rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

面倒を避ける事が決断の根拠である日本社会はTPP後負け続けるしかない

2013-02-24 17:41:13 | 政治

TPP「車は例外」と米 日本車の関税維持で交渉入りへ(朝日新聞) - goo ニュース

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先の衆議院選挙では自民が勝っても民主が勝っても最終的には「政府の専任事項としてTPPに参加する」と霞ヶ関が決めていたのですから、今回の決定は出来レースの感が否めません。「交渉に参加してみないと日本にとって良い物かどうか解らないし、交渉の時点で国益が守れるように頑張れば良い。」などという意見を平気で言う人達がいますが、普段「面倒な事は極力避けている人たち」が良くそのような歯が浮くような台詞が言えるものだと呆れます。

 

日本においては倫理的な善悪の判断基準は「自分の属する集団(家、町、会社、国、或は世界でも)に利益があるかどうか」で決まります。属する集団の範囲をどこに定めるかで見解の相違がでるかもしれませんが、結果としてどこの利益かが異なるにすぎない違いです。この善悪の判断は、場合によっては論理的には間違っていても善であるという判定がなされることが多々あります(筋論から外れるけどここは丸く納めるためにこうしよう、と言った事は毎日行われているはず)。また「交渉で利益を得る」事は「倫理的にも善を勝ち取る」事を意味しますから、状況によっては相手に一歩譲って相手に利益を与える事で相手の倫理的な善をも考慮するということも日常的に行われています。

 

一方で一神教社会では倫理的な善悪の判断は神との契約に反するかどうかで決まるのであり、利益になるかどうかはrational(論理的に正しい)か否かに関わるのみで倫理的な善悪には関係ありません。だからgood or evilで表現されたaxis of evil「悪の枢軸」という表現は日本語だと「悪代官とつるんだ三河屋」的な印象しか伝わりませんが、英語圏の人にとっては「利益になるかどうかを超えて叩き潰さねばならない倫理的な悪(例え本当の目的が経済的利益であっても)」という強い意味になって胸に刻み込まれることになります。

だから一神教の人達は、神との契約に関する善悪については言い争うことを避けますが、rationalかどうかを決めることについては倫理的な葛藤を考慮しないでいくらでも討論できます。勿論彼らにとっても自分たちの利益は優先されますから、論理的に利益を勝ち取るよう討論することは何ら倫理的な感情を伴わないでできるというメリットがあるのです。

 

日本では、もう一つ自分たちの利益になるか否かはっきりしない場合の物事を決める判断基準として「面倒事を避ける」という基準があります。これは「空気を読む」という事と同義であり、「和を重んずる事」や「阿吽の呼吸」ともつながる日本独特のエトスと言えます。この最先端を行くのがマスコミであり、論理的に正しいかどうかよりも政府からのクレーム、官僚からのクレーム、スポンサーからのクレーム、大手広告代理店の偉いさんの言葉、大手芸能プロダクションの意向、強気に出る外国政府などには全て「面倒事を避ける」方向で番組が作られます(テレビ番組の半分を占めるお笑い芸人の身内ネタ&クイズ番組が一番安心ということ)。

 

日本人のもう一つの弱点に、規則に弱い事が上げられます。日本人は「規則に違反する」ことに倫理的な罪悪感を持ちます。それは遵法精神としては大変良い事であって、電車に乗るにも整列して乗るくらいですから、日本社会が整然として秩序立っている根拠とも言えます。しかしTPPに加入して、様々な非日本的な欧米基準の決まり事を押し付けられた時、面倒事を避ける日本人は必ず徹底的に抵抗したりせず、相手の顔を立てて受け入れてしまうでしょう。そして規則化されるとそれを守らない事は倫理的にも悪という事になり、結局守らされてしまいます。コンプライアンスの遵守を「事後チェックの充実」と訳さずに「法令の遵守」と訳してしまうのですから、欧米人にとって日本人は何とも従順な人達に見える事でしょう。

 

