モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

総大会より 2月10日

2025-02-10 06:02:28 | 総大会
「わたしが…癒すことができるように…わたしに立ち返り、自分の罪を悔い改め、心を改めようとしているか」
(贖いの喜び イー姉妹)

罪を悔い改めても“心を改めない”ことがあります。
「真の改心に至っていない」と言った方が分かりやすいでしょうか。

ニーファイ人は悔い改めて主に立ち返り祝福を受けましたが、わずか数年で元の状態に戻ってしまいました。
モルモン書の中で幾度かそんなことが繰り返されています。

悔い改めは良いことです。
主はそれに対して祝福してくださることでしょう。
しかし、心を改める(真の改心)にまで至らなければ、その悔い改めは長続きしないようです。
悔い改めが失われれば、祝福も失われます。
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総大会より 2月9日

2025-02-09 06:39:58 | 総大会
「悔い改めることで…他の方法では決して知り得なかった形で神の愛を知…ることができるようになります」
(贖いの喜び イー姉妹)

これまでの人生を悔いる気持ちがあります。
悔いているので改めようとします。
改めるために主に頼ります。
主に頼るときにその愛を知ることができます。
それは祝福です。

悔いる気持ちが失われたなら、きっとそこで満足してしまいます。
生活を改めることも、主に頼る必要も感じられなくなるでしょうね。
皮肉な気もしますが、わたしはそんな人間です。

人生を満足して喜ぶことは幸せです。
そのように見える人をうらやましく思います。
しかし残念ながら、わたしにはまだ試練が必要であるようです。
一生懸命祈り求めている今が幸せなのかもしれません。

「きっとそうなんだ」と自分に言い聞かせます。
たまに疲れてくると、そんなことを考えます。

今日は安息日です。
久しぶりの聖餐に祝福と喜びを期待して教会へ行きます。
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総大会より 2月8日

2025-02-08 06:08:50 | 総大会
「修復不可能と思われた失敗は主の憐みの御手が現される機会となったのです」
(贖いの喜び イー姉妹)

総大会などで目に見える奇跡的な祝福(修復)の話をよく聞きます。
多くの人が信仰を鼓舞されます。
それは良いことです。

否定するつもりはありませんが、
主を信じるなら、修復不可能と思われたことが修復されるのでしょうか。
確かに稀に…極めて稀にそんなこともあります。
現実には修復されないことの方がはるかに多いのです。
そこに主の御手はあるのでしょうか。

そうです、あります。
教会初期の出来事に学ぶ必要がありそうです。
彼らは主の御手を喜びました。
わたしたちもそうでありたいですね。
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総大会より 2月7日

2025-02-07 06:26:40 | 総大会
「あなたはわたしと聖約を交わしています」
(日々の生活で聖さを主に捧げる ゴング長老)

「主の再臨のために世を備える助けをする神の強力な軍勢として,皆さんが受けている務めについて考えてみてください。これがわたしたちの務めであり、特権です。」
(神の力と権能によるミニスタリング ネルソン大管長 2018年4月)

ネルソン大管長は「務めであり、特権です」と言いました。
務めは“義務”、特権は“権利”です。
一般的に、義務と権利は対義語(相反する意味)とされています。
そうなると「務めであり、特権です」とはどう意味でしょうか。
もしかすると、「教会は自由意思の原則を唱えながら強制している」なんて誤解の原因となっているかもしれません。

わたしたちはバプテスマを受けたとき、“主を信じて従う”と聖約しました。
自らの意思によって受け入れたのです。
教会の教え、勧め、戒めはすべて、その聖約の上に成り立っています。
つまり聖約(義務)によって与えられた特権なのです。

それは不思議なことでしょうか。
法治国家である日本では、法律を守り従うという義務の上に、法律によって守られるという権利が保証されています。
それと同様のことであるとわたしは理解しています。
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総大会より 2月6日

2025-02-06 06:47:00 | 総大会
「こんなことをして何になるのかしら」
(日々の生活で聖さを主に捧げる ゴング長老)

一週間ほど前に、顔の痛みについて書きました。
何とか信仰を保とうと強がり、「この経験に感謝します」と祈り続けました。
そしてついにギブアップしました。
「何のためにこんなことをやっているんだろう?」
一瞬にして、見せかけの信仰は疑いに変わります。

主から与えられる試練はいつも厳しいものです。
「もぅ無理!」と思えるところまで行き着きます。
(そうでなければ試練とは言えないのでしょうが)
そこまでたどり着いたときに初めて、見せかけではない自分の真の信仰を確認することができます。

ギブアップした翌日、痛みが和らいでいることに気づきました。
まだ安心はできませんが、試練の中にあっても祝福を感じています。
「何のためにこんなことを…」の疑いは少しほぐれました。

「神は…あなた…を耐えられないような試練に遭わせることはないばかりか、試練と同時に…逃れる道も備えてくださる」1コリント10:13

「あなたはわたしと聖約を交わしています」
この言葉をしみじみと感じています。
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