モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

思い計り

2020-08-31 06:11:15 | 教義と聖約
「心の中で…よく思い計り…それが正しいかどうか…尋ねなければならない」教義と聖約9:8

主に祈り求めるとき、子どもが親に何かをねだるときのように、
”求めるものがポンと与えられる”ように勘違いされていることがあります。

主の場合に「それはあり得ない」とは言いませんが、
ほとんどは”求めるものを得るための手段”が与えられるようです。

わたしたちはその手段についてよく思い計る必要があります。
”その手段を有効に活用する”ために考えるのです。

手段についても、有効に活用する方法についても、御霊は導きを与えてくれます。
それらをブロックのように組み立てる作業は楽しくもあるものです。
手段と活用方法を正しく組み立て、主から承認を受けて、行動します。

行動しながら、組み立てながら、承認を受けながら、試行錯誤しながら…ということもあります。
それは”主の訓練”とも呼ばれます。
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愛する、愛される

2020-08-30 06:32:41 | 福音について
「自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあろうか」マタイ5:46

ペットを愛する人が増えているそうです。
中には人よりもペットに愛情を注ぐというケースも少なくないらしく、
その根底には”愛されることを求める心理”があるとも聞きました。

”愛されるために愛する”というのは自然の感情かも知れません。
”自分を愛してくれる人を愛する”ということであり、
極端な場合、”相手の愛を感じられなくなると愛する努力を止める”こともあるようです。

人は誰もが「愛されたい」と願っているものだと思います。
神にも、周りの人々にも、ペットやその他のものからも愛を感じていたいのです。

身近に愛を感じられない人がいると不安にさえなります。
その不安を拭い去るための手段の一つが”愛されるために愛を示す”ことです。

それはそれで良いことだと思うのですが、
主の求めている”愛”には根本的な違いがあるように感じられます。
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考える

2020-08-29 06:23:17 | 教義と聖約
「あなたは…求めさえすれば、何も考えなくても…与えられると思ってきた」教義と聖約9:7

「求めよ、そうすれば与えられるであろう」マタイ7:7
この言葉に続けて「捜せ」と「叩け」と記されています。

与えられるためには"求める”だけではなく、”捜す、叩く”が必要のようです。
そのことによってわたしたちは信仰を神に証明することができます。

求める気持ちは感情として無意識のうちに”心に湧き起こる”ものではないでしょうか。
それに対して探す、叩くとは意識して行う”行動”です。

信仰を証明するためには「考える」という意識的な行動が求められているようです。
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つぶやく

2020-08-28 06:27:11 | 教義と聖約
「つぶやいてはならない…わたしの知恵にかなうからである」教義と聖約9:6

「つぶやく」とは”不平不満の感情”を表に出すことです。
不平不満を口にするとその感情は増し加えられます。

その言葉が的を得たものであっても、マイナスの感情はサタンの誘惑となり、
御霊を遠ざける原因となってしまいます。
では心の内にあるそのような感情はどうすればよいのでしょうか。

心の内に感じられる様々な問題を不平不満としてではなく、
”前向きの建設的な意見”として表現することはできないでしょうか。

「これはおかしい、こうあるべきだ」という表現を、
「主の御心は何だろうか、自分はどうすればいいのか」とすると、
マイナス的な感情に変化が生まれるように思います。

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義にかなった裁き

2020-08-27 06:17:27 | 総大会
>義にかなった裁きを確実なものとするために、救い主は無知の藪と、人から傷付けられた苦痛の棘を取り払われたのです。

「義にかなった裁き」とは”回復”を意味すると考えます。
「回復とは悪を悪に、肉欲を肉欲に、悪心を悪心に、
善を善に、義を義に、公正を公正に、憐れみを憐れみに再び返すことである」アルマ41:13

「確かなものにする」とは”心に確信を得る”ことであり、
救い主イエス・キリストへの確かな信仰を得ることでしょう。

「無知の藪」とは”主の救いを知らない状態”を指し、それは”不信仰”を意味するようです。

「人から傷付けられた苦痛の棘」とは”赦せない心”ではないでしょうか。
赦せない心がもたらす怒りや憎しみ、憎悪などは御霊を退けます。
それは人を神から遠ざけようとするサタンの誘惑です。


>人が元に戻せないことを元に戻すこと、人が癒すことのできない傷を癒すこと、自分が壊して修復できないものを修復すること、それこそ(が)キリストの贖罪の目的である。(パッカー会長)

>(主に従い、悔い改めることによって)自身が清くなれる…だけでなく、自分が傷付けた人々も癒されて完全になれる。

わたしたちが主に従い、かつ主の業に働いて福音を伝えるとき、
周りの人々にも主の救いを受けるチャンスがもたらされます。

”伝えられた主の救いを受け入れるか否か”はその人の選びであり、
そこから先はその人自身の責任となります。


>自分が神に背いていることを承知している者…には決して救いは与えられない。(モーサヤ3:12)

>救い主は…悔い改めの一部として、償うためにできることをすべて行うように命じておられます。

わたしたちは”主に従っている”と正直な心で証できるでしょうか。
もしも”神に背いていると承知している”ことがあれば、悔い改める必要があります。

”自分にできる全てを行う”ことによって、
わたしたちは真心から悔い改めていることを”神に証明”します。
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