欧米人にとっては引力の法則とか太陽が東から昇るといった科学の法則と同様に自然権などの神の法に値するものは倫理的にも守らなければいけませんが、人間界の中での決まり事はrationalであれば守れば良いのであって、対立する規則はどちらがよりrationalかを徹底的に討論して決めれば良いという程度のものに過ぎません。車がこなければ赤信号でも堂々と渡るのが欧米の考え方です。最近モンテスキューの「法の精神」やホッブズの「リヴァイアサン」の原典を読んで感ずるのは「本来人間は他人を殺すことさえも自由なのだ」という日本人には馴染みにくい徹底した自由の考え方です。「武器で脅して書かせた誓約書も誓約したからには守らねばならない」という考え方は宗教的にはどうなの?と思ってしまうのですが、どうも人間界の揉め事は神は関与しないという前提で「神の法」以外の「王の法」を決めて良い事になっているようで、だから相手を人間と認めなければ「奴隷の売り買いもOK」だし、理屈が通れば「間違って人を撃ち殺しても許される」というのが欧米社会なのだと理解できます。

 

交渉事の全てに倫理観や相手への思いやりを考えてしまい、できることならそのような面倒事を避けて毎日を過ごしたい日本社会がTPPに入って本当に幸せになるでしょうか。「今断るのが面倒だから取りあえず入ることにしておきましょう」というのが参加の理由であるならば今面倒でも論理的に徹底的に議論をして「政府に最終的にはお任せ」などにせず、参議院選挙で争点にして決着を出すくらいの考えを持っておくべきだと思います。

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心筋梗塞患者の6割以上はコレステロール値が正常である

2013-02-21 18:49:39 | 医療

昨日大学教授に昇任した同級生の講演を聞く機会がありました。循環器疾患の権威になっていて活躍しているのですが、普段自分が扱っている専門分野と異なる最新の話題について話を聞くのも刺激になってしかも不十分にしか理解できていなかった所が理解できて「目から鱗」の状態になった部分もあり、良い経験でした。以下に備忘録として記しておきます。

 

新しい虚血性心疾患の一次予防のガイドラインにおける高脂血症の扱いについて、高LDL(悪玉)コレステロール、低HDL(善玉)コレステロール、高中性脂肪が心筋梗塞などの危険因子であり、この状態の患者さんの脂質異常をスタチン製剤などで改善することが、心筋梗塞の予防に重要であることは間違いないのですが、脂質異常症の患者が0になっても心筋梗塞患者が0になることはない。なぜなら心筋梗塞患者の6割以上はコレステロール正常だから。一度梗塞になった患者さんの最梗塞を予防する(二次予防)場合においても、脂質異常の改善は最梗塞の頻度は下げるけれども0にはしない、という部分が問題になります。

 

脂質異常の人が梗塞を起こす確率は、正常の人よりも高いことは間違いないのですが、圧倒的多数を占める脂質異常のない心筋梗塞患者をいかに一次予防するかについて有効な手段が今の所示されていないことが大きな問題となります。多数の正常な人達の中から、近い将来心筋梗塞になる人をいかに手間と金をかけずに有効に見つけ出すか、その検査は何かということが現在の最大の課題、ということでした。

 

心筋梗塞をおこすリスクは脂質異常だけではなく、高血圧や糖尿病、年齢など様々な因子が複合してあるのですが、これらが組合わさった高リスクの人達の発症をいかに抑えるかについては世界中で科学的データに基づく実証的研究が既になされていて、莫大な医療費が使われ、それなりに効果もあがっているのは事実なのですが、実数ではリスクが低いとされる正常者達が患者の半数以上を占めていることから、一次予防というのが未だ不完全な医療であることが露呈されるのです。つまり発症率はずっと少ないながら、莫大な数の正常者群から、いかに心筋梗塞を起こす人を事前に拾い上げて予防するかの方策が立たなければ、「これをしていれば安心です」と一般の人に説明することができない、莫大な医療費を使ってリスクの高い人の発症を一部抑えたところで、大多数の心筋梗塞患者はその予防医療とは関係なく発症してくるという現実が残ってしまうことになるのです。

 

