rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

寝る前の飲水は梗塞の予防になるか

2012-05-24 13:42:43 | 医療

夜トイレに何度も起きて眠れないから何とかならないか、といって泌尿器科を受診するお年よりが跡を絶ちません。夜1回くらい起きて手洗いにゆくのはしかたないとして(病気の範疇を広げる必要から、夜1回以上排尿のために起きることを医学的に夜間頻尿と定義されてますが)、3回4回となると確かにゆっくり寝られないという感じになります。中には「夜8時には寝て、朝6時に起きるので、夜10時12時2時4時と起きて4回手洗いに行きます」という人もいますが、夜12時位に寝る人のことを考えると、この人は実質夜間2回の排尿ということだと思われます。ただ「寝る前にコップ一杯の水を飲んで寝ます」とか「起きて排尿した後、必ず水を飲んでから寝るので何回もトイレにゆくのはしょうがないかな」という人もいて、「脳梗塞の予防にはそうしなさいとテレビでも言ってるから。」という人が殆どです。

 

水を200ml位飲んだからといって、普段自由に血管の内外で水分の移動が行われているのに、夜間に限って血管内の水分が血管外のthrid spaceに移動することなく朝まで増えた状態が保たれて脳梗塞や心筋梗塞にならないよう血液の粘度が下る、などということはないと医学を知る人にとっては常識であると思うのですが、なかなかこの神話が無くなる事はありません。

 

「寝る前の飲水が梗塞の予防に有効」という話しを遡ると1991年の群馬大学倉林氏らのstrokeという雑誌に掲載されたletters to editorの論文「真夜中の一杯の水が脳梗塞を予防する」でポカリスエットを250ml寝る前に飲む事で血液の粘度が有意に低下して朝方の脳梗塞発症の予防になる、という論文や1987年に同じくstrokeに発表されたWood氏の「血液の濃さと粘度の日内変動が脳梗塞、心筋梗塞を引き起こす」という論文に行き着きます。「寝る前の飲水」という誰にでもできそうなキャッチーなアピールで「脳梗塞の予防に有効」となると「知って得する知識」としてマスメディアなどでは紹介しやすく、少なくとも本人に害にならないという責任発生性がないことから、ことさら「有益な話し」として紹介されたのではないかと推察されます。その結果は夜間多尿の大量発生という結果になって泌尿器科医師に「何とかして」というお鉢が回ってくるという結論になった訳です。

 

夜間頻尿の原因には、あまり貯まってないのに排尿したくなる過活動膀胱によるもの、夜尿が昼間よりも多く作られるようになる夜間多尿(普通は昼対夜は2対1位の量であるのに1対1或いは夜が二倍などという場合もある)、前立腺肥大などで残尿が増えて有効膀胱容積が減少しているもの、単に眠りが浅くて目が覚める度に何となくトイレに行く(良く眠れる時は起きない)など多種の病態があります。一般に年を取って心肺機能が低下してくると、夜寝ている時の方が腎の血流が増加して多く尿が作られるようになることがあります。夜尿が作られ続けると血管外から水分を血管内に取り込んではいても、朝方には相対的に血液が濃くなっていることは予想されます。そこで寝る前に水分を補給しておく、という考えも全く意味のないことではなさそうですが、「常に飲水が少なめの脱水気味の高齢者が水を補給する」ということでもないかぎり、実際の梗塞予防効果までは期待できないのではないかと私は思います。

 

Journal of Neurological Science 2012年82-85ページのMuckeらの論文では、飲水を1600mlと2500ml行なった脳梗塞発症群それぞれ200例以上の再梗塞のリスクを約2年間、前向きに調べた所、沢山飲んでいる群が5%位(12.3%と16.8%)再梗塞発症が抑えられた、と述べられています。しかし本当に2年間一方がもう一方よりも確実に飲水に差があったのかは調べようがないから明らかではないとしています。2010年のBritish Journal of Neutrition、1212ページのLeirsらの論文では、オランダにおける12万人に対する10年に及ぶコホート研究で飲水量によって虚血性心疾患や脳梗塞の発症には何ら差が見られなかった、と報告しています。2005年の日本老年医学会雑誌557ページ、岡村らは飲水と梗塞発症についての600以上の文献を調べた結果、役に立ちそうな文献は20個程だったが、飲水が脳梗塞の予防に役立つと言えそうではあるが、エビデンスとして直接証拠付けられるものは一つもなかったと結論付けています。実際の所、こまめに水を飲んだりして健康に気遣う人は、薬もきちんと飲むし、食べ物にも気を使う、飲水をしない人は他のことにも無頓着ということもあり、飲水という因子だけで差をつけて、他の事は同じ条件で何年も群分けをして経過を追うということなどできないというのが一致した見解です。

