rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評「転生の秘密」

2015-11-21 15:18:03 | 書評

書評「転生の秘密」ジナ・サーミナラ著 多賀 瑛訳 たま出版1985

1945年に世を去り、ケーシー療法として前世療法やリーディングによる不治の病に対する治療を行ったエドガー・ケーシーについての判り易い解説本です。執筆されたのは1950年であり、翻訳は1980年台なので内容的にはやや古いものですが、医学的なことではなく、「生きる意味」などについての本と考えると何ら古い内容ではないと言えます。

 

エドガー・ケーシー本人は平凡な人で種々の理論を確立したような教祖的な存在ではありません。本人の難治の病気をひょんなきっかけで催眠状態により解決法が判ったことから他人の難治の病気も自分が催眠状態になれば解決法が見つかるかもしれないと考えて試してみたら大成功、何千人という人達の病気を治す(治すといっても特定の場所をマッサージしたり、生活の習慣を変えたり、暗示をかけたりという方法ですが)ことにつながったということです。西洋医学的には全く受け入れられませんが、西洋医学自体が急性期疾患しか治せないのですし、科学的に原因がわからない病態も沢山あるので「病気を治す」という事が結果として行われたのであればそれは真実として考えるべきだと思います。

 

ケーシーについてのもう一つの特技は人の前世を見ることができるということです。病気の本態を視通すという行為を「フィジカルリーディング」と呼ぶならば、この前世の記憶を視通す行為を「ライフリーディング」と言って区別します。説明や記述によると、この前世を見るという行為は別にケーシーがとんでもない過去に行ってその人の行いを見てくるというのではなく、何回かの前世における人生でその人に無意識の中に記憶として残っている部分を抽出して読み出すということのようです。幼児の時の記憶は全て覚えている訳ではありません。しかし強烈な記憶や感情はその後の人生や行動にずっと影響を与える可能性があることは精神医学的にもよく知られています。人は魂として何回か生まれ変わっていて、新たに生まれた時には前世の記憶も持っているのですが、その後今生の記憶が積み重なるにつれて幼い時の記憶同様忘れ去られてゆくものの、前世における強い記憶や感情は今生における行動にも影響を与えている、というのが前世療法における基本になります。

 

輪廻転生が古今東西において伝承や宗教などの概念に取り入れられている事、前のブログで紹介したようにほぼ科学的に前世を覚えているという幼児が述べていることが事実であることが確認できる場合が多いことからも、私は輪廻転生というのは真実だろうと思います。歴史の浅いキリスト教やユダヤ教の教義で認められていないこと、霊魂の存在を科学では証明できないことから認めない人も多いと思いますが、日本人の心情では抵抗なく受け入れている人が多いように感じます。私は前世療法といったものを全面的に受け入れる気はありませんが、輪廻転生があるという前提で人生の生き方を考えてゆくことは大事だろうと思います。

 

この本で疑問に感ずるのは、フィジカルリーディングの場合、「ここが悪い」「こうやったら治る」とケーシーに知らせているのはいったい誰なのだろう、という疑問です。ライフリーディングにおいても数ある前世の記憶のなかから、現在のこの人がかかえる問題の原因になっているのはこれです、とケーシーに教えているのは誰なのか、についてこの本は教えてくれません(おそらく誰もわからない)。患者本人を催眠術にかけて、無意識の中に埋没している記憶について語らせるならばまだ理解できますが、他人であるケーシーがそれを語るためには、それを選択させる第三者(患者の守護霊とか)が必要だと思います。また語られる内容は必ず「現在の種々の状態は過去からの因果に基づく」としてかなり勧善懲悪的な教訓的内容になっています。人間にとっての「善」は時代とともに変化してゆくと思われますが、今現在の「善し」とする価値基準でそれを判断しても良いものなのかどうか(勿論時代を超えて善悪が変わらないことも一杯ありますが)も疑問に思うところです。

 

私にとって米国式の輪廻転生理論で共感できるところは、人生の意義を悪い状態であっても積極的に解釈して魂のステージを上げることに役立てようという発想です。また老いても人生の終わりではなく、次の人生の記憶や人生を超えて積み重ねられた技術(音楽や芸術など)に次に生まれ変わる際につながるのだから無駄な人生の時間などない、という思想です。死ぬまで人生現役という考え方は意義ある人生を送るうえで非常に大事であり、罪を犯してしまった人も死ぬまで魂のステージをあげるために今生でできることをやり続けることが大切であるという思想は尊重されるべきだと思います。不昧因果とは因果をおろそかにせず、ひとつひとつ丁寧に対応しなさい、不落因果とは因果に囚われて物事を諦めてはいけないと解釈していますが、これらの仏教用語も実はケーシー的な人生の捉え方に合致しているようです。その意味でも目先の利益を追い続けて十分稼いだら後は人生遊んで暮らすなどという現在の拝金資本主義の思想は屑であり、誤りであるとつくづく思います。

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ハロウイーンやゾンビ映画は反キリストか

2015-10-29 18:24:17 | 書評

前回の生まれ変わりについての論考でも人間の魂が死後復活して再生を繰り返すという思想は、人は神が創造し、神の復活に際して裁きがあるというキリスト教の教えに反するはずと記しました。ハロウイーンの収穫祭で死者の魂に対峙するというのは元々古いケルト人の伝説に基づく習慣であり、キリスト教(カソリック)においては、正式な祭りではなく黙認しているだけであるとウイキペディアにも記されています。

一方で米国でのゾンビ映画(テレビ映画も)の人気は大変なもので、死体が勝手に復活して大暴れするシリーズ物が大人気でとうとう現実との区別がつかなくなって死人まで出る始末のようです。まさにGod damn itな番組なのだと思いますが。

 

前回の竹倉史人氏の著作で紹介されていた輪廻転生の概念が非常に興味深かったので備忘録の意味で少しまとめた状態で以下に記しておきます。

 

再生型は古くからの伝承や習慣に見られるもので、例として挙げられていたナイジェリアのイグボ族の概念をまとめたものを示します。

 

輪廻型については仏教における思想の元になったインドウパニシャド哲学における五火二道説について示します。因果に基づく人生は以降の仏教や日本の生まれ変わり思想にも受け継がれていると思います。

 

仏教における私(霊)は実体を伴わない(無)であると考えられているのですが、そうは言いながら煩悩に執着しつつ因果に捉われて人生を繰り返すのが人の世なのでしょう。

 

この私を五つの蘊の集合とみなす考えは、孔子の論語「為政編」における人の見分け方に通づるものがあると感じます。すなわち「子曰く、その以す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察すれば、人焉んぞかくさんや。人焉んぞかくさんや。(人の価値を判断するにはやっていることを見て<五蘊の色と行>、その行為の動機を見て<五蘊の想>、何を持って満足するか<五蘊の識>を見れば良い)」という教えです。私もこの教えに従って人を観察して判断していますが、まさに適確な教えだと思いますし、逆に自分が判断されるときにもこの教えに従ってあまり煩悩に惑わされすぎないよう、誠実であろうと勤めています。この世における人のありようとは、五蘊の総合による仮の姿なのだというのは深い教えだと思います。

さて、日本の死生観は不二(生死を分けない、連続したものと考える)と両行(二つの概念を共に取り入れる、例えば祖霊は生まれ変わるもあり、常に我々を見守っているもあり。因果応報と言いながら悪人も死んだら仏という考えもあり)からなると以前にも紹介しましたが、いろいろな要素を取り込んだ輪廻と生まれ変わりの思想になっていると思われます。

 

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書評 輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語

2015-10-21 21:41:33 | 書評

書評 輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語 竹倉史人 著 講談社現代新書 2333 東京大学を出て東京工業大学の社会学の博士課程に在学中の著者が社会的にブームとも言える前世療法などの根本をなす「生まれ変わり」の思想について、世界における原始宗教や仏教、19世紀の紹霊ブーム、現代における科学的な探求など多方面からのアプローチで系統的に解説したもの。日本人が違和感なく感じている死生観の中の生まれ変わりの思想についてもこれらの分析から解説され興味深いものになっています。

 

死者の魂が後の世に他人の肉体を借りて生まれ変わってくる、という思想は常識としては考えられないものですが、前世の記憶を持つ子供達が世界中に古代、現代を通じて存在することも事実であり、刹那を生きることから判断をする他ない我々にとっては、それが真実、或は嘘と断定することはできません。著者はこの生まれ変わり思想のパターンを大きく3つに分類して解説しています。

 

再生型

自然の中で土や木、水となった後に再び魂が生を得て未来の同族の中に戻ってくるというもので、世界各地の原始宗教に同様の類型が見られるとされます。

 

輪廻型

古代インドを起源とし、仏教などでも語られるもので、因果に基づいて人は修行のために現世に繰り返し送られてくるというもの。霊魂は必ずしも同じものが繰り返し使われるとは限らないとされる。

 

リインカネーション型

プラトンなどに発し、19世紀の紹霊などで「霊の書」としてまとめられ、現代においてはスピリチュアルブームに乗って人は生まれ変わることで進化をしてゆくとする考え。キリストの復活を意味するリインカネーション(再受肉)が語源ですが、一神教においては神が創造した人間が勝手に何度も再生するという思想は許されないはずで、敬虔なキリスト・イスラム教徒からは支持されないものと思われます。しかし欧米の映画やメディアでは生まれ変わりは「あり」として描かれることが多いのが現実であり、宗教とは別の「生き方指南」としての思想的役割があるとされています。

 

本中の第4章では前世を記憶している子供達の実例がいくつか紹介されていますが、興味深いのは日本にもかなり明確に記録が残るものがあって、米国ヴァージニア大学医学部にあるDOPS(The Division of Perceptual Studies)という公式な研究機関における研究で、真実として確度の高い例の一例目に日本の平田篤胤が「勝五郎再生記聞」として残し、ラフカディオ・ハーンが英訳した例が採用されているということです。日本における生まれ変わりの思想は原始宗教的な「再生型」と仏教の影響による「輪廻型」が混ざった上に最近のスピリチュアルブームによるリインカネーションの概念も混ざっている和洋折衷の考え方が見られると説明されています。確かに死者への弔いは仏教的な物と道教的な物、そして田舎の祭りや盆などの祖霊信仰や招魂に見られる原始宗教的な要素が種々混ざったものを違和感のないものとして受け入れている(確かめようもないので)のが実際と思います。

 

大事な事は「この世で好き勝手なことをして死んだら終わり」ではなく、現在の自分があることを「先祖のお蔭」であると感謝をし、また後の世に別の環境、人格として生まれ変わるであろうことを認識することで、社会への貢献や他人への情愛、自分を磨き善行を積むことを意味ある事と認識できる作用がこの「生まれ変わり」の思想にはあるということだと思います。これは常々「求められる医療は何か」で考察しているように、還りの医療、世の中を次の世代に明け渡す大切さ、といった考えに繋がります。自分達の短期的な利得のために日本の文化や習慣・産業をつまらない貿易協定のために犠牲にしたり、国土を汚染する原発を使い続けたり、戦争によって国民・国土・国富をこれ以上失うようなことがあってはならないのだと思います。

 

本に戻りますが、スピリチュアルな本にみられがちな魂の救済とかそのようなハウツー的、決めつけ的な内容は一切なく、種々の生まれ変わり思想の背景や考え方を淡々と解りやすく解説してある点で優れた内容であると思いました。宗教のみならず、社会科学として霊的なものに感心がある方に一読を勧められるものと思います。

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書評 いのちを受けとめるかたちー身寄りになること

2015-10-13 08:59:47 | 書評

書評 いのちを受けとめるかたちー身寄りになること 米沢 慧 木星舎 2015年刊

 

