アメリカを語るとき、黒人奴隷制度の歴史を抜きには語れません。
アメリカにおける自由国民と不自由国民
一九年夏、ヴァージニアのジェームズタウンで、二つの事件が起こった。 一つはイギリス領アメリカの最初の植民地議会が招集されたことである。 これはアメリカにおける自由と民主主義の起源となる事件だった。
もう一つは、一隻のオランダ船がやって来て、二十人の黒人を売却したことである。
アメリカにおける自由の起源と不自由の起源とが、同じ時と同じ場所に重なったことは、意味深長な偶然だろうか。 その後も、自由と不不自由との同時存在はアメリカ史を貫いて存続している。
アメリカ独立革命において、全ての人間の平等を謳った独立宣言の起草者トマス・ジェファーソンも、大陸軍総司令官となったジョージ・ワシントンも、一方でヴァージニアの奴隷主だった。
『自由な植民地』が奴隷制度を産み落とした
なぜ、自由と不自由がアメリカで併存したのか。 歴史の浅いアメリカは
封建制度と言う全市を持たず、『自由な植民地』として出発した。 このことは、資本主義の発展を促進する条件となった。
しかし、人が自由で、豊富で安価な土地が存在する『自由な植民地』に展開したのは、不自由な小農民の社会であり、他人のために働く賃金労働者は極めて少なかった。
人々は労働者になるよりも、西部に赴いて自営農民になろうとした。
ヨーロッパ人がアメリカに移住した目的、アメリカ人が西部に赴いた理由は、経済的独立を達成し、『プロレタリア化』を免れることにあったからである。 だから労働力の入手は困難だった。
この問題を解決するための非常手段が、不自由労働力の輸入であった。 封建的束縛から自由だったアメリカが奴隷制度を発展させたのは、まさに植民地の自由な条件にあったのであり、白人の自由と黒人の不自由とは、必然的な因果関係によって結びついていたのである。
北米では先住民の労働力利用が困難である以上、隷属労働力は外部から輸入されなければならなかった。
最初に利用されたのが、白人の年季奉公人だった。しかし、年季があけると彼らは自由人となり、大部分は土地を入手して経済的独立を達成した。したがって、それに代わる労働力が必要となり、黒人奴隷制度が導入されていったのである。
特に南部では、その温暖な気候を利用してヨーロッパでは栽培できない、しかもヨーロッパで需要の大きいタバコ、砂糖、藍、米などの主要商品作物(ステープル・クロップス)を生産する大規模な商業的農業が展開され、黒人奴隷制度がこのような生産体制の労働力を提供した。
これに対して北部は気候条件が冷涼な北西ヨーロッパに類似し、ヨーロッパの欲する農産物を生産する大規模農場制度を発展させず、自由な小農民の多角的な経営が発展し、したがって奴隷制度の本格的展開を見なかった。
ブラック・アフリカの社会
新大陸に奴隷を供給した主な地域は、アフリカ大陸西岸のうちヴェルデ岬からアンゴラにいたる地域であり、とりわけ赤道直下のギニア湾に沿う地帯が最も重要だった。
サハラ砂漠以南のブラック・アフリカは、歴史を欠く原始社会だったのではない。 だいいち、原始人がアメリカに連れて来られても、農業労働者として有能な働きができた筈gない。
アフリカの黒人が奴隷として輸入され始めたのは、彼らがアフリカにおいてかなり高度の社会文化的段階にあったからだった。 広大な西アフリカは多様であり、政治制度をあまり発展させていない狩猟採集民も大勢いたが、だからといって歴史を欠く原始社会が蔽っていたのではなかった。
様々な地域が農業を基盤にして石器時代から金属器(鉄器)時代に移り、牧畜、手工業、鉱山業が起こり、年が生れ、部族制度の上に社会階層制度が形成され、多くの地域に王国が形成されていった。 そして権力の位階制度を発展させ、外征によって支配を拡大し、遠隔地交易を支配して『帝国』を作り上げる場合もあった。