私は医学生のような質問をして「そもそも心筋梗塞は動脈硬化がないと起こらないものか」という初歩的質問をしてしまったのですが、「動脈硬化」という言葉の定義も難しいということで、血管にできたプラックに何らかの機序で血栓が詰まって梗塞がおきるのだからプラックが僅かでもできている状態を動脈硬化と言ってしまえばそうなる、しかし一般的に動脈硬化指数などと言っているものはもっと大まかな病理解剖学的な組織の状態を反映しているので、その意味では検査にかからない正常な人が沢山いることになる、という説明。そういわれれば納得できますね。

 

このような話は専門家の間ではわざわざ話題にしなくても分かっている事実なのでしょうが、門外漢の我々他科の医師にとっては新鮮な話題であって、あれだけ脂質異常の薬が氾濫して大変効果があると毎日聞かされていると、いずれは急性心筋梗塞の発症はなくなるのではないかと勘違いしてしまい、血管の治療や手術もいずれは必要なくなる医療かと勘違いしてしまうところでした。それは泌尿器科医にとって80歳代の早期前立腺癌は治療などしないで放置していてよい事が常識であっても、他科の医師には理解されていないのと同じ事かもしれません。まして医師でない一般の人達にとっては「どこまでが有効な医療か」を判断することはかなり難しいと思います。

 

自分にとって必要な医療は何かを決めてもらうのは信頼できる医師を見つけて頼る以外はないと思います。「今現在苦しい状態を治してほしい」という急性期医療については迷うことはないと思いますが、「予防医療を受けるかどうか」については、「自分はどう生きたいか」というポリシーを持っていないとその医療が自分にとって有用かどうかの判断がつきにくくなることは間違いないでしょう。

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プロテスタンティズムの倫理と五箇条の御誓文

2013-02-20 17:15:55 | 社会

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は社会学者のマックス・ウエーバー(1864−1920)が亡くなる直前に集大成されて世に出された氏の代表作で20世紀の世界の動きの中心となる資本主義が繁栄する源になった宗教的背景と資本主義が発展した先にあるものについて警鐘を鳴らした書として有名です。この書も翻訳本であってもなかなかの大部であり、原著を読破するのは大変なので、私は解説本で要領よく内容把握をしてしまったのですが、それには光文社新書516 牧野雅彦 著 —新書で名著をものにするー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」2011年刊 が読みやすく、また原著のみならず、この論文に影響を与えたマルクスの資本論やニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」などとの関連も解説されていて有用でした。

 

手短かにまとめると、資本主義が発達した背景にはプロテスタンティズムに基づく禁欲的な勤労習慣の広まりが必要であり、神への奉仕として禁欲的に労働を続ける(天職の思想)によって労働の対価としての資本が蓄積されて資本主義の発達につながったのだ、というものです。さらには、資本主義が発達した先には宗教的な勤労奉仕の理念が消失し、確立した経済秩序がむしろ人間の生き方を決定づける「鉄の檻(殻)」の中に人々を閉じ込めることになるのではないか、と警鐘を鳴らします。そして物欲に支配されて鉄の檻の中で暮らすようになる人々は「精神なき専門人、心情なき享楽人」として生きる無価値な人間にすぎない存在に成り果てるのではないか、と予想するのです。

 

拝金主義に支配された現在の世界経済や、震災後に露になった「既存の社会構造の変革を拒否する日本の現状」を顧みるに、ウエーバーの予想どおり「精神なき専門人、心情なき享楽人」に成り果てた現代人を見る事になるのです。

 

マルクスによれば労働の対価としての価値の「余剰」は搾取の対象となり、その結果として発達する資本主義は疎外の原因となるから「破壊するべきもの」となって、人間本来の生き方は「類的存在」に求められる、ということになりそうですが、概念としては何となく分かるものの、現実にこれを実行する試みは歴史的事実として全てうまくゆかなかったという事でしょう。

また「精神なき専門人、心情なき享楽人」はニーチェの言う「末人」に相当する存在と思われますが、ニーチェは末人からの脱却には神に頼らず自己で道を切り開く「超人」になることを「ツアラトゥストラ」で説きますが、これまた気持ちの上では何となく分かるものの、現実社会ではどうすれば良いか何とも言えません。