ホスピスや老いをいかに生きるかを深く考察する米沢 慧氏の新刊で、年4回福岡で開かれている氏のセミナーの講演を採録し本にしたものです。この本で注目すべき点は、癌死を「終わりが見える死」とすればホスピスや「本人の意思を尊重した緩和医療」がその「死」に向き合う方策であるとするならば、老死・老衰は「終わりの見えない死」であり、その「終わりが見えない死」にいかに向き合ってゆくかを明確な形で示した点であろうと思います。

 

以前upしたがん死についての講演で示した死の三態(本のテーマは中央でなく下の自然死の方)

 

高齢化社会を迎えて「健やかに老いるためには」といった本は巷に溢れていますが、もうひとつ先の老死をいかに迎えるか、「健やか」が終わった状態の残りの人生をいかに迎えるかについてはどうしてもその人の人生にとってネガティブなものにならざるを得ず、「社会から捨てられる」、「社会や家族に迷惑をかけずにいかに終わるか」といった話になるからあまり語られることがないように思います。しかし医療や介護の現場、或いは行政においても実はこの老いの終末期といかに向き合うかが最も大きな問題になってきていると言えます。

 

著者はこの老いにおける終末期を人生における「たゆたい期(老揺期)」と名づけて、ボケや身体が不自由になることによる「魂の不安定性」を「身の置き所を求める」という言い方で見事に表現しています。「身」という表現は肉体のみならず、魂を含めた自分の存在そのものを示す日本語であると説明されていますが、高齢になって精神、身体機能が明らかに衰えた状態になると「自己の存在をどこに安心して預けるか」、「身を置けるか」に不安を生ずるようになり、氏の表現を借りると自分が無防備な状態で生まれ落ちて母親に無条件で庇護してもらえた記憶が残る「故郷の生家」を探すようになる。それが痴呆老人の徘徊や管理的な施設への拒絶につながっているのではないか、と説きます。

 

そして「身の置き所」を提供する一つの答えがこの本で紹介されている「宅老所」ではないかという事です。宅老所が所謂老健施設と異なることはその「自由さ」にあります。痴呆が入っている老人が「自由に身を預ける場所」は肌の触れ合い(職員との間にも老人同士においても)が必要であり、それらが「身寄りになる」という表現につながるものでもあります。「身寄り」とは「肉親」を意味する言葉ですが、逆に老揺期においては過去の長い人生を知る肉親はなかなかボケてしまった親兄弟をそのまま受け入れることが難しい、他人として身の置き所を提供する「身寄り」になるというのが、氏が提唱する患者―家族―医療・介護提供者のバランスの良いトライアングルを形成する上で良いのではないかというものです。

 

ボケた人を自由にすることは「管理が不十分になる」こととの対置であり、何かと責任の所在を求められる現在の社会、特に医療・介護の分野においては難しい問題をはらみます。しかも医療・介護は金のかかるものであり、ボランティアでできるものではありません。きちんと料金を取ってしかも管理責任については鷹揚であるためには、「高齢者の行きようとはこんなもの」といった社会的コンセンサスが必要です。その意味で私は社会制度作りと同時に日本人の死生観について、宗教界を含めたコンセンサス作りの運動が必要なのではないかと感じています。

 

キリスト教やイスラム教などの一神教の世界観では、人は神が一代限りのものとして創造したものであって、神が蘇る際に審判が下されて天国や地獄に行くことになっています。よって現世と冥界を何度も行き来する輪廻転生といった考え方は原始宗教の影響を受けている一部の派にはあるようですが、原則としては信じられていません。しかし多くの日本人は生まれ変わりや輪廻転生を自明の事として思考過程の中に組み込んでいて、亡くなった人の魂は生きているときと連続しているものと考えています。仏教的な教えから現世を「修行の場」と考えて因果を誤魔化さず(不昧因果)現世において帳尻を合わせる、因果を報いるに至らなかった場合は来世においてさらに修行を重ねるといった思想は日本人に広く受け入れられているものではないかと思います。欧米における神との一代限りの契約に基づいて自己の才能を生かして社会において早期に収益を上げれば後は享楽的に過ごすも可也という思想はグローバリズムにおける1%の支配者達の拝金主義を肯定するバックボーンになっているものであり、畢竟、日本人には社会全体の不利益を省みずに何故使い切れないほど金をもうける必要があるのか理解に苦しむ所となります。

 

老揺期の過ごしかたが管理責任などを厳しく問わないような、もっと肩肘の張らない環境が整ってゆくことが日本における高齢化社会の問題を円滑に解決してゆく鍵になるだろうと思います。孤独死を問題にする風潮がありますが、その老人が身の置き所としてそこで安らかに死んでいったのであれば、皆で寿いであげればよいのではないでしょうか。

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書評 東京が壊滅する日

2015-08-25 18:43:31 | 書評

書評 東京が壊滅する日 —フクシマと日本の運命— 広瀬 隆 著 2015年刊 ダイヤモンド社

 

やや刺激的な題名ですが、内容は福島第一原発事故の被害、特に内部被曝によって今後10年以内に関東を含む300km圏内の居住者から大量のがん患者が出るだろうというものです。

 

放射線障害は短期に出現する大量被曝による直接的障害と、体内に微量ずつ取り込まれて蓄積し、近接した細胞、特に遺伝子に障害を加えることで機能障害や癌化したりする事で起こる障害に分けられます。短期に出現する障害は被曝後すぐに出てくる物であるから解りやすく、放射線との因果関係も明確です。しかし内部被曝によって年余の時間を過ぎてから発癌などで現れる障害は、放射線以外でも一定の確立で起こってくるものであり、統計的に厳密な調査を行わないと明らかにならないものなので放射線との因果関係が非常に解りにくいものになります。

 

福島第一原発の事故では具体的な量を把握しがたい「京ベクレル」レベルの放射線が大気中に放出され、現在も放出が続いているものの、空中の放射線量はさほど高くないことから放射能は「アンダーコントロール」であるとされ、「必要以上に放射能を怖がることは却って復興を妨げ、被災した福島県民を傷つけるものである」という意見が政府を初め多くの識者からも意見が出されるようになりました。著者の広瀬氏は事故前から福島原発の危険性を指摘し、事故後も一貫して放射線被曝の危険性、特に内部被曝の危険性を訴えてきました。本書は福島原発事故による関東一円に居住する日本人に与え得る「内部被曝の現状」と今後起こってくる可能性のある「被曝による発癌の増加」について、冷戦時代に米国のネバダ砂漠で行われた空中核実験後の周辺住民に起こった発癌増加の経緯、ソ連の核実験場であるセミパラチンスクとチェリャビンスクで起こったと考えられる核爆発後の障害などの実例を上げながら推定して行きます。

 

興味深いのはネバダ砂漠において冷戦期に行われた数十回に渡る核実験によって空中に散布された放射性物質の量と福島原発の一回の事故で散撒かれて、関東、東北の陸側に降下したであろう放射性物質の量がほぼ等しい(福島の方がやや多い)という計算になるという事実です。従って核実験場から200km圏にあるユタ州のセントジョージにおいて実験後10年で爆発的に増加した若年者の癌など内部被曝によると考えられる障害が今後関東圏においても出現してくるであろうという推測が成り立つという事です。

 

因果関係を証明しにくい、この内部被曝による発癌の増加は、核兵器や原発を推進したい政府や原子力産業にとっては「無い事にしたい」事項であることは、洋の東西を問いません。米国においてもこれらの疫学的調査は無視、或は行政主体に行われた場合は「機密扱い」とされ、一般の国民に広く知られることがないよう隠蔽されてきました。そしてそれを世界レベルで進めたのがIAEA(国際原子力機関)であることがその成立時の構成メンバーなどを詳述することで解説されています。福島事故後の各種の許容放射線量もIAEAの勧告に従って決められていますが、それらは必ずしも真の安全規準として決められている訳ではないことが解説されます。本書は「被曝許容線量の数値の限界」や「内部被曝は明確な危険性が証明されていない」という言論がいかに根拠のないものであるかを原子力産業の歴史をふまえて丁寧に解説したものと言えます。

 

私(rakitarou)は、医師の立場、及び放射性同位元素などを実験で用いる上で受けた安全講習(2日間放射線について専門的な講習や実習を行う)などの知識から、「福島原発の事故によって散布された放射線なんて怖くない」という意見(副島隆彦氏とか)には同意できませんでした。かといって診療上患者さんに放射線治療を行ったり、検査などで自分も散々放射線を浴びてきたことから、「危険性を認識した上で正しく怖がる」のが対応としては適切だろうと考えてきました。放射線は外を歩いているだけで自然界のものを浴びますし、高齢になれば放射線と関係なく癌にもなります。100人のうち、50人が癌で死ぬことが全国平均として、ある地域だけ60人が癌で死んだとしても、亡くなった人が皆高齢者であるならばあまり目立たないかも知れません。しかし癌死亡で増加したのが皆20代30代の若い人達であった場合は明らかに異常であると言えます。放射線の内部被曝による発癌はこのような若い人達の発癌という形で出てくるから問題であり、被害として深刻なのだと思います(年寄りは癌で死んでも良いという意味ではありません、念のため)。私はもう50代後半であり、遠からずどこかで癌になるでしょうから、福島原発の事故による被曝で10年後に自然になる予定であった癌が5年後に出たとしても自分としては許容範囲です。しかし私の子供達が40年後に自然では癌になるかも知れない運命が、原発事故のために5年後に癌になったとしたらやはり許せません。

 

ネバダの核実験とユタ州の住民の関係を考えると、残念ながら我々の多くは福島原発の事故によって既に内部被曝を受けてしまっている状態だろうと思います。我々にできることは、事故後5年から10年にかけて、東北から関東一円にかけて発癌の疫学的調査を厳密に行い、隠蔽せずにしっかりと世界に発信してゆくことが大事だろうと思います。事故を起こした責任者ははっきりしていますが、彼らが責任を取る事は日本の現状を見る限り未来永劫ないでしょう。しかし戦争責任を戦後生まれの我々が問われているように、原発の事故を日本で起こしてしまったことについての「日本人としての責任」は、自らの被害状況を包み隠さず世界に情報発信してゆくことで果たされるのではないかと考えています。

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書評 未完のファシズム

2015-06-19 18:44:28 | 書評

書評 「未完のファシズム」—持たざる国・日本の運命— 片山杜秀 著 新潮選書 2012年刊

 

慶応大学法学部教授で音楽・思想史研究家である著者が、日本を敗戦に導いた無謀な戦争計画と日本軍の精神主義の系譜を、日本軍における戦略史を振り返りながら解説した非常に興味深く示唆に富む本です。「愚かな軍部の暴走」といった表面的な戦争原因の追求には何の意味もないと常々感じている私には著者の「日本を必然的に敗戦に導いた思想の系譜」解説はストンと腑に落ちる思いがしました。彼の講義を受けられる現在の慶応大学生を羨ましく思います。

 

本の題名の種明かしは後半の章でなされるのですが、そもそも家柄に拘らず、日本中から秀才を集めた帝国軍のエリート達が、知恵を絞ってその時代における最善の策をひねり出した結果が大東亜戦争とその敗戦に帰結したのですから、後知恵の「上から目線」で当時のリーダー達が阿呆であったなどと軽々に結論づけられるはずはないのです。著者の解説で興味深いのは、苦戦をしてようやく勝利した日清日露の戦争が意外にもその後の欧州列強の軍における戦術に影響を与え、第一次大戦でその欧州列強の戦いぶりを学んだ日本が逆輸入的に欧州各国の軍隊の戦略からその後の日本軍の戦術を組み立てて精神主義に行き着いた点です。以下に簡単にまとめます。

 