なにより、アメリカに運ばれた黒人奴隷は、白人がアフリカで『捕獲』したものではなかった。 白人は、アフリカ人権力者たちから奴隷を『購入』したのである。
白人がやって来る以前からには奴隷制度が広がっていた。 奴隷とされた圧倒的多数は、戦争による捕虜だったが、捕獲人にさらわれた者、法廷で有罪判決を受けた者、借金や契約の不履行の者も奴隷とされていた。
しかし、奴隷たちは法律上は財産であるが、実際にはかなりの自由を享受しており、『農奴』に似た存在だったと見られちている。 アフリカの奴隷制には、無限の利潤を追求する資本主義的熱狂も、肌の色の相違に基づく人種差別主義もなかった。
アフリカの黒人支配層たちは、ヨーロッパの商品を欲しがった。 たとえば、黄金海岸では武器弾薬、織物、酒類、金属器、金属の延べ板、ビーズなど、百五十種類以上の商品が商われたという。
このように奴隷貿易はヨーロッパ製の安い低品質や子供騙し」のガラクタ
と奴隷との交換ではなかったし、黒人たちは白人たちの言うがままに粗悪品を押し付けられたのでもなかった。
そのような見方は、当時のアフリカ黒人の文化水準に対する蔑視に基づいているというのが、細菌の研究者たちの見解である。
大西洋奴隷貿易
奴隷貿易は、世界資本主義の展開の中で生まれた営利活動だった。まずポルトガル商人が独占したが、十七世紀以降はオランダ、イギリス、フランスの商人たちが大活躍し、たがてイギリスが独占した。
こうして奴隷貿易は、ブラック・アフリカに大きな影響を与えた。 膨大な人口、特に若い男女の労働力の流出、奴隷獲得戦争による荒廃、ヨーロッパ商品の流入による製造業の衰退などが指摘されている。
そこに残された社会はもはや『社会の残骸』だったとか、奴隷交易がアフリカ人から生産意欲を奪い去り、部族相互間の戦いや、掠奪を奨励して、アフリカは『暗黒大陸』になったと説明される場合がある。
奴隷船は、アフリカにトウモロコシ、タピオカ、落花生、カカオなどの栽培植物をもたらし、アフリカ西海岸一帯の食糧事情を少なからず好転させた。
奴隷貿易がもたらした大量の鉄の農具を広範に普及させて農業の生産力を高め、その結果として人口を増加させた。 また、奴隷貿易によってもたらされた大量の武器は、武力を背景とした征服と拡大を不可避にした。
その結果、他の部族との戦争から奴隷が獲得されたのである。
戦争に勝つためには、ヨーロッパ人が持ち込む銃が必要だった。 こうして奴隷貿易は政治的統合が進み、強大化した国家をますます強大にし、弱小集団を犠牲にした。
したがって、ヨーロッパ諸国が支配したのは、沿岸の拠点地域に過ぎなかった。 ブラック・アフリカの南部までヨーロッパ列強によって分割されるのは十九世紀末まで待たねばならない。
しかしいずれにせよ、ブラック・アフリカは近世初頭以来、世界資本主義の周辺部分として編入され、その歴史的歩みを規定されたのである。
奴隷貿易によってもたらされた黒人奴隷の数については、従来の推測では千五百万とか二千万という数字が挙げられ、時には一億以上言った説明さえ見られた。 この問題について最も詳細な統計的研究を行ったアメリカの歴史学者、フィリップ・カーティンは、生きて到着した奴隷の数の合計を約九百六十万人としている。
この中にはアフリカで、また大西洋上の『中間航路』で死んだ者たちは含まれてはいない。
カーティンの調査で驚くべきことは、黒人奴隷たちがどの地域に輸入されたかについての数字である。
アフリカから輸入された奴隷の四割はカリブ海諸島へ、四割がブラジルに運ばれたのであり、イギリス領北米植民地(米国)は四十万人、わずか四%しか占めていない。
我々は近代奴隷制度と言えば、アメリカ合衆国の南部と結びつけてしまうが、実はそれはカリブ海を含めた南北アメリカ大陸全体の精度だったのである。