 

ウエーバーは具体的にどうしろという指示を文章では示していないのですが、ある程度「鉄の檻(殻)」での生活を仕方のない物として認めつつも、「天職」というプロテスタンティズムに基づく勤労の精神を忘れず持ち続け、欲に支配されずに働く事が大事であると当時の若者達に説いていた、と記録されており、これは人間味のある実行可能な示唆ではないかと私は感じます。

 

プロテスタンティズムの言う、勤労を「大地を管理することを任された人間の神への奉仕」と捉えることとは異なりますが、勤労を我欲の達成のための手段と捉えず、社会を成り立たせるための奉仕の一部とする考え方は、伝統的な日本の労働に対するとらえ方に通じるものがあります。明治維新において、日本社会のありかた、日本人の生き方として明治天皇が示された「五箇条の御誓文(図)」は、終戦後に昭和天皇が「人間宣言」において占領軍の許可を得て引用したとされることからも、日本人や日本社会の伝統に違和感を抱かせない内容なのだと思います。その中で3項目の「それぞれの立場の国民が、その本文を存分に尽くして志を遂げることができる事が良い」というあたりは、日本社会の伝統的な労働に対する考え方を示しているのではないでしょうか。以前拙ブログで日本の平等社会は滅私奉公のおかげで成り立っていたのではないかと指摘しましたが、田中良紹氏の記事にもあるようにバブル前の新入社員と社長の給与差が10倍しかない日本社会が高度成長期において多くの中間層を育てて、一億総中流という共産中国ではなし得なかった豊かな社会を築く事ができたのだと思います。私は日本人の伝統的な勤労意識というのはいろいろと批判されたりもしましたが、結局世界の模範になる素晴らしいものなのではないかと考えます。

(五箇条の御誓文ー静岡県教育委員会のwebから)

 

超人は無理としても生きる価値のない「末人」に我々は成り果てるべきではないし、疎外を逃れた類的存在に近づく方策として、社会のために勤労するという日本の伝統的勤労の概念はこれからの日本人の生き方として見直してみるべきではないかと思います。また前のブログで考察した「帝国」を管理するリヴァイアサンのヒントもそのあたりにあるのではないかと愚考します。

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自衛隊は合憲である

2013-02-08 19:19:33 | 政治

相変わらず尖閣問題を大きくしようという売国奴達がマスコミ上で後を絶たない。一説では穏健な意見を言う識者は避けられ、「日本は絶対に譲ってはいけない。」『武力衝突がおこる」といった意見を言う識者をマスコミがえり好みしているとも言われています。

 

第二次大戦に日本を巻き込んだのは戦前のマスコミが主犯であり、軍部の好戦派がそれを利用し対立する穏健派を黙らせていったという見方もあり、本来ならば戦後マスコミは自らの戦争責任を真っ先に認め、軍部の責任を追求する前にまず国民に謝罪しなければならなかったはずです。そして戦後ジャーナリズムの禄を食む者は、経済的に干される事になっても日本を戦争に巻き込む方向に意図的に報道するような事は絶対にしない、と誓っていなければもうその存在価値すらないと言い切って良いでしょう。

 

世界の常識から考えれば尖閣に紛争があることは既に規定の事実であって、それを日中国交回復にあたって「棚上げ」にしたことは日中間の公式な取り決めとして報道もされ残っているのですから「再度棚上げにする」以外現在の状態を穏便に収拾する方法はないことは明らかです。「一歩も引いては行けない。」的な事を言う識者ずれは自分で尖閣に行ってそこで中国があきらめるまで5年でも10年でも旗を降り続けていれば良いのです(そのような根性はないでしょう)。そんな人も棚上げになって誰も振り向かなくなったらさっさと本土に引き上げてくるのでしょうか。

 

