モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

主を愛する

2020-07-31 06:18:42 | 新約聖書
「わたしよりも父…母…息子…娘を愛する者はわたしにふさわしくない」マタイ10:37

”主に従うために家族を見捨てる”と誤解されることがありますが、それは誤解です。
「自分の家族を顧みない場合には…、信仰を捨てたことになる…、不信者以上に悪い」1テモテ5:8

主を愛して従う者が自分の家族への愛を捨てることはあり得ません。
むしろ、福音を理解して従うほどに家族への愛と奉仕は増し加えられるはずです。

”家族のために福音に逆らう”ことは、この世的な思いではあり得ることです。
「家族のためを思うなら、この戒めには従えない」という考えであり、そこに誤解が生じます。

家族の本当の幸福を望むのであれば、その方法、手段は福音の中にあります。
それを見つけるためには、他の何よりも主を優先することが必要になります。

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平和と争い

2020-07-30 06:23:07 | 新約聖書
「地上に平和をもたらすためにわたしが来たと思うな・・・剣を投げ込むために来た」マタイ10:34

福音は平和をもたらすためのものですが、その福音が争いの原因ともなっています。
なぜこのような矛盾が起きるのでしょうか。

神の命令よりも優先されるもの、それは”自由意思”です。
神はある程度のところまで人の自由意思を許しており、
人には自分の思いのままに選び行動する自由があります。

平和を望み福音を受け入れる人と、それを受け入れずに争おうとする人があります。
福音を無理強いしようとして争いを招く人があることも事実です。

なぜ人はそれぞれの自由意思を認めないのでしょうか。
ルシフェルが人の自由意思を奪おうとして争いを起こしたことから始まっているようです。

「神を礼拝する特権があると主張し、全ての人に同じ特権を認め…それを妨げない」信仰箇条11
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信仰の表れ

2020-07-29 06:35:23 | 新約聖書
「人の前でわたしを受け入れる者を、わたしも…父の前で受け入れる」マタイ10:32

信仰を基として生活しているなら、その信仰は自ずと生活の中に表れるはずであり、
それで充分ではないでしょうか。

生活の中に信仰が表れないとしたら、その信仰は何ものでしょうか。

正直、勤勉、思いやり、優しい言葉、誠実、慎み、人を恐れない、高ぶらない、悪を避ける…
それらの思いと行いは”主を受け入れている”ということを表すものです。

「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって…」ガラテヤ5:22~
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霊の命

2020-07-28 06:30:49 | 新約聖書
「身体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」マタイ10:28

”霊の命”について理解していないなら、”永遠の命”を理解することはできません。
”霊の死”とは”神の御霊から遠ざかった状態”を意味します。

肉体的にはこの世で生きているとしても、神の御霊を受け入れないとしたら、
それは”霊的に死んでいる”と言える状態かもしれません。

「わたしは世の光である、
わたしに従って来る者は闇の内を歩くことがなく、命の光を持つ」ヨハネ8:12

「命の光」とは霊の命のことを示していますが、
その光を感じることができないなら、霊の命を理解することはできず、
自分が「闇の内」を歩いていることを感じることもないようです。

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主の僕

2020-07-27 06:07:18 | 新約聖書
「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで充分である」マタイ10:25

わたしたちは”イエス・キリストに似た者”となれるように努力しています。
そして”主に近づくことのできた自分”を感じたときに心は喜びます。

幼い子どもがヒーローやヒロインに憧れて、その行いやそぶりを真似るのとよく似ています。
最初はたどたどしく、わざとらしく感じられて、馴染めないかも知れませんが、
繰り返すうちに段々と馴染んで、見かけも思いもそれらしくなってきます。

「似た様なものであれば・・・」というのは軽率でしょうか。
それでも”行いやそぶり”だけでも主に似ることができるのは善いことではないでしょうか。
そして心の思いまでもが主に似ることができれば、更に祝福があります。

主に取って代わることはできませんが、”主の業を一部を委ねられる”ようになるかもしれません。
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