)まで数年あるので、違うようにも思うが。
それにしても、この自画像の美しいことといったら。若い頃の作品のような緻密な装飾はないものの、首からかけられたストールが、茶系でまるで美しい木目-ヴァイオリンの木目-のように見えなくもない。
ただの絵の具とカンバスが、レンブラントの手にかかって絵画という芸術品になった。ただの木と膠が、ストラディヴァリウスの手にかかってヴァイオリンという芸術品になったように。時には同じ素材がゴミになるのに、不思議だ。
もし、この絵かストラドかどちらか選ばなければいけなかったら、どちらを選ぶだろう(でたでた、非現実的「究極の選択」)。ストラドもいいけれど、近所迷惑になるかなぁ。でも、レンブラントの絵は、見惚れて会社に遅刻するかも。
相変わらず絵の前で、とらたぬ(=取らぬ狸の皮算用)以前のおめでたい空想を繰り広げた、幸せな土曜日の午後。
ロイヤルオペラ、ラ・トラヴィアータ(椿姫)。2009年6月18日、ロンドン、ロイヤルオペラにて。
Verdi: La Traviata
Renee Fleming: Violetta
Joseph Calleja: Alfredo Germont
Thomas Hampson: Giorgio Germont
Antonio Pappano: Conductor
ロイヤルオペラのラ・トラヴィアータ初日を観た。
帰宅後の今も、「Di Provenza il mar, il suol」が頭の中で流れ続けている。トーマス・ハンプソンは良かった。p(ピアノ)でも会場全体に通る声が羨ましい。端正な顔立ちも素敵。ジョセフ・カレヤもなかなか。一幕目の「乾杯の歌」がもう少し盛り上がればよかったけれど(この歌の最近の基準がパバロッティ、というのが災い?この曲だけを聴けば良いけれど、あんな「ぱんぱん」なアルフレッドはない)。彼は最後感激していたようだった。ルネ・フレミングも二幕目からどんどん調子を上げたように見えた。やはり初日の一幕目は緊張するものなのだろう。
全体的に、皆演技が達者だ。二幕目で父親がアルフレッドを突き倒すところなど、役者顔負けである。また、ヴィオレッタが椅子に倒れこむところも、思わず「あ、危ない」と声が出てしまいそうになる。ルネ・フレミングは、一幕目は少し品がなく(高級娼婦というのは品があるものと思うが、舞台を分かりやすく(結局娼婦なのよ、と)するにはこれでよいのかもしれない)、二幕目は貞淑そうで、三幕目になるとすっかり病人、と完全に役を体現していた。素晴らしい。
二幕目は、父親がヴィオレッタの屋敷を訪れ、ヴィオレッタを説得し、アルフレッドを説得し、夜会でアルフレッドがヴィオレッタに賭けで儲けたお金を投げつけ、そこへ父親が現れ、と盛り沢山だ。また、二幕目は字幕を読むと絶対に泣くので、今日は字幕は無視して音楽と演技に集中(イタリア語が分からなくて良かった)。斜め前の老紳士は二幕目から最後まで泣きっぱなし。いいけれど、洟をかむのは静かにね。
三幕目、死の間際に、アルフレッドと父親がヴィオレッタの元に駆けつける。死んでしまうのだから意味がない、と感じるか、愛する人に死を看取られて幸せ、と感じるかは見る人次第だろう。しかし、ヴィオレッタの幻覚を客席も共有しているのではないか-即ち、カーニバルの様子も、アルフレッドと父親がやってくるところも、実はヴィオレッタの死に際の幻覚で、実際はAnnina(女中)だけに見取られて亡くなったのでは?なんて考える私は相当現実主義者?
金曜日に購入したバラ、少し大きめとはいえプラスチックのポットに入っているだけだったので、大き目の鉢に植え替えるようアドヴァイスされた。
そこで、土曜日に鉢を購入、日曜の朝から植え替え作業。ベランダの椅子やランタンと色を合わせて黒にしたので、ベランダ全体に統一感が出て、なかなかお洒落でない?(自画自賛)
ネットにあった通り、植え替えて下から水が流れるほど水をやる。今日のロンドンは朝から日差しが強く、気温もどんどん上がっている。ちゃんと根付いてくれるかしら。
やっぱり、アイスバーグはとても綺麗。この一鉢があるだけで、テラスはちょっとお茶でもしたくなるような雰囲気に。何かにつけてテラスを眺めてしまう。何時までも美しい花が咲くように、大切にしなくては。
気分は、ちょっと、星の王子様。
イングリッシュ・ナショナル・オペラ。2009年6月13日、ロンドン、コリセウム(Coliseum)にて。
Mozart: Cosi fan tutte
Abbas Kiarostami: Director
Susan Gritton: Fiordiligi
Fiona Murphy: Dorabella
Lian Bonner: Guglielmo
Thomas Glenn: Ferrando
Sophie Bevan: Despina
Steven Page: Don Alfonso
12日に引き続いて、イングリッシュ・ナショナル・オペラ。評判の出し物、と聞いていたが、客席は8割強の入り(昨日はほぼ満席だった)。
歌手の出来は、昨日に比べて粒ぞろいではあったが、特筆すべきことは何もない。ソプラノのGrittonは努力賞だけれど、もう少し余裕を持って歌えると良かった。劇場なりの歌手だった。また、今日の歌手は皆スタイルが良くて、その点も考慮して昨日と今日の配役は決められているのかと思ってしまった(昨日はピンカートンもシャープレスも恰幅良かった)。オペラは声が命だけれど、目で鑑賞する部分がある限り、見た目も大切だ。
Directorはパルムドール受賞者のKiarostami。イラン人であるが故に入国を許可されず、Mail等で指示を出したとか。バックに巨大スクリーンを置き、周囲の風景として実写映像とコンピュータグラフィックスを併せた映像を用いていた。先日パリのオペラバスティーユで見たマクベスは、Google Mapを似せた映像を用いていた。オペラの演出も時代と共に変わり行くが、コンピュータ映像って少し安っぽく見える、と思うのは私だけだろうか。
コジ・ファン・トゥッテは、偶然隣あわせたDon Alfonso役のSteven Pageの親戚というご婦人によれば「シェークスピアっぽい」話。確かに、話の筋は、ちょっと教訓じみている。それを深刻にならず、笑いというオブラートに包んで聴かせるのがモーツァルト風。
ただ、納得行かないのは「女は皆こうしたもの」って、そもそもGuglielmoとFerrandoがやったことって何?しかも二人も交換したパートナーとその気になっているのじゃない?