私が以前から主張しているように、軍隊というのは「ある政治的な目的を達するための一手段として限定的に目標や終点を定めて用いる」のが正しい使い方であって、軍事力はあくまで経済力や外交交渉を含めた様々な国家戦略の一部と位置づけられるのが世界の常識(ワールドバリュー)です。中世以降のヨーロッパ列強はそのようにして外交戦略を繰り広げてきたのですし、中国においても戦国時代からずっと群雄割拠した国々はそのように軍隊を使ってきました。そこには「ほどほどに勝ち、ほどほどに負ける」という思想があり、軍の運用においても全滅するまで戦うなどという戦術はありえないものでした。

 

翻って、近代日本における戦争は、第一次大戦やシベリア出兵などの歴史で重きをおかれていない戦争を除いて、日清・日露・太平洋戦争にいたる全ての戦争は「自衛のための国家存亡をかけた戦い」と位置づけられ、実際国を挙げて「負けたらおしまい」という覚悟で戦われてきました。日本人の当時の立場から考えるとそれも頷ける状況であったとも言えるのですが、外国から見た場合はそのようには決して見えず、国外へ進出して自国の版図を増やした戦争にしか見えなかったはずです。だって日本固有の領土が侵略されて戦争になった訳ではなかったのですから。

 

従って戦後占領国のアメリカが立案して作られた日本国憲法の9条に

  • 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  • 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 

とあるのも、ワールドバリューである彼らの常識から考える軍隊の使われ方、「政治的な紛争を解決する一手段としての戦争」を日本はしてはいけません、という意味で作られたものであって、戦後長らく日本における常識として語られてきた「自衛のための戦争もいけないのだ」という意味ではないというのがワールドバリューと言えます。

 

日本は客観的に見れば侵略戦争にすぎない戦争も全て「自衛のため」と信じて戦争をしてきたから国際紛争を解決する手段としての軍隊の使用という発想ができないのは致し方ないのですが、現在の日本国憲法においても自衛のための軍隊である自衛隊が極めて限定された形で運用される事は合憲である事はワールドバリューからは言えるのです(日本的な価値観からは否定する人も多いとは思いますが)。

 

私などは若い頃「自衛隊は合憲」と思っていましたが(法曹界の憲法学においても非常に少数派ではあるが学問的に合憲とする見方はあると講義でも習いました)、そのような事を言えば「国粋主義者」とか「軍国主義者」などと変人扱いされたものでした。確かに多くの戦争が「自衛のため」と称して始められた事も事実なのですが、客観的に自衛か否かは行っている本人も含めてだいたい分かっているのが普通であって、第二次大戦の開始時におけるポーランドの状態は侵略者ドイツやソ連に対して自衛のために戦った事は明らかで「武力で対抗したポーランドはけしからん」などという人はいないでしょう。英国においても、初戦における英国上空の戦い「バトルオブブリテン」がその後のベルリン攻防戦などすでにドイツに対する侵略に変わってしまった戦いとは別格の「栄誉」で語り継がれているのはそれが「純粋な自衛のための戦いを勝ち抜いた」からに他なりません。

 

自衛のための戦いを放棄するというのはワールドバリューではありえない自然権の放棄であって、いくら戦争を起こした敵国条項にあたる国であっても世界は日本にそのような事は求めてはいないのです。そうではなくて、「政治的な国際紛争を解決する一手段としての戦争を日本はしないでくれ」「戦争という手段を用いない平和的手段を愛する諸国民の信義」に基づいて諸問題は解決してくれ、というのが憲法の前文を含む日本国憲法に託された占領国の日本への枷であったのです。

 

私は日本国憲法を変える必要はないと考えています。9条も大変良くできた内容であるし、自衛隊も自信を持って胸を張って憲法の堅持を詠ってよろしい。9条を変えるという事はワールドバリューから見ると「政治的な紛争を解決する手段の中に戦争を加える」という事に等しいことです。そして尖閣の問題は客観的に見れば国際紛争の一部であって、そこに自衛隊を使うということは「紛争を解決する手段としての軍の使用」にあたります。「領土問題は存在せず」という立場に固執する人達は、中国が侵略したら自衛のための戦争として自衛隊を繰り出すことができるよう「合法性」を求めているにすぎないのです。専守防衛という自衛隊のありかたは、軍隊の使われ方としては特別な物になりますが、私はそれでよいと思いますし、自衛官の殆どは「国土を守る」ためならば命を賭ける、という気概で働いている事は間違いありません。政治問題を解決する手段として使われるのはたまらない、と自衛官諸氏は考えているのではないでしょうか。