 

飲水についての話題として、「飛行機の中での血栓症予防(エコノミー症候群予防)に飲み物を出した方がよいか」という研究も盛んに行われているようです。こちらも種々議論がありますが、飛行機の中で飲み物を飲んだ所で血液の濃さは変らないというのがほぼ一致した結論で、それでも血栓形成に関与する血小板機能などは飲水によって固まりにくい方に変るという意見があり、やはり飲み物は血栓予防に効果があるのではと言われています。

 

ということで、「寝る前の飲水は脳梗塞の予防になるか」という問いの答えは「一回位トイレに起きることも止むなし、と思えるならば飲んでも良いのでは?」ということになります。しかし起きる度に飲水するなどというのはナンセンスであり、まして「主人が起きる度に家内がお茶を入れて、飲ませてからでないと寝せない」などというのは「可愛そうだから排尿後すぐにねかせてあげて」と言うことにしています。

 

参考

Kurabayasi H et al (1991) A glass of water at midnight for possible prevention of cerebral infarction. Stroke 22 1326-1327

Wood JH (1987) Is the circadian change in hematocrit and blood viscosity a factor triggering cerebral and myocardial infarction? Stroke  18  813

Mucke S et al (2012) The influence of fluid intake on stroke recurrence- A prospective study Journal of the Neurological Sciences 315 82-85

Leurs LJ et al (2010) Total fluid and specific beverage intake and mortality due to IHD and stroke in the Netherlands Cohort Study British J of Nutrition 104 1212-1221

岡村ら(2005)Can high fluid intake prevent cerebral and myocardial infarction? Systemic review 日本老年医学雑誌 42 557-563

Brenner B et al (2008) “To drink or not to drink” – is this really the question? Thromb Haemost 99 985-986

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民意と経済はどちらが正しいか

2012-05-17 00:06:05 | 社会

連休を過ぎてからの世界の注目はフランスの大統領選とギリシャの議会選挙であることは論を待たないと思います。緊縮財政よりも積極財政による経済の拡大を主張して社会党のFオランド氏が現職のNサルコジ氏を破って当選、ギリシャはEUからの緊縮財政強要に反対する右派左派がそれぞれ議席を伸ばしたために連立がまとまらず再選挙になりました。

 

どちらもキーポイントは「民意が緊縮財政を拒否した」ことと「ユーロを基準通貨としたEU体制の危機」と言う点に尽きると思われます。しかし緊縮財政を止めるとなぜEUの経済体制が危なくなり、不況が長引くのかという適確で判りやすい説明はNHKを始めとしたニュース番組などで見る事はありません。それは説明する能力がないのか、説明すると何かまずいことが起るのかのどちらかと思いますが、どうも私は後者のような気がします。

 

前回ギリシャの債務危機というのは、ギリシャが国債の不渡りを出してしまうこと自体が問題なのではなく、不渡りを出してしまう事で発生する大量のCDSによって欧州の証券会社や銀行が潰れてしまうことを怖れたことが発端だと書きました。EU政府がギリシャ国債保有者に債務の半額を断念させて残りを新たに発行する低利の国債を買わせる事で不渡りをもみ消すことにした事態を受けて、同様に不渡りになりそうなスペインやイタリアの国債を持っている債権者(ファンドやお金持ち達)がそれらの国債を売り浴びせた結果、国債の暴落が起きそうになって、暴落しないようにEU域内の銀行などが売られたそれら弱い国債を大量に購入するよう欧州中央銀行が大量にユーロを刷って域内の銀行に貸しだしたことが本質でした。副島氏は姑息なことをせずに、リーマンショックの時のAIGのようにCDSを発生させて潰れる会社はつぶしてしまった上で債務者には一度合法的に債務を断念させ、それから国有にするなりして再建すればよいのだと書いていましたが、EU首脳達が取った選択は問題先送りだったために欧州の銀行が大量の不良国債を持つ事になってしまったのが今日の姿です。

 

