モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

かたくなな心

2020-04-30 06:16:01 | モルモン書
「心がかたくなで思いがくらんでいるのはどういうわけですか」1ニーファイ7:8

福音を受け入れた人が福音を受け入れることのできない人を見て、
「どうしてこの真理を理解できないのか」といぶかしむことがあります。

わたしは宣教師と出会って、彼らの言葉を受け入れ改宗に至りましたが、
もしも宣教師との出会いがその一年前だったら受け入れなかっただろうと思います。

人生が順調で、高慢になり、恐いもの知らずで日々を過ごしていたからです。
正に「心がかたくなで思いがくらんでいる」状態でした。

それがなぜだか「自分の人生はこのままでいいのだろうか」と考えるようになり、
宣教師と出会うちょうど一週間前に職場の社長に悩んでいることを打ち明け、
「仕事をやめて自分の為すべきことを見つけたい」と話したところでした。

どうしてそのような変化があったのか、何も思い当たることはないのですが、
わたしの「心がかたくなで思いがくらんでいなかった」のは
宣教師と出会ったときだけだったのかも知れません。
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悔い改めの苦しみ

2020-04-29 21:41:53 | モルモン書
「彼らはそのように背いて…帰りたがった」1ニーファイ7:7

改宗した当初、福音を理解するにつれて福音を受け入れたことを後悔するようになりました。
何も知らないときは「福音は喜びばかり」と思っていたからです。

学べば学ぶほどに自分のそれまでの生活がいかに罪深いものであったのか、
それを改めるのがいかに大変なことなのかを嫌というほどに思い知らされたからです。

「これほど苦しむのであれば福音など知らない方がよかった」と真剣に考え、
「教会をやめて元の生活に戻りたい」とまで思いました。

そんな時、教会の一人の指導者の面接を受ける機会がありました。
「教会をやめたい」と話すと、彼はこう言いました。「逃げるのですか?」

その言葉はそれまでに経験したことのないほどのショック(激痛というか)を心にもたらしました。
大きな痛みを伴いましたが、その一言のおかげで「心の霧」は嘘のように消えて無くなりました。

主の方法、御霊の言葉は人の考えでは理解できないもののようです。

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心を和らげ

2020-04-29 15:51:08 | モルモン書
「主はまことに…心を…和らげられた」1ニーファイ7:5

初めて宣教師に出会ったのは雪のチラつく1月の寒い夜でした。
ドアを開くと暗い中に彼らが立っていて、
玄関先ではあまりにも寒かったので暖かい部屋に入ってもらいました。

彼らの話す日本語はたどたどしくて、一生懸命話している熱意は感じるし、
善良な若者であることも分かりましたが、会話を成り立たせるのには苦労しました。
モルモン書を受け取り、日曜日の教会への招待を受けて彼らは帰って行きました。

後に彼らから、寒さに凍えていたときに暖かい部屋に招き入れてもらい、
話を真剣に聞いてもらえた喜びの時間であったと感謝されました。

なぜ彼らを部屋に招き入れたのでしょうか。玄関先で断ることもできたはずです。
なぜ彼らのよく分からない日本語に耳を傾け、理解しようとしたのでしょうか。
次の日曜日の朝、教会へ行ってみようと思い立ったのはなぜだったのでしょうか。

今になって分かるのは、そのとき「主によって心が和らげられた」ということです。


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命令

2020-04-29 14:00:02 | モルモン書
「主は…命じられた」1ニーファイ7:2

神が人に、親が子供に、教師が生徒に、上司が部下に、国の指導者が国民に…
命じる側は命令と同時にそのことについて責任を取ることを約束するのです。

約束の伴わない無責任な命令に従う人があるでしょうか。
もしそのようなものがあるとすれば、それは奴隷と主人の関係です。

従う側はその約束を信じるので快く(ではないとしても?)従い、
約束が果たされたときには感謝に至り、信頼は増し加えられます。

「主は言う、わたしが約束をして果たさなかったことがあるであろうか」教義と聖約58:31
この言葉を信じる人は主に従います。



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価値あるもの

2020-04-29 10:27:38 | モルモン書
「人の子らにとって価値のないことでこの版を埋めてはならない」1ニーファイ6:6

モルモン書の筆者らがこの命令を守ったのであれば、
そこに記されていることはすべて「人にとって価値がある」ということになります。

「神にとって喜ばしいことや、俗世のものでない人々にとって喜ばしいこと」1ニーファイ6:5
それを求めている人にとっては聖典は価値のある書物です。

では聖典にある「価値あるもの」とは具体的に何でしょうか。
神の真理と教え、御心、約束… それらは記されている言葉から読み取ることができます。

それで満足するならそこまでで終わり、世で言われる”良書”の範囲に納まるかもしれません。
それだけでも価値あるものでしょうが、聖典はそれだけに止まるものではありません。

聖典の目的は人が神の啓示を受けるための手段であり、
それを活用する人は聖典の真の価値を見出すことができます。
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