京都文化博物館
明智光秀と戦国京都
期間:6月20日(土)~8月16日(日)
大内義興像
馬に跨り、長鍬形兜に甲冑を着用した大内義興像の模本で原本は残っていない。
上部に永正八年十月の年紀をもつ相国寺の景徐周麟の賛が施されている。
永正八年(1511)八月、足利義稙方の細川高国・大内義興と足利義澄方の細川澄元との間で起きた船岡山合戦で勝利した大内義興が記念として描かせた。
足利義輝泰山府君祭都状案(弘治三年七月)
黄紙に朱で記された祭文。足利義輝が大地震などの天変地異を受けて儀式を行った時のもので、願主として文中の名前(義輝)を墨書で自著している。
当時、義輝は三好氏に敗れ近江国朽木に滞在を余儀なくされていた。
その為か、祈願の文言には天下泰平・子孫繁栄に加えて怨敵の退治、武運長久も祈願しており、三好長慶との対立の根深さがうかがえる。
松永久秀書状
(永禄六年)四月十一日付、東寺宛。落雷により五重塔が炎上した東寺への見舞いの書状。
傍若無人なイメージの久秀だが、仏教勢力とも友好関係を築き協力することもあったようだ。
タイトルに「明智光秀」とありますが、それ以前の三好氏の台頭、活躍から紹介されており、あまり光秀色は濃くない印象でした。
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