欧州各国が緊縮財政をなぜとらないといけないのかというと大量の不良国債を欧州の銀行(間接的に中央銀行が持っているのと同じ)が持っている所に新たな国債を発行してもこれ以上買ってもらえないから、と言う事に尽きるでしょう。国別の国債では買ってもらえないならば、通貨圏が同一な欧州共通債のようなものを発行してそれを各国にEUから貸しだせばどうかという提案が随分なされたようですが、これはEU成立の際にやらないことになっている上に、割を食う景気の良いドイツが強行に反対しているということです。日本で言えば貧乏な県や市に国から財政援助をしようとすることを東京都が反対しているようなものでしょうが、同じ日本人同士だから違和感がないものの、例えば韓国の財政破綻を日本の税金で自動的に補てんするシステムを作ろうとすれば当然反対が出るものと思います。

 

恐らくEUという国や国民性が違うのに通貨・経済システムを共通にしようという制度自体に無理があったというのが根本にあって、政治システムも共通にするか、経済システムを国別に戻すかしないと解決しないのではないかと思われます。ここで政治システムはそれぞれの国の民意によって決められますが、経済はより大きな世界共通の意思(といっても金を持っている一部の人達の意思)によって決められると言って良いでしょう。ではこれからの世界、どちらの意思(それぞれの国の民意かよりグローバルな経済の意思)を優先して物事は決められてゆくべきか、今我々は問われていると言えないでしょうか。

 

テレビなどでの解説で、ある種歯切れの悪さを感ずるのは、この民意と経済の意思のどちらを優先させるべきか、についての答えをはぐらかしたまま、情勢を解説しているからではないかと私は思います。だって教科書的には民主主義で決められた民意が何よりも優先されると教わってきたはずでしょ?

 

本当は「民主主義によって決められた民意を優先して、経済は民意に合わせろ」ときっぱりテレビキャスター達は言ってしまいたいのだと思いますよ。しかし「君は自由主義経済を否定するのか」と言われるのも辛い。90年代に社会主義経済が否定されてソ連が崩壊し、中国が拝金主義的資本主義に鞍替えしてから「自由主義経済」は絶対的に正しいものという認識ができてしまい、世界規模で自由主義経済を進めるグローバリズムがある意味「民主主義」と同価値の否定し難いテーゼとして認知されてしまったところに「民意と経済のどちらを優先させるか」決められない現実ができてしまったのではないかと思われます。

 

目的と手段の項で述べたように、政治も経済も「人間が良く生きる(衣食住足りて健康的に生き甲斐のある生活ができる)」ための手段にすぎないのですから、必要に応じて制限をかけるのは当たり前だと私は思います。経済は真に自由に行なえば「神の見えざる手」によって適切にコントロールされるなどという神話を信じている経済学者もいるようですが、これはマル経で世界は最終的に原始共産制に向かって進んでいるという神話を信じる事と同じくらい馬鹿げていると言えるでしょう。経済学者、岩田規久男氏の著作「経済学的思考のすすめ」筑摩選書(2011年刊)には、「市場原理の重視とは自由放任ではなく、他人の自由を妨げることのないルールに従った自由である」としっかり書いてありますが、私はもう一歩進めて、金を儲けたいという欲望の強さや能力は各人で異なるのであるから、社会を維持してゆくためには金を個人が得ることについて上限を作り、「慾が強く能力が高ければいくらでも金もうけをしてもよい」という現状を変えてゆくべきではないかと思います。使い切れない程金を儲けても天国まで持ってゆく事はできません。所詮は物欲、人間が良く生きるために必要な金の額など自ずと限りがあるのはある程度人生経験をつめば判る事です。「個人の金もうけに上限を設けていないことによる社会全体の不利益」について認識し、21世紀の進歩した国際社会は叡知を出し合う時期にきているのではないかと私は思うのですがどうでしょうか。

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書評 ひとりでは生きられないのも芸のうち

2012-05-10 00:27:51 | 書評

書評 ひとりでは生きられないのも芸のうち 内田 樹 2011年 文春文庫

 

変った題名の本ですが、内田樹 氏のいつもの「判りやすさ」と「ウイット」に富んだ内容を表わしたものと思います。著者が前書きで述べているように、この本の主旨は「当たり前すぎて敢えて口に出して表現しなかったことを敢えて評術することで現代における問題を浮き彫りにしよう」とするもので、氏の書き連ねているブログから若い人に身近な「結婚」「家族」「仕事」といったトピックを特に選んで編集したもの、と言えます。

 

当たり前すぎて云々・・というのもやや抽象的な物言いですが、より具体的に言うと「江戸時代以来無意識の内に日本人に連綿と続く社会や家族の慣習や考え方、エトス」といったものを改めて表出してみることで、現代の問題とされることが意外とその常識を否定したり無視したりすることで起きているのではないか、ということを提起した本と言えます。

