橋下大阪市長の慰安婦についての発言が国際的に問題になっています。日本国内においては一部のエキセントリックなレトロ左翼の人達による「意図的に曲解して女性蔑視につなげよう」とする無理筋な批判を除いては、橋下氏の発言について「常識的な内容だけど、立場上敢えて今言わなくてもよかったのに」くらいに捉えている人が多い(自分も含めて)と思います。
しかし米国のメディア報道や政府報道官の発言は、普通の理性的、合理的思考を超えた「この問題はこう解釈しないといけない」的な、例えばユダヤホロコースト問題は「ナチスによる600万人の虐殺」という解釈以外は受け付けない、といった事と同様の「かたくなさ」を感じさせるものです。「アメリカだって戦後日本に慰安婦を求めたでしょ。」とか「沖縄の米兵の状態はどうよ。」といった議論は受け付けず、普段rationalであることを他人に強制して、アジア的慣例みたいなものを散々蔑んでいるのにどういうこと?と思う人は多いのではないでしょうか。
911に際してブッシュ大統領が「悪の枢軸(axis of evil)」とイラクなど戦争しようとする相手を単なる善悪を超えた倫理的悪の意味を含めた表現を用いたのは、戦争が合理的な思考に基づいて、国益の増進に貢献するかどうかの判断ではなく、神との契約で問題となる倫理的善悪の問題として許せない相手を懲罰するためのものである、という意味があると以前指摘しました。合理的判断に基づく戦争であれば、国益にそぐわないものは行わなければ良いのですが、倫理観に基づく戦争は「絶対にやらねばならない」戦争であり、相手は徹底的に叩かねばならない(相手の人権を無視してでも)ものである事を意味します。だから相手がテロリストであればボストン爆破事件の容疑者もミランダ法の適応を除外しても良いし、テロの容疑者はグアンタナモで拷問を行っても良いことになってしまうのです。
そして今回改めて感じたのは、米国にとって第二次大戦(特に対日戦争)は倫理的な悪(ファシズムに基づきアジアを侵略し、アメリカを真珠湾でだまし討ちにした日本)に対する正義の戦争であった、というスタンスを絶対に崩したくない、という強い決意です。そこには合理的で総合的、立場を置き換えた判断とか再検証といったものはしない、つまりratioで考えることはしない、という「かたくなさ」があるという事です。だから日本に原爆を落とした事も許されるし、戦後日本を支配し、社会構造改革(憲法を含めて)を行ったのは倫理的な善行なのである、という公的な政治上のスタンスは絶対に変えないのだと思います。
合理性(rational)に基づいて判断される問題においては、話し合いや法的論争で譲歩をすることもあるのでしょうが、「神との契約に通じる倫理観」に基づく判断はそれが非合理的であっても譲歩はしないというのが彼らのエトスなのだと思います。逆に言うと、譲歩したくない事柄は「これは倫理的な善悪に基づく決断だから」と言ってしまえば合理性はどうであっても譲歩しなくてよい、という極めて都合が良い理屈になっているのです。一方で通商交渉のような法に基づく事案では「理不尽でも合法であれば正しい」として法の遵守(コンプライアンス)を求めてくるのですからたまりません。
先日韓国の新聞で「日本への原爆投下は神罰」という記事が出てさすがに日本国内のメディアも非常識だとして批難し話題になりましたが、意外と米国では違和感なく受け入れられる意見なのかも知れません。それは対日戦争が「テロとの戦い」と同様に「倫理観に基づく正義の戦争」と定義されているからです。パク大統領がアメリカに行って反日を語るのも、今回の中央日報の記事も米国の日本に対するエトスを理解しての所業と思われます。そのあたりを理解して日本も反撃を試みないと「論理的にきちんと説明し論破すれば良い」では済まないように思います。彼らにとって一番困るのは「倫理観に基づく正義の戦争」という定義を崩される事です。そこを突かない限り何も変わらないでしょう。