日露戦争の教訓

 

言うまでもなく旅順要塞攻略戦における203高地の戦いに見られるように、火力と防御に守られた敵に対してひたすら肉弾攻撃を繰り返しても勝利を得る事はできない。敵を上回る火力・兵力をもって最小の損失で目的を遂げるのが最良の戦術であるという教訓を得た。戦闘に勝利し、枢要な陣地を得た所で外交によって戦争を終結させ、戦争の目的を達成するのが「戦争という手段による国際紛争解決の方法である」という至極まっとうな教訓を得たのである。

 

第一次大戦の教訓

 

日本は対ドイツ戦の青島要塞攻略戦において、日露戦争の教訓を活かし、十分な火力・兵力をもって短期間に戦闘を終結させることができた。その圧倒的な戦力に要塞のドイツ兵は怖れをなし降伏したとされている。しかし欧州においては戦線が膠着、長期戦化して国家総力戦を呈する一方で、日露戦争における日本軍の精神主義を学んだ欧州の軍隊が逆に兵士達に精神主義による突撃を強要するといった面が見られるようになった。

 

タンネンベルク・速戦即決思想の誕生

 

優勢であったロシア軍に対して、奇襲と機略を用いた劣勢のドイツ軍が勝利を収めた事例を見て、劣勢の軍隊が優勢な軍隊に勝つには速戦即決で責めに責める他ないという以後の日本軍に伝統的に受け継がれて行く思想が生まれた。

 

「持たざる国」が「持てる国」と戦争をするための戦略

 

資源・国力に乏しい日本が米英やソ連などの大国と戦争をして勝つには、速戦即決で敵が戦争の準備が整う前に勝てるだけ勝って和平に持ち込む(真珠湾攻撃時の思想)、と考えられるようになった。しかし速戦即決で勝てるのは大国相手ではなく、中小の国家までだと昭和初期までの軍の指導者達は考えていた。特に後に「皇道派」と呼ばれる人達はそのように認識していたという。一方で、持たざる国・日本を持てる国に変えようとしたのが石原莞爾らであり、満州と日本を合わせる事で持てる国となった挙げ句、米国と最終戦争を行い恒久平和の世界を作り上げるつもりであったが、持てる国になる予定(1960年)を待たずして持たざる国のまま戦争が始まってしまった。

 

戦争が始まってしまうと当然「持たざる国」は「持てる国」に勝てない、「勝てない状況でいかに戦争に勝つか」、という矛盾した問答における解答が「玉砕戦・万歳突撃」であるという中柴末純少将の思想に昇華します。戦術理論から言えば万歳突撃などというのは最低の愚作でしかありませんが、「持てる国」の兵士・国民に価値観・死生観の違う人達との戦争意欲を失わせ、有利な条件で停戦に持ち込む唯一の有効な戦略が玉砕戦である、という思想は一定の説得力を持ちます。硫黄島攻略戦や沖縄戦で苦杯を舐めた米軍がこのまま本土決戦を行えば想像し得ない犠牲が出る(もしかしたら勝てない)、だから原爆を使ったのだ、というのは現在も語り継がれる原爆使用の正当化の理由です。

 

結局「玉砕戦」戦法も原爆という大量破壊兵器によって破られるのですが、原爆が「禁じ手」となっている現代における中東の戦いでは「自爆」というイスラム過激派のジハード戦法が価値観・人生観の違う欧米諸国を苦戦させていることも確かです。

 

未完のファシズムによる当然の帰結としての敗戦

 

皇道派が大きな戦争に巻き込まれる事を避け、大戦争による経済の疲弊、ひいては革命による天皇制の危機に至る事を嫌った現実派であったことと対照的に、もう一方の派閥である統制派は持たざる国が持てる国に近づくために国家社会主義的統制経済を目指そうとします。永田鉄山、石原莞爾、鈴木貞一、池田純久など社会主義・共産主義経済に感心を持っていたため皇道派から「アカ」呼ばわりされた経緯もあったといいます。

 

本来、ヒトラーやスターリンのように国家の運営を一人で決める完成した独裁制があり、国民がそれに従う「ファシズム」が整っていれば、「強い持てる国とは戦争はしない」とか「満州を開拓して持てる国になってから戦争をする」とか日本でも一貫した政治ができたはずです。しかし戦後「軍部の独走」による一貫した政治がなされたように言われる日本ですが、その実態は「両論併記と責任回避」によるなし崩し的な戦争突入であった事が解っています(森山 優 著 日本はなぜ開戦に踏み切ったか —両論併記と非決定— 新潮選書2012年)。大日本帝国憲法は軍、官庁、議会、行政府それぞれが主権者である天皇を輔弼する併存体制になっているだけで、上下関係が明瞭でない。結局、明治の元勲と呼ばれる殿上人が絶妙な舵取りを行うことでスムーズに日本の政治が行われるしくみになっていた結果、誰も責任を持って独裁的に物事を決める事ができなかった、つまり「未完成のファシズム」が日本を無謀な戦争と敗戦に導いたのであるというのがこの本の結論と言えます。本当に軍部のトップ一人が独裁を行っていたら勝てる戦争をしたはずなのです。勿論「天皇」はヒトラーやスターリンのような独裁者ではなく、政治への介入を極力控えるという伝統を守っていました。東条英機はあまりに物事が決定できないことに業を煮やして首相、陸軍大臣、参謀総長を兼ねて日本のヒトラーなどと揶揄されますが、もともとバラバラでまとまりがない日本の組織を一人で複数の役職を兼ねることで何とかまとめようとした結果でしかないと説明されます。

 

ファシズム(束ねる)という事は権力が本当に束ねられていなければ意味がありません。米国も戦争時には大統領に全ての権力が束ねられるようになっています。そうでなければ戦争には勝てません。第二次大戦はファシズムとの戦いということになっていて、日本も征伐されたファシズム国家の一つになっているのですが、両論併記と非決定でしっかりした方策も責任も不明確なまま、だらだらと戦争に巻き込まれて行ったという歴史をしっかり学び、反省をしなければまた同じ過ちを犯す危険がまさに今もあると思わざるを得ません。

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書評 イスラーム 生と死と聖戦

2015-05-28 17:18:32 | 書評

書評 イスラーム 生と死と聖戦 中田 考 著 集英社新書 2015年刊

 

イスラム国関連で話題になったイスラム教信者でありイスラム法学者でもある中田 考氏のまさにムスリムにとっての死生観と聖戦について解りやすく解説した本で、特にキリスト教との違いや今話題のジハードについてのとらえ方について良くわかる内容でした。

 

一神教における死生観というのは、我々日本人にはなかなか理解できないもののはずですが、海外のドラマや小説における霊魂の存在や、医療における死との向き合い方などを顧みるに、実はキリスト教やイスラム教においても、日本人との考え方とあまり差がないのではないかという印象も持っていました。

 

死生観

キリスト教においては、神によって創造された人は死ぬと神による審判を受けることになっていて、その後地獄、天国、煉獄にゆくことになっているようですが、またこの世に生まれ変わるという考え方も映画などでは一部にはあるようです。イスラムにおいては霊魂と肉体は死ぬと離れて(霊肉二元論)、霊魂も暫くは意識があるのですが、キリスト教と同様に死後に裁きがあって、その後天国が地獄に行く事になっているということです。審判の時までは地中で待つことになるので、死ねば天国に行くという日本的な考えとは異なるということです。善行や徳を積めば、審判で認められて天国にゆけるのは皆同じなのですが、アッラーは比較的緩い神で、悪行よりも善行を点数多めに見てくれるという解釈があるそうです。一部悪人正機説に通じるものかも知れません(悪人でさえ救われるのだから、「いわんや善人をや」というのが本来の意味と言われますが)。面白いのは、人でも神でもない、精霊とか魔人のような存在(ジンと呼ばれる)があって、アラジンの魔法のランプから出てくるような、妖怪のような人智を超えた存在が考えられているようです。これは恐らくアニミズム的土着の宗教やインドの多神教からの影響と思います。

 

ジハードの意味

ジハードというのは「聖戦」を意味すると考えられますが、イスラム教徒にとってのジハードとは「イスラムの教義を実践するための自分との戦い」を意味するもので、これを「大ジハード」と呼ぶそうです。そして一般的に認識されている「イスラムの大義のための異教徒との戦い」は「小ジハード」と呼ばれて、本来的な意味とは少し異なる物であるとされます。しかも小ジハードは誰彼かまわず行えば良いというものではなく、カリフの指示の下に行う必要があると言う事です。ISILにおける自称カリフの「バグダディ」氏が異教徒との戦いを指示しているのは形の上でのカリフによる命令を取っているのだと言えます。ジハードによる死は、神の審判を受けずに天国に行けるとイスラム教では考えられているので、自爆テロという極端な方法が正当化されるようです。頭の悪い米国人にはこの小ジハードによる自爆テロと日本国における神風攻撃による自己犠牲によって靖国に祀られる事の違いは理解できないでしょう。ジハードはイスラムの実践によって自分が天国に行けるという利己的な目的で行われるのであって、国や家族を思いながら自分を犠牲にする神風の精神とは全く異なるものであると言えます。

 

イスラムと国家

以前ISILは国家の体をなしていない、という事をブログに書きましたが、この本を読むと、本来イスラム教は社会のあり方をも規定していてウエストファリア条約で規定された現代国家のあり方自体「規定外」の物であるという説明(第4章)があり成る程と思いました。つまり政教分離の考え方自体をイスラムは否定していて、イスラム教を信ずる人達の集まりの中で社会は成り立つようにできているのであって、国家といった別の規範や境目があること自体が誤りなのだということになります。その意味でイスラム教は「真のグローバリズム」とつながる所もあり、これは以前紹介した「一神教と国家」にも通じる内容です。

 

イスラムとの共存

では我々日本人のような多神教(仏教と神道どちらもまあまあ信じている)的な人達とイスラム教徒は仲良く暮らして行く事ができるのか、という問題になります。ここでイスラムでは「剣かコーランか」という二者択一を迫られると言われるけれども、これは誤解であり、「剣か税かコーランか」が正しいと説明されます。確かにエジプトなどのイスラム圏においてもコプト教徒などの古いキリスト教信者達が残っていて彼らは税を払う事で改宗をしなくてもイスラム教社会の中で普通に暮らして来た事の証です。ISILはコプト教徒達を殺害し、暴虐だとされていますが、正に本来のイスラムの教えから逸脱した行為と言えます。イスラム教徒はイスラムの教義の実践を邪魔さえしなければ異教徒の存在を許さないということはないのが本来のあり方であって、無理矢理改宗を迫るということはないというのが正しい解釈と思われます。

 

イスラム国というのはイスラム教の教義をうまく取り入れた中東に戦乱を起こすための米国戦争勢力の方便だろうと私は思っていますが、イスラムの教義を逸脱した世俗主義による統治を行っている中東において、本来のイスラムに戻ろうという純朴な若者達を惹き付ける魅力があるのは確かなのでしょう。だからこそ不用意にイスラム国を討伐する勢力に日本が加担する事(自衛隊を派遣して戦争をさせ、米国戦争勢力の片棒を担いで金儲けをさせてもらう事)には私は反対です。

 

本題と直接関係はありませんが、1998年のアメリカ映画で死後の世界と天国、地獄の様子(それは各人の持つイメージがそのまま現れるという解釈になってます)が描かれた印象的な映画です。完全なキリスト教の教義とは少し違うようでこれがヒット作として広く受け入れられた事は興味深いと思いました。

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書評 帝国憲法の真実

2015-05-10 22:00:52 | 書評

書評 帝国憲法の真実 倉山 満 扶桑社新書 165 2014年刊

 