 

人間は一人では生きられない、社会を形成して、役割分担をし、自分でできないことを他人にやってもらうことで初めて生きてゆけるし、社会を形成する個々人が自分のできることをより沢山することで社会全体が豊かになってゆく、ということが全体を貫くテーマであり、「ひとりでは生きられない・・」という題名が表わす内容と言えます。

 

市場経済的考え方では「より少ない負担でより多くの物を得る」ことが市場的には正しい行いとされています。これに従って、個々人が仕事として社会に対して行なうパフォーマンスがより少なくなり、得るものをより多くしようとすれば社会全体におけるパフォーマンスが少なくなり、社会が貧しいものになります。だから得る物以上に奉仕をするオーバーアチーブメントの部分を誰もがもつことによって社会全体としてはより豊かなものになる、というのです。

 

病院におけるモンスターペイシャント、学校におけるモンスターペアレントに代表されるように、現代社会は「とにかくクレームを付けさえすれば誰かが責任を持って状態を改善してくれるもの」という前提で動いています。そのお先棒を担いでいるのがマスコミですが、クレームを付けられた側で「かしこまりました、改善いたします。」と夜を日に継いで社会システムの改善に取り組む人間、言うなれば社会の維持にとって欠くべからざる「大人」の人達がどれくらいいるかについては確認されていません。実はクレームを付けさえすればどこかの誰かが責任を持って社会システムを一生懸命改善してくれるという世の中は損得で物を考える市場原理主義的思考が中心になった日本にはもうないのではないか、というのが内田氏の主張です。内田氏は5人に一人位、オーバーアチーブメントをして社会に奉仕してくれる大人がいれば社会は崩壊しないですむ、と言います。5人に一人は少ないようにも見えますが、常に同じ人がオーバーアチーブをする必要はなく、時と場合によって適宜奉仕する人が入れ替わる事で社会はうまく回ってゆくということです。

 

確かにわが家では5人家族で現在私がオーバーアチーブメントをして家計を支えていますが、いずれ子供たちが支えてくれることになるでしょうし、今でも休みの日は明らかに家内の方が仕事量が多いです。職場においても現在は小生が病院内では給料が同じなのに他の医師よりも仕事も売り上げも多いと思いますが、かつて研究医をしていた時は誰かが私の分医療を沢山行なっていてくれたから研究に専念することができた訳です。

 

「何でも一人でできる」というのは必ずしも理想的な生き方ではない、「他人に頼って生きることができる」方が実は強いのだ、つまり曹操よりも劉備のような生き方の方が強いというのも氏の主張の中に出てきます。身近な話題ですが、つい先日7時間にわたる膀胱全摘の手術を行ないました。数年前ならば8−9時間の手術でも平気で休みなく術者として完遂できていたのですが、先日は4時間を過ぎたあたりでへばってしまい、若手が外来を終わって手伝いに来てくれるのを見越して、手術着を着たまま座って休憩してしまいました。途中尿管に癌が浸潤していたので数回病理に迅速の検体を提出して尿管がどんどん短くなる試練とか、思わぬ所で出血をする試練とか疲れる要素は沢山あったのですが、「改めて年齢を感じる」結果に我ながら唖然としてしまいました。そんな時にこの本の題名を思い出して、無理せず「疲れたからしばらく術者を代わってくれ」と正直に弱みを見せるのも実は人間としての強みかも知れないと思い直した次第。勿論手術は無事終了して結果は良好、チームとして良い成績を出せれば個人として弱い所があってもそれでよいのではないかとこの本から学んだように思いました。

 

この本には「手術で疲れたら休んで良い」などとは一言も書いてないのですが、次にブログに取り上げようと思うEUとグローバリズム市場の問題については単行本が出されたのが2008年であるにもかかわらず間接的に触れられています。つまり社会の歴史に基づく考え方と市場の利益中心の考え方が会わない場合が多々あり、個の利益や独自性の追及が市場のや利益の拡大には有用だが豊かな成熟した社会の維持を困難にさせている例を種々紹介しています。

 

社会を維持するために損得を考えずオーバーアチーブメントする(滅私奉公するとも言える)ことは個人の引きだしを多くすることでもあり、個の拡大にもつながります。クレーマーが拳を振り上げて「責任者出てこい!」と言ったときに「私が責任を持って社会を維持している者ですが何か?」と堂々と言えることがいかに素晴らしいか。当たり前すぎて普段活字にはならない内容かもしれませんが、実に大事な事だと思いました。

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