 

自衛のための戦争は常に「国家存亡」にかかわるものであって、「ほどほどに勝つ、ほどほどに負ける」という発想を許しません。だから日中戦争をあおる人達は「中国がミサイルで日本本土を狙う」とか「原爆の使用も辞さないはず」とか言い出しますし、それを機に米中も戦争に入るなどと言います。全く困った物です。

 

中国からは「日中はとても戦争になるような状況ではない」というしごく当然な反応も見られていますが、ゴールデンタイムのニュースなど見ていても「中国側の冷静な対応が望まれる」などと悪いのは相手だといわんばかりのコメントばかり聞こえてきます。領空侵犯だのレーダー照射などは自衛隊の中にいればソ連との冷戦時代からお互いに「お手並み拝見」的な意味で行われていたものでことさら騒ぎ立てるようなものではないと専門家なら分かっているはずです。自衛隊の潜水艦がソ連の領内にこっそり入って戻ってくるくらいの事は当時から行われていましたし、相手もある程度分かっていて、探知能力を知られてはまずいので黙って見逃すといった芸当は普通に行っていた事です。

 

今こそ日本は日本国憲法の精神に戻って尖閣を含む全ての問題に真摯に向き合うべきではないでしょうか。似非軍事専門家、インチキ国際問題専門家に惑わされない見識、リテラシー(情報を正しく判断活用する能力)を我々は持つべきです。

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民主党政権の総括

2013-02-06 20:31:49 | 政治

戦後体制において初めての本格的政権交代となった昨年までの民主党政権についての総括は種々の所で行われていると思われますが、その多くはマイナス点に大きく傾くものとなることは日本人全てのほぼ一致した見解と思います。鳩山・小沢を中心とした政権前期と菅・野田らによる政権後期に大きく分かれますが、私は前期については政権を追い落とそうと企む不自然で執拗なマスコミと米国CIAの下部組織でありながら日本人の税金で給料を得ている地検特捜部の「政治と金」の攻撃があり、気の毒に思いましたが、後半については地震の影響もあるとはいえ、あまりにも情けない政権運営に点数を付ける気にもなれません。

 

私はどんなに妨害工作があっても民主党首脳部が国民の付託によって選ばれた鳩山・小沢体制を死守堅持して頑張り続けていたらと思う事がしばしばです。じっと始めの体制を維持できれば霞ヶ関の官僚も根負けして最後には従うでしょうし(予算が成立しなくなって一番困るのは官僚ですからサボタージュにも限界があり、その辺も折り込み済みで小沢氏は行動していたはず)、アメリカも副大統領のバイデン氏や保守派の一部と十分共闘して普天間基地をグアムなりサイパンなりへ移設することで粘り抜いていれば、基本的に下記ニュースにあるようにアメリカは「兵を国内へ撤退」の方針なのですから異なった結果が出たはずなのです。要は管、野田、前原らの民主政治を無視した自己利権のみを考えた売国クーデターが民主党政権失敗の原因だと考えています。選挙による国民の選択だけが意味のある民意の選択であって、当時マスコミが頻繁に行っていたインチキな捏造世論調査など自信を持って無視しておけばよかったのです。

(日経引用)

在沖縄海兵隊のグアム移転費を復活 米議会合意 
2年ぶり計上へ

2012/12/19 10:31

 【ワシントン=芦塚智子】米上下両院の軍事委員会は18日、2013会計年度(12年10月~13年9月)国防権限法案で、在沖縄海兵隊のグアム移転関連費の計上を承認することで合意した。12会計年度は全額削除しており、2年ぶりに復活することになる。

(以下略)

 