気鋭の歴史学者で所謂ポツダム史観・東京裁判史観というものに「タブー視せずにおかしい事はおかしいと言おう」という論陣を張って人気を得ている人が書いた、大日本帝国憲法と現行憲法との比較です。

 

著者は法学者ではないものの、氏自身が憲法研究の専門的研究会にも属して長年研究をし、また教鞭を採っていた事もある由で生半可な知識で解説していることはなく、説明も論理的です。しかし言及はされていませんが、前提となる立ち位置が帝国憲法の時代を「良し」とするものであることからくる種々の根本的な違いについての言及はありません。例えば、憲法は「その民族や国家の成り立ちをふまえた国家のありようを規定した最も基本的な法」であるべきだと述べているのですが、この考え方が正しいかどうかの議論はありません。以前書評で紹介した小室直樹氏の「憲法とは国家権力への国民からの命令である」という本は題名の通り憲法のありようを定義したものですが、これは既に倉山氏の主張とは相容れないものです。現行憲法は英米法的な「法の支配」を前提として国家権力も法の規定の下にのみ国民の自由を制限できるというものであり、本来無限の自由を持つ個人がその自由の一部を国家に差し出すことにより社会を成立させ、逆に国家からの保護を受けるという論理に基づいています。しかし、歴史的な成り立ちから国家のありようを定めたとされる帝国憲法の考え方からは、憲法は国民のありようも規定してよいことになります。氏が主張する帝国憲法1-4条に規定された「国体」こそが日本国のありようの根本を定めた規定であってポツダム宣言においても「国体の護持」は保証されたのだから、現行憲法においてもこれを変えては行けない、という主張は憲法の定義をどうとらえるかを議論しないことには受け入れる事ができない主張といえます。

 

著者は現行憲法については内容も国語的文体も欠陥だらけであり、その目的とするものは米国(マッカーサー)が「日本人が二度と立ち上がって米国に反撃する事ができないようにするための呪い」であると喝破し、各所に現実と相容れない所や拙速仕事による齟齬があるとかなり批判的です。確かに憲法前文や9条の規定、政教分離などは現実的でない部分や理解不能の部分を含みますし、第7条の4号天皇の国事行為に「国会議員の総選挙の施行」というありえない規定が示されて(本来は国会議員の選挙)明らかな誤植も改正できないという指摘も尤もだと思います。また自民党の改憲案も著者は現行憲法に国民のあるべき姿を付け足した内容であって宜しくないと否定的です。

 

私自身は確かに現行憲法には不十分な部分があるとは認識していますが、これで戦後70年日本は平和で繁栄した国を築いてきたのですから、慌てて変える必要はないと考えています。強いて言えば9条に「日本国内における専守防衛のために自衛隊を置く」の一文を加憲すれば十分だろうと思っています。日本の憲法は米国に押し付けられたものではありますが、だからこそ戦後の米国の戦争に付き合わずに済んだという事実が大きいのです。今改憲したり、解釈を変えたりすることは「米国の戦争に付き合えるようになるという結果」しかもたらさず、それが「日本の国益に資さない」ものであることが明らかであるから変えるべきでないと私は考えています。改憲して米国の戦争に付き合うことが日本の国益にどのように資するのか、付き合うことで日本国民がどのように幸福になり、諸外国から尊敬されるようになるのかの議論がないから「改憲論者こそが売国奴だ」と私は思うのです。米国からは改憲して戦争の使い走りをしてくれるようになれば口先では良い事を言うでしょうが内心「心からバカにされる」ことは明らかです(せっかく戦争しなくて良い方便があるのに自ら捨て去るとは、私が米国人ならバカにします)。米国にとって、改憲されるより今の日本の方がよほど扱いにくい存在なのです。

 

倉山氏もこの本において、その辺の議論はなされていません。そこをしっかり書いてもう一度帝国憲法を見直してゆくのならばもっと共感できるところが出てくるように感じました。

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書評 絶望の裁判所、日本の裁判

2015-04-16 15:37:12 | 書評

書評 「絶望の裁判所」講談社現代新書2250 2014年刊 瀬木比呂志 著

   「日本の裁判」 講談社現代新書2297 2015年刊 瀬木比呂志 著

 

元裁判官で明治大学法科大学院教授の瀬木比呂志氏が、旧態とした閉鎖社会の裁判所の実態を暴露し、司法界に旋風を巻き起こしたとされる著作で、「絶望の裁判所」では最高裁を頂点とする官僚組織としての裁判所の実態を描き、裁判官個々の正義を追求する判断・判決を求めることが制度上できない仕組みになってしまっていることが示され、1年後に出版された「日本の裁判」ではこのような硬直した裁判所組織から出された数々の矛盾・誤謬に満ちた判決を例示しながら、日本における裁判の実態を具体的に描出します。

 

日本の統治体制は三権分立と言いながら、立法は官僚が作った法案を審議するのみであり、司法も統治行為に関わる判断はしないから行政(官僚)独裁体制であることは中学くらいになると社会科の先生がこっそり教えてくれていましたし、子供ながら「そんなものか」と何となく納得していました。それでも私が中学生であった1970年代は、米ソ冷戦の最中であり、中国は文革が燃え盛り、日本においても経済学は「マルクス経済」以外は大学では亜流とされていた時代。「共産主義は正義」「資本主義は悪」と本気で信じている人が日本のインテリ層に半分はいた時代でした。日本の法学者も裁判官を含めて左翼系の思想を持った人達がかなり多く、反体制的な判決も下級審においては頻繁に出されていたと記憶しています。当時は世界情勢も流動的であり、東西の接点であった日本で司法、特に最高裁が反体制的な判決を下して政治に影響を与えることはまずいという判断は仕方がないことのようにも思われました。

 

私は愛国者で自国を守る軍隊は必要とずっと考えていたので、周囲からは「軍国主義者」と呼ばれていましたが、家は貧しかったのでプチブルの友人達が変に左翼ぶっている事にはかなりの反発心を持っていました。大学では当時でも数少ない「自衛隊合憲論」の教授に憲法学を教わり(生徒2名だった)、自衛隊の所以外は他の憲法学者の解釈どおりであったので今でも憲法や法に対する基本的な知識は大切に思っています。

 

1990年代までは左翼=反体制であり、左翼的思想が正義を代弁するという観念もあったことから「体制に固執」することには「ある後ろめたさ」が伴っているものでした。しかし社会主義体制が滅びると、体制と反体制の力関係の緊張がなくなり、体制の維持に「後ろめたさ」が伴わなくなったことは確かです。また「資本主義」や「自民党政治」「日米同盟体制」に反する事と旧来のマルクス主義的左翼思想とは別物であるはずなのに、マルクス主義が否定されてしまったとたんに日本においては「反体制」という概念自体が消滅してしまったようなのです。そうした結果、裁判所という組織においても官僚的な体制維持の統制が「後ろめたさ」なく幅をきかせるようになり、現在では最高裁事務局の統制に従わない者は一生浮かばれないというヒエラルキーが完成してしまったというのが本書の底流をなすものです。

 

裁判官は体制に関わらない「小さな正義」の実現は可能なるものの、体制に関わる「大きな正義」には頬被りをして触れないようにして過ごす。その小さな正義に対しても事務処理をこなすが如くに件数をさばく、特に民事においては強引にでも和解を成立させることが裁判官の能力評価につながっている。刑事事件においては裁判員制度が導入されたが、それは一般の市民の感覚を判決に導入する目的ではなく、刑事裁判を扱う裁判官(民事と刑事を扱う裁判官が別れていることは知りませんでした)の勢力を強める意図があり、実際成功している、といった指摘は成る程と思わせるものでした。

 

著者は日本の閉塞した裁判所社会を改革するには、司法の一元化、つまり裁判官、検事、弁護士が適宜入れ替わりで司法を努める制度でないといけないと提言します。米国では司法の一元化がなされており、ベテランの弁護士が裁判官になったり、地方検事になったりしますし、法や裁判のやり方も州によって異なります。よく紹介するテレビ番組「Law & Order」でも地方検事補をしていた検事が別のシーズンで弁護士として登場します。日本では「やめ検」「やめ判事」としての弁護士はいますが、ほぼ一方通行であり、高裁の裁判長が数年前まで弁護士であったといった事例はありません。医師の世界では勤務医、開業医、学者、教育者、内科外科、行政の保健所長など、どの世界にも比較的自由に転職ができ、一元化は達成されていると思います。司法試験という単一の国家資格を持った限られた人達が司法の一元化を図ることは決して国家資格のない一億の日本国民が反対するものではないだろうと思います。反対するのは司法の資格を持った人達のそのまた一部に過ぎないと思います。著者が指摘するように、司法の一元化によって日本社会が得られる果実は想像以上に大きいものになるはずです。何より司法の権威や社会の期待が今までとは全く違ったものになるはずです。一票の格差の問題でも「違憲状態」などという法律判断はないのです。「違憲」か「合憲」の二つしか判断はないのであって、違憲状態で改善が望ましいなどという法律判断は存在しないというのが本来の姿ではないでしょうか。「違憲」であれば「現状を変える」か「憲法を変える」しかないのです。米国のように憲法を「修正・・条」という形に変えて行くのは人間社会において当然の事のように思います。日本では改憲論議というと憲法全てを作り替える話になってしまうので一歩も進まなくなります。9条の問題も「専守防衛と国際救難活動の目的で自衛隊を持つ」という条文を加えるのみであれば、国民の2/3以上の賛成は得られるのではないでしょうか。「閣議決定で憲法解釈を変えて集団的自衛権を容認し、自衛隊を海外派兵して戦闘ができるようにする」などというのは法治国家の常識を覆す暴挙としか言いようがありません。この決定に違憲の判断を下さない司法など存在価値さえ疑われかねないと私は思います。

 

昨年ある医療裁判にかかわる機会があって、民事ではありますが、専門家の意見(expert testimony)を求められました。医療過誤裁判は2000年代に入ってからかなり質の悪い「結果が悪ければ医療ミス」といった物が目立ち、萎縮医療につながり、医療者にも患者にもプラスにならないと憂慮していたことは以前のブログでも述べました。詳細は書けませんが、今回関わったケースはそれでも医療者側にある程度瑕疵があると考えざるを得ないものであり、客観的なデータを添えていくつかの争点についての意見を裁判所に提出しました。複数の医師が意見提出を行ったのですが、概ね同じ意見であったと聞いています。先頃第一審の判決が出たのですが、内容は私(や他の医師)が出した意見が反映されていてよく練られた納得できる内容のものでした。

 

そのような事もあり、「裁判官は皆なっていない」といった画一的な判断を下す気持ちはありませんが、「子供が蹴ったボールで交通事故が起きたらその場にいなくても親が責任を取れ」、といった判決や「認知症の老人が踏切事故を起こしたら同居していない子供まで賠償責任が生ずる」といった素人から見ても?な判決、医療過誤裁判における「結果が悪ければ医療ミス」と判断されるような低レベルの判例があることも確かです。日本の未来のために、文系上位1%の上澄みの人達からなる日本の司法官世界の改善を大いに望みたいと思います。

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書評「マスコミより確かな習近平の言い分」

2015-02-07 00:53:18 | 書評

書評「マスコミより確かな習近平の言い分」孔健 著 三五館 2014年刊

孔子直系75代目の子孫で、世界孔子協会会長で日本在住の 孔 健 氏が日本に住む中国人の立場から習近平と最近の中国情勢、日本に対する見方を解説した本です。日本に1985年以来住んでいるということで、十分日本について理解している上で、中国人としてのアイデンティティ、愛国心もある中で評論解説をしている点で非常に興味深いものがありました。特に、中国は何故日本を敵視するのか、今後中国(習近平)は日本をどう扱いたいのか、習近平・中国の今後の世界戦略はいかに、といったことはなかなか日本のメディアでは解説されないことであり、中国人としての氏の解説は参考になるとともに説得力があると思いました。以下に本書から感じた私の興味を持っている点についてまとめます。

