モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

成功者

2019-12-31 10:46:57 | 今日の一言
「成功者」の対義語は「何もしない人」



「失敗は成功の基」と言われます。
行動があるから失敗をし、それでも行動し続けるから成功までたどり着くのです。
「何もしない人」が成功者になることは永遠にあり得ません。
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戒めと祝福

2019-12-31 09:59:55 | 新約聖書
「わたしは…あなたの戒めに自分の喜びを見出すからです」詩篇119:47

戒めと祝福はどちらが先でしょうか。
戒めを守ることによって祝福がもたらされるのでしょうか。
祝福(喜び)があるので戒めを守るのでしょうか。

自分自身の経験からしか言えないのですが、
福音を知って心に喜びがもたらされたので戒めに従うようになりました。
わたしの福音生活は常に後者「祝福が戒めに先立つ」です。

「祝福(喜び)を感じられないまま戒めに従う」と聞くとき、不思議に思います。
戒めに従おうとするとき、御霊がそこにあって、心は喜んでいるはずなのですが。
「彼らは…犠牲を捧げて喜んだ、神が彼らを大いに喜び楽しませたからである」ネヘミヤ12:43

喜びがあるので戒めに従い、それによって喜びが更に増し加えられる。それが福音です。
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再臨

2019-12-30 14:02:49 | 新約聖書
「イエスの証をし、神の言を伝えた…人々が…キリスト共に千年の間支配した」黙示20:4

イエス・キリストを信じる多くの人が福千年とその始まりとなる主の再臨を待ち望んでいます。
200年前、ジョセフ・スミスに天父とイエス・キリストが訪れたことは事実でしょうか。
現在、世界中にある神殿において多くの人が主の訪れを受けていることは事実でしょうか。

それらが事実であるなら主の再臨は既に始まっており、
「主に会う備えのできた人は主の訪れを受けることができる」ということになります。
再臨の預言は将来の話ではなく、「今現在それを受けることができる」ということです。

ジョセフ・スミスが主から命じられて主の教会を設立したのであれば、それは主の王国です。
教会の大管長、預言者は本当に主の導きを受けているのでしょうか。
聖霊の賜物が本物であるなら、それに従う人々は主に導かれていることになります。

「わたしは力と…栄光とをもって…千年の間地上で人々と共に義の内に住む」教義と聖約29:11
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主の奥義

2019-12-29 07:45:47 | 新約聖書
「わたしたちが語るのは隠された奥義としての神の知恵である」1コリント2:7

「真理とは永遠に変わることのない真実である」この言葉は書物から学んだものです。
奥義とは「啓示(御霊)によって神から直接に示される真理」をいいます。
「わたしは啓示によって奥義を知らされた」エペソ3:3

「誰かが主から受けた啓示」を読み聞きして「主の奥義を学んだ」と言えるのでしょうか。
真理の言葉には御霊(神の啓示)が伴い、御霊は人を善い行動に駆り立てます。
学んだ善い言葉によって善い行動が生じるなら、それは御霊を伴ったものと言えるでしょう。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」マタイ7:17
啓示によって得たものが「主の奥義」であるなら、その学びは必ず良い実を結びます。
言葉の理解のみで行動が伴わないものを「主の奥義」と呼ぶことができるのでしょうか。

「あらゆる奥義と…知識とに通じていても…愛がなければわたしは無に等しい」1コリント13:2
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言葉

2019-12-28 08:59:27 | 新約聖書
「優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける」箴言15:4

伴侶、両親、子ども、身近な人に対してどのような言葉遣いをしているでしょうか。
何の遠慮も要らない関係での言葉遣いはそのままに自分に返ってきます。
そこに愛と喜びがあるなら幸せな家庭を思い浮かべることができます。

他人に対しては優しく柔らかい言葉で語ることができるのに、
家族などの身近な人には言葉がとげとげしくなってしまうと聞くことがあります。
幸せな家庭を望んでいるのであれば、それは望みに逆行しているかもしれません。

家庭の中では故意に愛を示そうとする行為は敬遠されることもあります。
本心の伴わない行為は他人との間では大目に見てもらえても、
遠慮の要らない関係では簡単に見透かされてしまうからです。

「口が食べ物を味わうように、耳は言葉をわきまえないであろうか」ヨブ12:11
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