モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

総大会 3月31日

2024-03-31 06:39:39 | 総大会
「救い主は…わたしたちが意識して主に目を向ける方法を数多く備えられました。時々わたしたちは自分に与えられたこの祝福の偉大さを過小評価してしまいます。」
(イエス・キリストは宝です レンランド長老)

聖餐式が始まる直前まで世間話に盛り上がっていたりします。
賛美歌が歌われている最中に礼拝堂に入ってくる人も少なくなったりします。
「よかった、間に合った」という気持ちが見えるようです。

それでも出席数には数えられます。
「聖餐式に出席したい」という気持ちには感謝します。
そのために時間を割き、努力していることも知っています。

でも、少し心配になります。
目的はパンと水を口にすることなのでしょうか。
ごめんんさい、余計なお世話だと分かってはいるつもりです。
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総大会 3月30日

2024-03-30 06:16:49 | 総大会
「主が与えてくださる以上のものを必要としていると誤って考えている人は、生活の中に主がもたらす力や、その及ぶ範囲を否定し、狭め、弱めてしまいます」
(イエス・キリストは宝です レンランド長老)

「什分の一の律法に従うと経済的に祝福されます」
否定するつもりはありません。
そういう祝福を受けている人もあるのでしょうね。
わたしには当てはまらないようです。

「この戒めを守るとこういう祝福がある」という話を聞くことがあります。
時々心配になります。
祝福の範囲をこの世的なものに限定し、霊的な祝福を見いだせなくなってはいないでしょうか。
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総大会 3月29日

2024-03-29 05:55:02 | 総大会
「的の彼方に目を向け」ると、近くにあるものを当たり前だと思ったり過小評価したりする」
(イエス・キリストは宝です レンランド長老)

身近にあって過小評価していたもの
家族、友だち、自分の人生…
食べ物、休息、今日一日…
教会、モルモン書、祈り…
こんなことが思い浮かびました。

福音を知る前、自分の人生には価値がないと思っていました。
食べ物は口が満足すればいい、今日一日は楽しければいい、そのくらいにしか考えていませんでした。
それらのことの意味と価値を学べたことは福音の祝福の一つです。

信仰の祝福が祈りにあると知りましたした。
福音の中で得た喜びを思い返すなら、それは常に祈りとともにありました。

祈りの意味とその価値を知るまで、祈りについても過小評価していたようです。
おそらくまだ、その真価に至っていないと思います。
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総大会 3月28日

2024-03-28 06:01:48 | 総大会
「わたしたちにとって鍵となるのは救い主が望まれることを望むことです」
(常に伴侶となる御方 アイリング管長)

「わたしの願いが叶いますように」
自分の願いが成ることを求めていました。
今になって思えば、まさに‟井の中の蛙”のようですね。
自分の思いの中にあるものしか求めることができないからです。

「主の御心が成りますように」
そう祈るようになって、心に広がりを感じられるようになれました。
井戸の中から出て果てしなく広がる世界を見たた蛙のような気持ちでしょうか。

理解が及ばず、戸惑うこともありますが、それも喜びです。
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総大会 3月27日

2024-03-27 06:28:21 | 総大会
「聖霊を感じることが難しい状態にあると気付いたなら、悔い改めて赦しを受けるべき事柄がないかどうか、深く考えることでしょう」
(常に伴侶となる御方 アイリング管長)

ある夫婦に離婚の危機が訪れました。
カウンセリングに頼り、なぜこんなことになったのか、その原因を辿ってみました。
彼らはそのいさかいの始まりが‟夫がトイレの後で便座を下げない”ことにあったと知ることになりました。
夫は「そのくらいのこと」と気に留めませんでした。
妻は「そのくらいのこと」に赦せない気持ちがあったようです。
それは珍しい話でしょうか?

些細なことから難しい状態に至ることは珍しくありません。
悔い改めを感じても「そのくらいのこと」と気に留めなかったことがあります。
聖霊を感じられない理由が「そのくらいのこと」にあると気付くまでそれは続きました。

いえ、今も時々そんな気持ちになっていることがあります。
それに気付けることは祝福です。

「そのくらいのこと」なので悔い改める気持ちにさえなれば、はさほど難しくはありません。
「そのくらいのこと」なので悔い改める気持ちに至るまでが大変かもしれませんけど。
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