 

○ 習近平氏の日本観、世界観はどんなものか

 

習近平氏の世界観を視る上で、巻頭に中国国営テレビのキャスターである白岩松氏が習近平氏と単独インタビューをした内容が紹介されているのが興味深いものでした。その中で習近平氏は、アメリカが自国のドルを守る(ドルの価値を高める)ために、ギリシャのユーロ危機を作り出し、外貨としてのドルを大量に保有する日中を尖閣問題(釣魚島)で反目させて貿易にダメージを与えた、という認識を吐露しています。かつて日本の中川財務大臣が奇妙な自殺を遂げた事も米ドルを守るための動きの一環として捉えているという発言なども、中国の情報網を駆使した種々の情報からある程度確たるものを得ての物言いと思われます。中国はBRICS諸国と連携してIMFに替わる開発銀行の創設を行っていますし、先のAPEC2014においても日米のみが反対した「アジア太平洋自由貿易圏」構想を強力に押し進めています。つまり習近平氏は日本を好き嫌いで見るのではなく、あくまで経済的な米中戦略の中で判断し、対応しているのであって、中国国内の一般民衆の反日や愛国心を戦略的に利用することはあっても、あくまで自国との利害関係のなかで日本との対応の仕方を考えて行くという、至極冷静で計算高い思考の持ち主であることが伺われます。

 

○ 習近平氏の国内の治世手法と今後の経済展望は

 

習近平氏の国内に対する治世手法は、保守的復古的なものであることは確実です。行き過ぎた資本主義によって共産党統治下であるにも関わらず貧富の差が開き過ぎ、また官僚の腐敗、黒社会の勢力拡大によって民衆の不満は頂点に達し、毎年数万件の暴動が発生している中国社会が危ういものであることは十二分に認識していることでしょう。社会が壊れようとしている時、他国と戦争を起こして国民の注意を外に向けるという手法も諸刃の剣であり、内乱に持ち込まれて対抗勢力に一機に政権を倒される(日露戦争のロシア、第一次大戦のドイツなど)可能性もあり賢い指導者ならば選ばない選択でしょう。

そこで習近平氏は中国伝統の儒教の復活による「徳の政治」の実現を目指していると言われます。また反腐敗闘争はこの一年の中国の動きを見れば明らかです。また恣意的になりがちな法の厳格化、法治国家の徹底も対策にあがっています。経済的には内需の拡大と内需を支えるための資材やエネルギーの確保に余念がありません。また軍閥化しつつある解放軍を「国軍」に改変しようともしているようです。確かに軍の中には日本と戦争をすることで権限拡大を目指している勢力があることも確かなようですが、それは国益ではなく私益の観点からに過ぎません。将来的に中華貿易圏、中華国防圏(米中で太平洋を二分する、三戦-輿論戦、心理戦、法律戦の実践)といった構想も確かにあるでしょう。そのような動きには日本としても断固とした対応をするべき(日米、日ASEANによる権益の保持)ですが、それは中国との放火を交えた戦争である必要はありません。

 

○   日本はどう対応するべきか

 

孔健氏は第六章「日中は戦わず、ただ争うのみ」と題した章で、日中は互いを故意に誤解して対立している部分が多く、本来もっと協力関係を築く事ができると提言しています。良いライバル関係というのは、互いを憎み合って成立するものではなく、互いをリスペクトすることで成り立つ物だと言えます。「日中が対立していた方が都合が良いという勢力」の言うなりになることは、国益を損ね、売国行為に当たることは明らかです。しかしこの事をマスコミが指摘することはなく、いたずらに中国脅威論だけが喧伝されます。戦前の方がよほどアジア重視の視点を日本は持っていました。日本人の多くが中国に憧れを抱き、中国移住を夢見るようになったら本当に日本の危機といえます。現在の中国は未だ総体としては民度も低く、恐れるに足らない存在です。しかし14億の民は今後もずっと日本の隣国として存在し続けることは間違いない事実です。その中には大バカ野郎も沢山いますが、とてつもない天才や大人と呼ぶにふさわしい人物も多数いることも確かなのです。日本は古来から大国中国と賢く付き合ってきたのですから、今後も賢い付き合いをしてゆけば良いのです。同じ文化圏にありながら二千年に渡り戦争をした回数の少なさとしては、日中は世界にも珍しい関係にあると言えないでしょうか。この事実を日中両国民が認識してお互いに賢く付き合って行けば良いだけの話ではないかと私は思います。

 

第二部として

 

日本人人質事件顛末のまとめ

 

2015年1月に明らかになったイスイス団による日本人人質殺害事件は、1月以降に起こった事全てが大きなプロパガンダ戦争の一環として行われた可能性が高いと思われます。いちいち出典を示すこともしませんし、つなぎは素人の推測でしかありませんが、一連の経緯について納得がゆくようにまとめておきたいと思います。

 

ジャーナリストの後藤健二さんは、種々の報道で見られるように中東の戦争犠牲者達、弱者の視線で活動を続けて来たことは確かだと思われます。しかし湯川ハルナ氏との関係についてだけは、民間軍事会社設立を目指していた彼から利用され、また逆に資金源として彼を利用する関係にかなり前からあったのだろうとハルナ氏のブログなどからも推測されます。湯川氏は自民党の茨城県議などとのつながりもあり、集団的自衛権で自衛隊や関連企業が中東に派遣された際に警備などの委託を受ける民間軍事会社設立をビジネスチャンスとして捉え、目指して活動していました。某所から資金源を得て活動していた湯川氏は一度シリアの反政府組織に捕らえられて釈放された経験がありながら、資金提供者からの圧力などもあって途中で止めることもできず、また中東に出かけて行き、イスイス団に8月に捕まってしまいます。本人もムスリムであり、イスラム法学者でもあるハッサン中田氏は昨年暮れにイスイス団に日本の若者を送ろうとした廉で公安から取り調べを受けたようですが、その際の罪状は「私戦予備および陰謀の罪」だそうで、刑法における条文としては「外国に対して私的に戦闘行為をする目的で、その予備または陰謀をした者は、三月以上五年以下の禁錮に処する。」というものです。これはシリア反政府軍に参加しようとしたハルナ氏にも当てはまるものであり、公安が同罪を適応して事前にハルナ氏を逮捕取り調べしていれば後藤氏を含めて今回のような悲劇は防げたのであり、日本の国益、国費に損失を与えることも事前に防げたのではないかと思われます。自民党の議員がバックにいたからそんなことはできなかった、というのであれば最早国益も愛国心も語るだけ空しいものになってしまいます。

 

ハルナ氏がイスイス団に捕らえられた後、後藤さんが湯川氏の救出に単身イスイス団に乗り込んだのは単なる義侠心などではなく、非公式ながら何らかのバックアップがあって行ったことは間違いないでしょう。交渉の糸口がつかめれば公式に日本政府が出る可能性もあったはずです。だからイスイス団の一部とつながりがあるとされるハッサン中田氏などには動いて欲しくなかった、ということでしょうか。しかし結局後藤さんはイスイス団に捕らえられてしまいます。政府としても非公式に何とかなるかと派遣した後藤さんが捕らえられてしまうくらいで、イスイス団とそれ以上の明確なパイプを持たないから、その後はどう対処して良いか解らなかったと思われます。この辺の経緯は永久に表に出る事はないでしょう。

 

今回の中東訪問で、イスイス団と比較的仲の良いイスラエルで、これもイスイス団の黒幕と言われるマケイン上院議員らと会談をして、今回の人質事件の顛末はある程度決められたと思われます。イスラエルは反アサドであり、シリア反政府軍として闘っていたアルカイダやイスイス団とは親しい間であり、こっそりイスイス団の負傷者を治療していたとも言われています。またマケイン氏はイスイス団総帥のバグダディ氏とも親しいとNYtimesにも報道されているように、イスイス団の黒幕と言って良い存在でしょう。そして今回の人質事件では「日本国民にイスイス団とは無関係ではいられないと認識させること」が目標にされました。安倍首相がイスラエルでこれらの会談が終わるとすぐに、イスイス団から一度目のビデオが出されます。今回の目標のためには人質が無事解放されてはいけない訳で、2億ドルという法外な身代金を要求して結局人質が殺されるという筋書きが当初からあったと思われます。だから具体的な交渉方法などは一切示されませんでした。

 

ところが一枚岩ではないイスイス団がやらかしてしまいます。後藤さんを捕らえている一派(湯川氏はまた別の所で捕らえられていたらしい)が勝手に「ヨルダンに捕らえられている死刑囚リシャウイ氏を開放すれば後藤さんを開放する」と発表してしまったのです。ヨルダン政府と撃墜されたパイロットの交換についてはかねてからイスイス上層部が水面下で交渉を行っていたのですが、パイロットは頭に血が上った末端の兵士達が既に虐殺してしまっていたから、ヨルダン政府に「もう死んでます。」とは言えない。だから日本政府がヨルダンに対策本部を置いたと聞いて、後藤氏とリシャウイ氏の交換を下部組織が勝手に言い出してしまったということです。ビデオの作り方がイスイス団公認の編集方法と役者を使っていなかったのはこのためです。

 

これは番狂わせであり、イスイス団上層部と黒幕氏も違った結末になりそうで困りました(安倍政権としてはこれでまとまっても良かった)。結局ヨルダン国が「パイロットの生存確認ができなければ人質交換はできない」と言ってくれたことで交渉決裂に持ち込んで、当初の目論み通りの結末に仕上げた、イスイス団公認の編集と役者で作った終わりのビデオを流したということでしょう。ビデオが流された後の日本政府の死亡の公式発表があまりに速く、幕引きを急いでいたと思われることからも決まった結末だったことが推測されます。湯川氏と後藤さんは結果的にイスイス団と黒幕氏に利用されて、「日本もイスイス団と無関係ではいられない」という認識を徹底させる役に立つ事はできました。二人が本当に殺されてしまったのか、表向き死亡したことにして命はどこかで取り留めていてもう表には出ないで生きて行くのかは解りませんが、後者であればせめてもの救いだと思います。公式ビデオは編集されていて、殆どがフェイクであろうと言われていますから。1月以降の出来事は全て中東紛争に日本を巻き込むためのプロパガンダ戦の一環と考えると合点が行きます。マスコミも全面協力していることが理解できます。

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書評 世界を戦争に導くグローバリズム

2014-11-26 22:39:08 | 書評

書評 「世界を戦争に導くグローバリズム」中野剛志 著 集英社新書 0755 2014年刊

 

筆者はTPP亡国論などでメディアでも有名で、東大から通産省に入省し、その後京都大学で教鞭を取っていた政治経済学者です。本書は氏の本来の専門である政治学についてであり、移り行く米国の覇権について分析した解りやすい著作です。内容は極めて科学的、分析的で独断的に決めつけたようなものではありません。

 

理想主義と現実主義に基づく分析

外交問題評議会(CFR)会長のリチャード・ハースが2009年の論文で用いた米国の現実主義と理想主義という分類、これはシカゴ大学のスティーブン・ウヲルトやEHカーが1939年に著した「危機の二十年」でも使われている分類で、米国の政治の根幹が「理想主義」と「現実主義」の間で揺れ動いている、というものです。理想主義は「かくあるべき」というドクトリンにのっとって妥協を許さない姿勢で政策を実行してゆくもので、ネオコンと呼ばれる政策集団とブッシュ・ジュニアが目指した、グローバリズムに基づくアメリカ一極主義は理想主義である一方で、オバマが目指すオフショア・バランシングに基づく協調主義は世界各地の個々の事情を考慮した現実主義であるとするものです。前に紹介した「副島隆彦」氏にの講演によれば、同じ民主党でもオバマは現実主義、ヒラリーは理想主義に属する事になります。