イングリッシュ・ナショナル・オペラ。2009年6月12日、ロンドン、コリセウム(Coliseum)にて。
Puccini: Madam Butterfly
Anthony Minghella: Production
Carolyn Choa: Director and Choreographer
Judith Howarth: Cio-Cio-san
Christine Rice: Suzuki
John Marshall: F.B. Pinkerton
Brain Mulligan: Sharpless
Michael Colvin: Goro
Richard Burkhard: Prince Yamadori
イングリッシュ・ナショナル・オペラで今同時にかかっている「コジ・ファン・トゥッテ」が良い、との話をきいて、土曜日のそれとあわせて聴いてみることにした。
イングリッシュ・ナショナル・オペラでの出し物は基本的にすべて英語である。原語よりは分かりやすいが、何となく納得いかない。その上、この日はピンカートン役のHymelが体調不良でMarshallに。いやな予感である。
(本演目を鑑賞予定の方は、ご覧になってから以下お読みください)
英語でオペラ、なんだかそれだけで「オペラではなくミュージカル?」と思ってしまう。その上、衣装!私がパトロンなら間違いなく担当者はクビだ!男も女も原色多用の品の悪い十二単様着物を着ている。申し訳ないが、男性陣は相当気持ちが悪い。同じ衣装なのに扇子を持つもの団扇を持つもの。結婚式に団扇はないだろう?髪飾りも、親類全員が踊り子でもあるまいに?また、花嫁でない人に角隠しをさせている。インターネットのこの時代、もう少し勉強できるのではあるまいか?
そして極めつけは、ヤマドリの衣装。まさに
志村けんの『ばか殿様』。
笑いを抑えられなかった。
歌手も、シャープレス役のMulliganは気に入ったが、全体として「ミュージカル」レベル。途中まで、これは「安物買いの銭失い」(2階正面で84ポンド=ミュージカルレベル。ちなみにロイヤルオペラは倍以上)だ、お薦めのコジを観てから蝶々夫人を観るか判断すべきだった、と反省していた。
しかしながら、始まりから好感を持っていた演出は舞台が進むに連れて満足感がどんどん増していった。モダンではあるが、Cio-Cio-sanの帯、障子が効果的に使われ、最小限の大道具/小道具で全てが表現される。また、第一幕は桜の花びらが舞台を覆って終わる。この演出家は日本人にとって春の代名詞「桜」-特に散りゆく桜-は「死」の隠喩でもあることを理解して、第一幕の最後でCio-Cio-sanの死を暗示して終えるのかと感心した。
第二幕に入ると、演出効果は益々冴えた。今回は第二幕第一部と第二部の間に休憩が挟まれ、リンカーン号の接岸からその日の夕暮れを待つ、第一部最後の舞台は素晴らしかった。Cio-Cio-san、Suzuki、子供の3人が、座布団に座って同じ方向(港)を観ている姿は、ちょっと小津の映画を思い出さないでもない。
さらに今回の演出では、Cio-Cio-sanとピンカートンの間に出来た子供を、文楽にヒントを得たという人形が演じた。最初こそ、これを「文楽」と言われると参るな、と思っていたが、舞台上に黒子が現れることを参考にした、程度のことだと思えば腹も立たない。その上、こちらも時間が経つにつれ、この人形の表現力の高さにすっかり魅せられてしまったのである。
第二幕第二部、ここへきて、なぜ舞台の上面が鏡面になっているのかが分かった。Cio-Cio-sanの自害の直前、Suzukiを下がらせる演出/演技は涙物である。
今回は歌手のことは殆ど記憶にないのだが、演出の素晴らしさ(衣装は置いておいて)を堪能した。どれほど演出がオペラにとって重要であるかを教えてくれた(従って今、Production, Direction, Set Design, Costume Design, Light Designとあるが、誰がどこまで責任を持ち、どの程度協働するのか興味津々である)。
とても残念なことにMinghellaは昨年54歳の若さで亡くなっていて、彼の演出オペラはこの蝶々夫人1作しかないようである(ちなみにDirectorのChoaがMinghellaの奥様のようである)。この演出はメトロポリタンオペラなどでも上演されている、とのことなので、是非NYでMetで観てみたい一作となった。