当時日中の貿易額は双方ともに米国との貿易額を抜いて最大の貿易相手国になっており、2012年からは貿易決済はドルでなく双方の通貨で行うようにしようという合意もなされていました。この状況を最も不快に思っていたのは基軸通貨としての価値が下がる米国であり、海保船激突問題では何とか穏便に対応し小康状態になっていた状況を売国奴の石原らを使って現在のどうしようもない日中関係にまで悪化させた米国の手腕は敵ながらあっぱれとしか言いようがありません。

 

民主党政権は外国人参政権やら、人権保護法案やら危なっかしい法案を通す危険性もあった事は確かですが、発足当時は国民新党の亀井氏が入閣してましたから、ぎりぎりの所で大丈夫だったと思います。後半に至ってはその亀井氏も追い出され、国際関係、経済、国政も全て危うい方向に向かっていたのですから、自爆テロ解散をしてくれたことは、ずっと継続されるよりはましだったようにも思います。

 

さて、とある医師会系雑誌に、民主党のブレーンとして「生活が第一」などのスローガンを提唱した北海道大学法学部教授の山口二郎氏の「民主党政権の総括」に相当する講演要旨が載っていました。以下に私なりにそれを簡略にまとめて紹介します。

 

1)      民主党はルールに基づいた中負担中福祉を求めた。

北欧などの高負担・高福祉、アメリカの低負担・低福祉で自己責任中心を両極端とすると、日本は中負担中福祉にならざるを得ないが、自民党が官僚や政治家による裁量的な福祉の中身を決定してきた事に対して、民主党は透明性のあるルールに基づく福祉の決定を目指した。結果的に利権を失う人が増えて、高校無償化や子供手当のように誰にでも分かりやすい内容にしたことで「バラマキ」という批判が出た。しかし恣意的な裁量による福祉の決定よりもよほど良かったはずである(官僚や政治家の裁量を経ないで金が国民に渡る福祉は不評という事)。

 

2)      経済は横ばい、失業率はやや改善したが、格差は拡大した。

図に示すように、21世紀に入ってから企業の収益は上がっているのに、雇用者報酬は下降していて、年齢別の生活保護基準未満の所得の人の割合も、1993年に比べて若年者と中年者で増加している(これは民主党政権前までの状況ですが)。rakitarouが追加した図を加えると、民主党政権内において就業者数は横ばいながら完全失業率はやや低下(昨年また上昇しましたが)。雇用の内訳としては製造・建設従事者が減り続けて、医療福祉、販売が継続して増加しています。

生活保護基準未満の所得の人の割合(1994年と2004年の比較)左軸は%を示す。

 

3)      安定財源の確保には失敗した

事業仕分けなるものもショーとしての意味以上の効果はなく、経済停滞の中で増税を求めた時点で国民からそっぽを向かれてしまった。官僚的思考(はじめに枠ありきで枠からはみ出るものは切り捨てる思考法ーこれを氏はギリシャ神話のプロクラテスのベッドを例に説明していますが割愛)という発想に取り込まれたのが結果的に官僚の言いなりの施政になった。

 

4)      今後の日本のありかたについて

21世紀中頃の日本のあり方を見据えて制度を作って行かないといけない。国家、政府というのは国民のためにあるのであって、自己責任では対処できない大きなリスクに対応するため、また放っておくと強者が勝ち抜き弱者が淘汰されてしまう現実(米国の所得全体のうち上位1%の人がどれだけを占めるかの図参照、大恐慌前も現在とほぼ同じ状態であり、この後の世界の展開を考えれば現在の資本主義経済のあり方が誤りであることが明瞭)を是正し、富を再分配するため、そして市場において金で売り買いできる物と売買の対象にならないものの線引きをしっかりする、宇沢弘文氏の提唱する社会共通資本の領域を守るために、国家や政府が存在することを認識する必要がある。議論は省略し、独裁的なリーダーに決断は白紙委任し、国家は国民のためにあるのではなく、国民が国家にいかに奉仕するかが問題、というような政党(どこの党の主張かは明確ですが)が政権を摂る事が決してあってはならない。

 

—      以上 — 

私は4の日本のありかたについては全く同意見ですね。

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