2012年に出された国家情報会議の報告書「グローバルトレンド2030」では米国は2030年には諸大国(欧州、日本、ロシアなど)のうちの首席(the first among equals)に過ぎず、所謂BRICSやトルコなどが重要な地位を占め、GDPは中国が世界一になっているだろう、と予測されています。米国の現在の政治はこの予測を基本に立てられていると考えて良いと紹介されます。

 

ブレジンスキーのアジア観

カーター政権時に安全保障補佐官を勤めたズビグニュー・ブレジンスキーは現実主義的価値観に基づいて冷戦の終結後に米国が唯一の覇権国家になった際に取るべき施索として「壮大なチェス盤」という世界の国をチェスの駒に見立てた戦略本を記している。その中で世界を征する国家でユーラシア大陸以外の国家がなったのは米国が始めてである。ユーラシア大陸を治めるにあたって、西はNATO、南は中東諸国との同盟、東は日米同盟によって固めている。ここで今後ユーラシア大陸が揉める可能性がある地域として注意が必要なのは、西はウクライナ、中央は中央アジアと中東、東は中国と日本であると予言しています。この中で、NATOの中においては、ドイツはリーダーとしての資質を周辺国に対して持っているが、日本はアジアの盟主たる信頼は持ち得ず、歴史的には中国が盟主たる資質があり、日本は米国の保護国に過ぎないという分析がなされています。その後の米国の動きを見ると、共産中国に対しては「改革開放」という資本主義化を持ちかけて米国グローバル資本を大量に導入することで近代化をはかり、現在では日本を抜く経済大国になりました。一方日本に対してはプラザ合意以降徹底した円高やバブル崩壊後も大蔵省を潰したり、銀行や証券会社を潰す政策を取って日本経済を痛めつけることばかりをしてきました。

 

当時のブレジンスキーの分析は慧眼に値するものと思われましたが、今日の現状に照らしてみると、ブレジンスキーの誤算はEUが西洋の拡大として機能する前に上手く行かなくなった事、中国は資本主義化しても民主化はされず、逆に米国に対して覇を競う相手になってしまったこと、と分析されます。そして日本と中国が10年前には予測さえできなかったアジアにおける火種として存在する結果になってしまったのです。

 

中野剛志氏の見る尖閣問題の意味

米国は衰退する覇権国家として「同盟」「共存」「撤退」の3つの選択肢が残されるのみであると言います。オバマの指向する「アジア・ピボット戦略」とは、日本に対する封じ込めの意味を併せ持った「同盟関係」と台頭する中国に対しては「共存関係」を図るものである、と言えます。もしかすると韓国や他のアジア諸国に対しては同盟ではなく「撤退」を指向する可能性もあります。日清戦争が、その後の世界においてアジアの盟主を中国でなく日本であると世界に認めさせた意味を持つとすれば、今後おこるかも知れない「尖閣奪取」は中国にとってアジアの盟主は中国であることを世界に認めさせる意味を持つだろうと分析されます。米国が中国との「共存」を指向する限り、米国にとってどうでも良い「尖閣諸島」のために米国が中国と戦争することは100%ありません。しかし、日本としては「同盟関係」を元にした領土侵略への協同対処を米国に求めたいのが本音です。だから沖縄から基地をなくして欲しくない、海兵隊も辺野古に常駐してほしいのです。しかし米国にとって日本は「保護国」に過ぎません。「保護国」の領土が「共存」を目指す国に一部奪われたところで「どうってことない」というのが本音なのです。

 

本書を読んだ感想

米国の世界戦略は一見場当たり的で、何を目指しているか解らないというのが本音としてありました。しかし、その時の大統領が、「理想主義」に根ざした政策をとっているか、「現実主義」に根ざした政策を取っているかで分類するとそれなりにその時どきで米国が目指していた目的が見えてくる感じがしました。米国は理想主義をかかげて覇権国家になりましたが、一極主義における理想主義は破綻し、現実主義を取らざるを得ない状態になったと言えます。その結果として現在の日米関係、米中関係を顧みると、米国政治の理想主義、現実主義の思惑によってあらぬ方向に日中関係が流されてしまったことが解ります。ついこの間まで、日中関係は双方の貿易額の互いに一位を占める間柄であったのに、今は防空識別圏が交錯し、島を巡って一触即発の状態になってしまいました。日本は尖閣のために再度日中戦争をする覚悟があるのでしょうか、或は盟主の地位を勧んで中国に認める意味で、尖閣は損切りする度量があるでしょうか。

私は次に行われる選挙の争点として国民が選ぶべきはこのような論点であるべきではないかと感じます。日米同盟を堅持し、尖閣を巡っては一歩も引かず、武力衝突になったら米国を引きずって来てでも戦争させる(ことで尖閣をあきらめてもらう)自民・公明党vs米国は衰退してゆくのは必然であって、現実主義を米国が取る限り尖閣で米国が中国と戦端を開くことはないと諦め、尖閣は損切りする、というその他の政党、というのが解りやすい争点と思います。勇ましいのは前者(第二次大戦前、強く出れば米国は諦めるだろうと言って酷い目にあったのはもう忘れた)、世界の現実が良く見えていて、(中国だって盤石ではないし)結果的に日本が損をしないのは後者だと私は思います。しかし今の日本人は前者を選んでしまいそうな気がします。

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書評 申し訳ない御社をつぶしたのは私です

2014-08-27 21:59:24 | 書評

書評 申し訳ない御社をつぶしたのは私です。(コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする) カレン・フェラン著 神崎朗子訳 大和書房2014年刊

 

和名も人目を惹く物ですが、原題名もI’m sorry I broke your companyであり、罪を認めて誤ったりしないアメリカ人が言い訳もせずいきなり「会社が潰れたのは私が悪いのです。」と言い切っているのですから、かなりインパクトが大きい題名と言えます。MBA(Master of Business Administration経営学修士)は特に米国において経営学を科学的統計的にアプローチする手法が多くのビジネススクールで採用され、主に2年位の期間をかけて習得することで企業幹部の必修科目になったり、ビジネスコンサルタントが習得したりします。この手法で高額のコンサルタント料を取って企業のリストラクチュアリング(構造改革)を行ったりするのですが、著者は「こんなものはインチキです」と明言してしまっています。

 

著者自身もMIT経営大学院でMBAを取得して大手経営コンサルティング会社で30年の実務経験を積んで来て、所謂科学的アプローチによる経営コンサルティングは殆どインチキであるという結論に達した、という本なのでかなり説得力があります。著者いわく、種々の有名なマネジメントモデルには汎用性などなく、「たまたまうまくいった事例」にもっともらしい理由付けをして他社に高額な謝礼を取って強要しているにすぎない、と喝破します。そして、経営コンサルティングの要点は、社員達からよく話を聞いて何が問題なのかを皆で考えることであると説明します。話も聞かずに成功事例から得られたモデルの型枠に会社をはめ込んで無理矢理構造を変えても何もうまく行かない。成功事例とされた会社も既に半数以上は潰れているのだから、と説明されます。

 

特にやっては行けない事は「成果主義」と「人材評価の数値化」であると様々な事例をあげて例証します。日本でもこれは大流行りで、恥ずかしながら私が勤める病院(大学)においても人材評価の数値化をやる流れができていて何とも鼻白む思いです(私の部署は無視してやってませんが)。

リーダーシッププログラムなどというのもインチキであり、世界で有数のリーダーに定型などないというのが結論であって、リーダーになるための各種技能の習得は意味がないと結論づけます。尤も、リーダーにも格があって、ジム・コリンズが述べるような第五水準の指導者(個人としての謙虚さと職業人としての意思の強さを併せ持っているー西郷隆盛みたいな人か)ともっと下の係長レベルの人では求められる資質も違うのかも知れません。

 

私はこの「科学的な衣をまとったビジネスコンサルティングメソッド」というのは以前紹介した「似非医療」と同じ構造だと思いました。西洋医学を万能であるとか、絶対的な真実であるという心算は全くありませんが、少なくとも科学(サイエンス)に基づいて、演繹法によって正しい結論が導かれた上で行われているのが西洋医学です。似非医療はごく限られた成功事例を元にして「・・で癌が治る」とか「・・で糖尿病が完治」などと癌や糖尿病の医学的定義、治るという定義も曖昧なまま「元気になった」程度の表現でいかにも効果がある治療であるかのような宣伝をします。つまり東洋医学のように数百年以上の帰納的事例の蓄積によって得られた結論ではなく、僅かの帰納的事例でAならばBだと結論付けをしてしまっている事が似非医療たる所以な訳です。MBAにおける経営理論とはまさにこの似非医療と同じ手法で僅かの帰納的事例をもってAならばBであるという結論付けを行い、その権威付けに有名学者が有名企業の例としてあげることで凡人が容易に反論できないようなしくみを作っている詐欺構造である訳です。しかも企業は経費から高額なコンサルタント料を払ってご託宣を聞くのですから中身がスットコドッコイなものであってもありがたがって従う他ないということなのです。結果は最も問題点や改善すべき点を理解している現場の意見が無視されて、会社のことなど何も知らない外部のコンサルが適当なテンプレートにはめ込んだ企業改革を断行して会社がぐちゃぐちゃになって潰れてゆく、ということです。特に企業の設立理念や社会への企業活動を通じての貢献といった重要な要素を無視して、企業が株主の最大利益や短期的な収益改善を図りだしたらば、その企業に未来はないと著者は述べています。全くその通りだと思います。

 

私の友人で東大を出てソニーに入社し、一世を風靡したゲームの開発などを行って活躍していた人が、数年前に早期退社をしました。彼に限らず、多くの優秀なソニーの屋台骨を支えて来た社員達が会社を去ることで、今ソニーは損害保険と一部エンターテインメントしか売れるものがなくなってしまいました。ビルも多くが売り払われ、今度は不動産をやるとか?あはれとしか言いようがありません。

私は、以前はトヨタ車がダントツ素晴らしいと思っていました。しかしノアやヴィッツを最期にこれはという魅力のある車がなくなって、特に生産世界一を目指すころからクラウンとかマークXを除いて「ろくな車がない」と感ずるようになりました。エンジンの技術力低下やリコールの増加、デザインが駄目な状態が今でも続いています。そこで私はホンダ車に乗り換えたのですが、ホンダも世界におけるシェアを確保するようになってから質が低下しました。7年前にシビックを購入したときはその技術力に会社の心意気のようなものを感じたのですが、今はどうでしょう。フィット、売れてはいるけどリコール連続でしかも安普請と散々な評判、ハイブリッドの新型アコードは日本市場を対象にしていない時点で販売店からもそっぽを向かれる始末。私もドンガラがでかくて350万もする車に魅力を感じないのでアコードは購入しませんでした。その意味で今日本の顧客を最も大切にして、良い車を作ろうという物造りの原点に一番忠実なのは「マツダ」であり、私はシビックハイブリッドからマツダのアクセラハイブリッドに乗り換えました。いずれレポートしますが、大変満足しています。ソニー、トヨタ、ホンダがMBAの経営理論にそそのかされたかどうかは知る由もありませんが、物造りの原点や現場の社員達の問題意識と建設的意見を経営方針に十分取り入れたのが現在の姿であるとは思えません。

 

