週刊現代5/2・9号 p.173に、安藤和津さんが「母の介護をしながらつくづく、命が途絶えることだけが死なのではなく、それまで積み上げてきた日常が送れなくなった時点で、ある意味、人間としての死だと捉えるようになりました。自分が思うように生きられないなら、肉体は生きていてもそれは心の死だと思うんです」と話した とある。
配偶者に先立たれてから子供をあてにしないという記事の中であり、安藤さんが「捉える」こと、「思う」ことである。多分にあなたもワタシモそう「思う」。思うことは勝手である。
「生きていても心の死」
認知症といま呼ばれているひとたちの「症状」を、自閉性知的障害者(正規名称ではありませんよくわかっていない証拠です)のその障害とされる「様子」とおなじものだとワタシは同時に思う。
「自分が思うように生きられないなら」
彼らは自分が思うように生きている。
あなたやワタシニわからなくても。
多分にあなたもワタシモそう「思う」
と書いたとおり なんて書くなよですね
認知症夫婦の微笑ましい二人暮らしと
たれ流しの一人暮らしまでさまざまな
個体差を言ってしまえば切りはなくて
いま障害者ガイドヘルプの仕事は激減
思うことを書くどころか何も湧かない
天井を見上げてもそこには年輪がない
頭がさらに鈍り返信しづらい次第ですが、
書き込みはご健勝のシワザ、幸甚に存じます。
この半年のせかい不思議感が点滅しながらそして
生きてます。
”それまで積み上げてきた日常が送れなくなった時点で、ある意味、人間としての死だと”
これって、そうかなと
生まれたときからの、かなりの要介護のこどもにとって、積み上げた人生というより、積上げされたかもしれない人生もあるかもと思うと、日常がおくれなくなっても、生きているだけでも、手足は動かなくとも脳内の生活はあるかも、たとえ、脳死のとき、誰が脳以外で思考ができないといえようかと思ったりします。
ミクロの細胞は生きていれば、その最低の部分以上で生きているのかも。
マクロで観るなら、それは、全体としての死かもしれない。
そんな、今日このごろ。