やや脱線したので本の内容に戻りますが、「ビジネスは数字では管理できない」という主張、一番面倒だけれども現場の社員達からよく意見を聞いて皆で考える事、が会社の経営を改善させる遠回りだが唯一確実な方法であるという著者の意見は説得力があります。コンサルタントが全て無駄だという訳ではない、内部の人ではできない取り纏めが外部の第三者だからできて、適切なアドバイスが生きることも多々あると言います。それには学校を出たばかりで、社会経験のない若いコンサルタントは無理であり、一緒に苦労できるようなコンサルタントが真に役に立つコンサルタントと言えるだろうと述べます。

 

この本は米国崇拝、MBA崇拝の人達には耳の痛い内容と思いますが、著者が述べている経営哲学は結局日本が江戸時代から長く受け継いで来た商家の経営哲学に通じるものがあって、昔ながらの「社員と社会を大切にする会社経営」が結局は成功の秘訣なのだと改めて米国人から教えられる所に大きな意義があると感じました。

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書評 米中対決

2014-08-22 17:06:24 | 書評

書評 米中対決-見えない戦争(ハヤカワ文庫NV) ドルー・チャップマン/奥村章子(訳) 2014年刊

 

最近はあまりSF的な小説は読まないのですが、本屋で表題に惹かれて、パラパラと内容を見るとなかなか面白そうだったので思わず買ってしまった本だったのですが、架空の出来事とは思われない内容に休日を使って一気に読んでしまいました。内容はアマゾンの紹介では以下のようになっています。

 

武器・兵器によらぬ現代の新たな戦争を描く衝撃の話題作! 投資会社に勤務する若者ギャレットは、大量の米国債が中国によって密かに売りに出されていることに気づいた。報告を受けた財務省は市場の混乱を未然に防止する。一方ギャレットは、DIA(国防情報局)に極秘プロジェクト、アセンダントの一員としてスカウトされる。サイバー攻撃など、さまざまな形でアメリカに打撃を与え続ける中国に対し、彼は驚くべき方法で敢然と反撃を開始する。

 

という紹介から、軍事ものというよりもまさに「サイバー戦争とはこのようなもの」という分かりやすい解説という方が近いと思います。現代社会においては、戦場で軍人と戦場になった民間人だけが犠牲になる戦争よりも、株や経済を混乱させ、また生活に必要なインフラをサイバー攻撃で使用不能にする方が国家・国民にとっては損失が大きいと言えます。サイバー戦争で国内が混乱して内乱状態になってしまえば最早外国との戦争など不可能になってしまう訳で、国内のロジスティクスを無視して「集団的自衛権を認めれば日本も外国と戦争ができる」状況になると単純に考えている人達こそ平和ぼけと言えるのではないかと私は感じます。

 

本書に出てくる設定は現在の世界の実態をかなり反映したものと思われます。例えば米国の政府が一体ではなく、CIAとDIAが対立しているのは、現実に国務省と国防総省が異なる国家戦略を取っていることに似ています。中国が貧富の差が限界を超えて中国共産党に変わる新たな支配者を見いだすための革命(天下が変わる事)をそろそろ民衆が欲していることは明らかと思われますが、女毛沢東に相当する「タイガー」と呼ばれる革命家が共産党中央から恐れられ、ニュースからその支配地域についての報道が消えて行くことから革命の進行を知る(ネタバレで済みません)といった設定、国内の不満を外に向けるために戦争を起こす事、しかも相手から先に手を出させる事で自己の戦争を正当化させようという目論みも現実的と言えます。中国のサイバー攻撃に激怒した米国は(相手の目論みに乗って)自ら中国に第一撃を加えそうになるのですが、主人公達の反撃で逆に中国から第一撃が加えられそうになり、いざ第三次大戦勃発という瀬戸際に行くのですが、このあたりの駆け引きは実際の戦闘よりもスリリングで作者の手腕を感じました。

米国は生活インフラをサイバー攻撃されたことで各地に暴動が起きたりするのですが、これなどは現在進行中のミズーリ州の内戦状態ともいえる暴動(黒人青年が射殺されたことをきっかけとする)を彷彿とさせます。「タイガー」と呼ばれる革命家の描き方にもっとミステリアスな工夫があっても良いかとも思いましたが、全体としてよくできた小説であり、きっと映画化もされるのではないかと思いました。

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国家資本主義は国民に富をもたらすか

2014-08-21 01:20:05 | 書評

書評 自由市場の終焉(国家資本主義とどう闘うか) イアン・ブレマー著 有賀裕子訳 日本経済新聞出版社 2011年刊

 

市場原理主義の究極の姿がグローバリズム経済とすれば、G7に象徴される先進国(米英仏独加伊日)はグローバリズムを推進していると言えますが、BRICS諸国を加えたG20になると国家資本主義と見なされる国家群が入ってきます。グローバリズム経済は「トリクルダウン理論によって富者がより金儲けをすれば、富まない者にも経済的恩恵が巡って行くから、制限なく金儲けをしても許されるのであり、国家による制約は不要で少ないほど良い」と規定されたのですが、結果は1%の金持ちと99%の貧者の2極分化の固定化を招きました。経済の三要素である資本、労働、原材料が一国内である程度均等に賄われているのが健全な経済の望ましい姿ですが、グローバリズムは国単位で資本(米国)、労働(中国)、原材料(中東やロシア)をそれぞれ価格の安い所から調達し、統括するグローバル企業(と輪転機を回すだけで資本を繰り出す米国)だけが裕福になるというしくみであるため、それぞれの国家は合法的な搾取によって貧しくなるという結果になり、それらの国家は対抗策を講じ始めました。それが国家資本主義と言われるものです。

 

一市民の視点から見て、「国家資本主義というのは市場原理主義の欠点を補い、国民に富をもたらすものなのか」が非常に興味のある所です。今回はコンサルティング会社のユーラシアグループの社長で安倍首相にもアドバイスをしたというイアン・ブレマー氏の著作である「自由市場の終焉」を国家資本主義が国民にプラスになるかという視点から読み解いてみたいと思います。副題に(国家資本主義とどう闘うか)とあるように、本書は自由市場を本来の資本主義の望ましい姿として、対抗的に出現した国家資本主義とはどのようなもので、いかに対応するべきかを論考したものではあります。しかし読み進めると分かるように著者も行き過ぎた市場原理主義の弊害は認識しており、それの対抗上出て来た国家資本主義の蓋然性も認めています。以下に章を追って自分なりの視点で問題の答えについてまとめてみようと思います。

 

第一章      新たな枠組みの興隆

巨大多国籍企業の売り上げと国家のGDPを上位100を取り混ぜると51個は多国籍企業が占めるそうである。つまりグローバル企業は中小の国家よりも大きな資本力があり、国家そのものを買う、或は経済的に葬る力を持っていると言えます。この多国籍企業の力に対抗するために多くの新興国は政府の力を存続させながら経済を発展させる方策として「政府の富、政府による投資、政府系企業の活用」を重視するようになりました。これが国家資本主義に繋がって行きます。国家資本主義が新興国において安定的に雇用を創出して中産階級の長期的繁栄をもたらすならば、自由市場に代わる経済体制になる可能性が秘められています。

 

第二章      資本主義小史

純粋資本主義が唱える「見えざる手」によるコントロールで全て上手く行ったことなど一度もなく、いままで数多くの失敗が積み上げられて来た。そこで限定的な政府の介入を含む「混合資本主義」が行われて来たが、もっと積極的に政府が経済に介入してこれをコントロールすることが国家資本主義といえる。

 

21世紀における国家資本主義とは「政府が経済に主導的な役割を果たし、主として政治上の便益を得るために市場を活用する仕組み」と定義される。所謂社会主義経済や国家社会主義とも異なる。また国家が管理する貨幣の量を競う重商主義とも異なる概念である。

 

第三章      国家資本主義の実情と由来、第四章 各国の国家資本主義の現状

国家資本主義と権威主義的政治体制は緊密に結びついている。国営企業(資源を扱う)、政府系ファンド(SWF)、政府関係者が営む民営の国家的旗艦企業が国家資本主義が主に扱う手段である。手始めはOPECによる石油企業の国有化であり、近年中国ロシアの資源産業がある。中東諸国やシンガポールなどは政府系ファンドの活用も大きな力を発揮している。

 

第五章 世界が直面する難題

    市場原理主義の元では近視眼的な利益や「株主価値」ばかりが注目される傾向があり、そのために長期的な繁栄への配慮に欠けたり、バブル経済の出現が避けられない結果となってそれが却って健全な経済発展を阻害する原因になる。だからといって社会主義的な指令経済に戻れば良いという事はなく、政府による適切な監視こそが重要なのである。

 

第六章 難題への対処

    国家資本主義は市場原理主義がもたらす難題への回答、つまり不公平と闘ためではなく、政治的な影響力と政府の収益を最大化することに原点があり、国民に熱狂的に受け入れられるまでの魅力はない。国家資本主義は社会主義のようなイデオロギーではなく、経済的なマネジメントの手法の一つに過ぎない。米国と欧州では同じ資本主義でも政府による介入の度合いが異なり、自由市場を制限しない点では一致しているが、欧州ではより広いセーフティーネットを広げ、社会の維持にコストをかけている。中国は年間1200万人の雇用を新たに創出する必要があり、そこに国家資本主義を用いているが、今まで比較的うまく行っているが、今後も継続可能かは分からない。自由市場と国家資本主義の間で争いが起こるかは未定であるが、民間企業の活用、自由市場・時湯貿易の擁護(WTOの重視)、投資の自由化、移民の受け入れ、盲目的な自国主義(外国産品の不買など)の抑制が大事だろう。

 

著者は基本的に国家資本主義はまだ発展段階にあるが、最終的には自由市場が勝つであろうことを予測しています。ここで2012年2月に日経ビジネス On Lineのコラムとして田村耕太郎氏が述べた国家資本主義の限界についての論考を引用します。

 

(以下引用)

国家資本主義に“羨望”を感じる欧米CEO

2012年2月2日(木)  田村 耕太郎

 

 今年のダボス会議のテーマの1つが「国家資本主義の将来」だった。新興国を中心に、国営企業のプレゼンスが増している。資源エネルギー、メディア、金融、インフラ開発など幅広い業種において、その資金力と戦略的意思決定の速さを武器に世界を席巻しつつある。(中略)

国家資本主義の限界

 しかし私は、新興国の国営企業はそろそろ曲がり角に来ていると思う。理由は3つある。

 第1に、規模は大きいものの、国際ブランドを構築できた国営企業はまだ存在しない。確かに、国営企業は、技術や人材を買って一気にコピーするのは得意だ。しかし、それから先、ブランドにつながるイノベーションはなかなか生み出せていない。資金力だけではイノベーションは起こらない。イノベーションには風土というか環境が大事だ。機動的で小さな組織でこそ、それは生まれる。

 組織が肥大化すればするほど、その硬直性が増す。そして硬直化した組織では、官僚などインサイダーの利権やしがらみが優先される傾向が強い。ロシアの国営企業では、官僚が権力を持ち、そのために起こる組織の硬直が課題になっている。比較的うまくいっているシンガポールでも、イノベーションを起こした国営企業はまだない。中国の国営企業をサービス業から製造業まで見渡しても、国際ブランドになっている企業は見当たらない。

 第2に、国営企業には、暴走や非効率なお金の運用、腐敗の可能性がある。株主や国民のチェックを受けない組織だからだ。

 大統領に返り咲くとみられるロシアのプーチン氏の個人資産は5兆円と言われる。実質的に世界一の大金持ちと言われる彼の資産は、国営企業を通じてつくられたものであろう。このこと自体、能力と志あるロシアの事業家や若手起業家からモチベーションを奪っている。また、国営企業は、有能な人材がオーナーシップを持っている時にだけ、迅速で効率的な戦略的意思決定が可能である。常にそういう人材に恵まれる保証はどこにもない。

 人材や技術をせっかく買ってきても、それらを継続的に生かすためには、国営によるオーナーシップをより民主的にしていかざるを得ないと思う。以前に、中国国家ファンドの内実をこのコラムで書いた(関連記事)。欧米で経験を積み、高度なスキルを持つ人材と、新興国の政府高官との間で、経営をめぐる軋轢が既に起き始めている。これは、中東やシンガポールでも同様だ。

 第3に、国営企業の待遇は破格だが、それだけでは優秀な人材を採れなくなってきている。国営企業が幅を利かせている国のほとんどは砂漠や熱帯など、気候に恵まれない地域だ。大気汚染のひどい環境もある。報道の自由もなく、たいていはエンターテイメントに乏しい。教養や創造性に溢れる人材が長期に滞在したい場所ではない。

 中国をはじめとする新興国では、国営企業に低利融資するために国民が受け取る利息が低くなっている。配当すらしない国営企業も多い。国営企業が業績を上げても、長期的にはもちろん公益になるだろうが、国民は直接の恩恵を感じない。国民が豊かさを実感できない、国営企業を通じた国家資本主義では内需を増進することはできない。

 国営企業中心の国家資本主義に過大な幻想や恐怖感を抱く必要は全くないと思う。しかし、先進国の民間企業における民主的すぎる経営も行きすぎではないか? 短期的な利益を追い求める株主に煩わされることなく、長期的視野を持ち、戦略的な事項を迅速に決定する仕組みが求められる。これについては引き続き研究して提言を続けたい。

(引用終わり)

田村氏もイアン・ブレマー氏と同様に国家資本主義にも限界があり、適切な管理に基づく自由市場こそが皆の利益につながるだろうと意見を述べています。

「国家資本主義は国民に富をもたらすか」の答えは現状ではその利益は限られたものになるだろう、という結論になるでしょう。しかし行き過ぎた市場原理主義が多くの市民にとってマイナスでしかないことが明らかである以上、欧州的なセーフティーネットの充実や北欧型の社会保障システムと自由市場との両立といったものを日本も確実に目指して行かねばならないと思います。私はアメリカ型の自由市場の導入は日本国民には不利益しかもたらさないと強く断言します。

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ジョージ・オーウェルの1984は「戦後秩序」をどう予見したか

2014-07-31 16:37:17 | 書評

書評 1984(新訳版)2009年刊 早川書房6494

訳者あとがきによると、ジョージ・オーウェルの1984は英国においても「読んでないのに読んだふり」をする本の1位に選ばれるそうで、「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」という有名な台詞が現代の監視社会を見事に予言しているという思い込みから「あの作者はすごいね、描かれた未来は怖いね」という安易な反応を生み出してきました。私も「何となくこんな内容」と予想はしていましたが、IQ84はともかく、本家の1984は一度きちんと読んでみたいと思っていた本であったことは確かです。今回「新訳」として出されたものが本屋に平積みになっていたので購入して読んでみました。

 

  小説1984                  George Orwell

読んだ事ある方はご存知でしょうが、この「1984」という小説の主題は「ストーリー展開」ではなく「舞台となる社会設定の妙」だと思います。ストーリーの展開はどちらかと言えば「数幕しかない舞台演劇」のようにスペクタクルには欠けるもので、展開自体もやや強引というか必然性を欠いたものであり、血湧き肉踊るようなワクワクするものではありません。やはり何と言ってもこの小説が発表された1949年という世界を巻き込んだ第二次大戦が終わって間もない時期にこれだけ将来を予見し、また大胆な仮説をもって未来の社会設定を行った作者の想像力こそがこの小説の価値を決めるものだろうと思います。

 

以下、舞台となる社会設定の中で特に印象深い点を抽出して感想を述べます。

 

○   イングソックという社会を律する秩序が、社会を動かす権力層(上層)の永続的固定化を目的に作られていること。

社会を上層、中間層、下層に分けると、上層は自らの地位を永続させるように社会を支配しようとするが、力をつけて下層を味方につけた中間層にいずれ取って代わられるのが、世の常である。だから中間層が力を付けないよう、また下層を味方につけられないような社会システムを構築すれば上層が常に権力を保持できる、という考え方が基本になっているのは秀逸。この目的を達するための道具が論理的考え方や自由といった抽象的思考をなくしてしまう「ニュースピーク」という言語体系であったり、2+2=5であることを自ら進んで矛盾を感じずに答えられる「二重思考」(誤りであることを認識しながら、誤りの方を自ら納得して正しいと自然に考える認識法)であったりします。また中間層は徹底した監視社会におかれて、秩序に反する「おそれがある」と見られただけで社会から抹殺される状態におかれ、思考警察の制度で「反秩序を考えただけで犯罪になる」システムが構築されます。一方で下層に属する人達は「プロール」と呼ばれて中間層よりは自由なのですが、常に日常生活に追われて中間層的な豊かさは持ち得ないような社会システムに設定されています。つまり生かさず殺さずになるよう物質的供給がなされているのです。

 

○   世界がオセアニア(米英中心、思想はイングソック)、ユーラシア(ロシアと欧州中心、思想はネオ・ボルシェビズム)、イースタシア(中国中心、思想は自己の滅却)に分かれていて、しかも常にどこかと戦争状態になっていることで逆に安定していること。

1949年の中国共産国家ができるかどうかの時点で米ソは分かりますが、よく中国を第三極とした社会を想定したものだと感心します。しかもこれら3国の思想は実際の所ほとんど同じ内容ということも興味深いものです。

 

○   資本主義が否定されて社会主義の世の中になっており、上層が維持するものは富ではなく権力であるという設定であること。

この設定が「社会主義は酷い社会だ」という宣伝材料として使われて、1950年代のマッカーシズム(赤狩り)にも使われたと解説にありました。1990年には共産主義が消滅するとはさすがにオーウェルも予想しなかったようですが、現在の社会を見ると、「富と権力を一体としてそれを永続的に維持するシステム」が構築されつつある、つまりオーウェルの予想したシステムを一ひねりしたものが現実化されつつあるように私には感じます。この「富と権力を一体化したもの」を単純に「自己の持つ寿命」として映画化したのが「Time」という映画(2011年米国ジャスティン・ティンバーレイク主演、アンドリュー・ニコル監督脚本)でありました。この映画では下層民はその日を何とか生き延びる寿命しか持たず、上層民は数千年もの有り余る自己の寿命を持て余して賭け事や浪費に費やしたりします。その日を生き延びる寿命が稼げず、また寿命を借金することもできなかった下層民は腕に表示された寿命が0秒になった途端に道でも家の中でもばたりと倒れて息絶えます。社会は層毎に住み分けられていて下層民は上層民の住む地域には行けない設定になっていて社会システムが永続するようになっているのですが、「Time」という映画は、そのシステムを撹乱する革命児が現れてしまうというストーリーです。

 

 映画「Time」腕に自分の寿命が時間で示される。寿命が貨幣の代わりになり、貸し借りができる

 

○   宗教の存在が否定されていること。

イスラム、ユダヤ、キリストなどの一神教においては、個人が忠誠を尽くす相手は神である、とは丸山眞男の「忠誠と反逆」でも述べられていますが、この社会では個人が忠誠を尽くす相手は「党」であると明確に規定されていて、宗教のシンボルである教会は「オレンジあるよ、レモンもね、鐘響かせるセント・クレメント・・」というわらべ歌の中で繰り返し語られるだけになっています。つまり実社会において社会システムを固定化するには宗教は邪魔だということが明瞭に謳われていると言えます。現代社会でも資本主義グローバリズムによる世界統一(New World Order)に最も強く抵抗しているのはイスラム社会であるという現実があります。

 

○   世襲が否定されて、上層には中層から一代限りで誰でもなれるシステムになっていること。

これは一見上層構造を不変とするシステムと矛盾するように思われてしまうのですが、社会変革が起こるのは世襲によって能力のない人間が上に立つ事が原因と考えると、一切の世襲が否定されて中層から社会システムへの適合性について「忠誠心と能力」を幼少期(ユーゲントや青年団のようなコミュニティで育つ)から選別されて適切な役職に一代限りで就かせるというシステムは、社会システムを普遍にするには有用な手段であると思われます。血族の情は許されず、子供は社会の所有物という思想が徹底されています。

 

このような特徴を持つ社会システムですが、オーウェルが予見した未来社会と現在の戦後秩序とされる国際社会の類似点、相違点を検討してみます。

 

< 類似点 >

○   上層の永続性の工夫。

豊かな中間層をなくし、1%の富裕層と99%の貧民層に分けるというのは上層の永続化につながり、情報の独占もやりやすくなります。

 

○   監視社会になっている。

町中至る所ビデオカメラだらけ、砂漠のキャンプも人工衛星で監視、全ての電話やメールは盗聴済みです。ビッグデータは監視社会の果実と言えます。

 

○   偽旗作戦をやっている。

小説でも、時々プロールの町中にロケット弾が打ち込まれて被害者が出ていますが、これは戦争をしている事を認識させ、また反社会勢力のテロだと宣伝することで国民に敵愾心と社会への忠誠心を抱かせる政府の自作自演の行為なのですが、現実社会でも911、ボストン爆弾テロ、公文書まで公表された過去のノースウッド作戦など自作自演の偽旗作戦が数限りなく行われています。

 

○   過去を創り変える。都合の良い情報操作を日常的に行う。

イラク戦争の大量破壊兵器がある口実、南京虐殺や慰安婦問題、政権に都合がよい過去の創作や情報操作は今や日常茶飯事。戦争広告代理店という本にあったように、いかに相手を悪く作り上げるかが、大衆を騙して権力を信用させる大事な方略になっています。

 

○   タブーとして再考を禁ずる。

ナチスのユダヤ人虐殺数の問題、原爆投下が本当に必要だったのか、欧米列強の過去における植民地支配の総括、白人が行った奴隷売買の総括、国連の場で徹底的に討論できるものならしてみれば?

 

○   誤りでも良いと進んで考えるようにする。

これは日本人にも耳が痛いことが多い。しかし中国で共産党独裁のまま民主化が進まないことについて、金が儲かるなら独裁政権のままで良いとする中国国民が増えているのも確か。

 

○   幼少時からの教育をシステム維持に用いる。

自分で考える能力を学ぶことでなく、知識を学ぶことを教育の本質とするのが現状であるように思う。社会を維持するための大人を育てることが教育(内田 樹氏の持論)という考えも一理ありますが。

 

○   社会システムに背くことをテロとして弾圧する。

同じ事をしても米国に都合が良い物を「民主化勢力」と言い、都合が悪い物を「テロリスト」と呼ぶ。日本でも義賊、逆賊という言い方がある。

 

○   社会システムのパワーが、人がコントロールできない程強くなってしまった所が、大きくなりすぎたマネーのパワーが世界の経済を破壊するほどになっている現在に類似。

これはリーマンショックを始めファンドマネーが右往左往することで実態経済をかき回して制御できない状態にしていることに似ています。

 

○   常にどこかで戦争をしていること、しかも多くの人にとってそれが他人事であること。

米国の現状がこれ、日本もそうならないように。

 

< 相違点 >

○   資本主義である。

○   人、物、金、の往来が国境の障壁が少なく盛んである。 

○   ますます世襲である。

ということで、2014年は小説が書かれて、1984年を想像した未来の約2倍先まできているのですが、果たして現実社会は類似点の方が多いことになっています。この1984という小説がこれからも社会の中で種々引用されて評されると思いますが、この小説で描かれた社会を「最悪の設定」として、いかに現実をこの設定から回避できるか、という尺度で我々は考えて行かねばならないでしょう。

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