・ロスチャイルド財閥ー327 アメリカの歴史-5 白人進出以前のアメリカ
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からの続き
アラスカのイヌイットとアレウト
アラスカは南北戦争直後の一八六七年、アメリカがロシアから購入したものである。 日本の四倍以上の面積だが、人口はわずか四十万人しかいない。 そのうち約六万人が先住民である。
内陸部にはアラスカ・インディアンがおり、アレウト列島にはアレウト族がいるが、極北の民、イヌイットの存在がこの州を特徴づけている。
『エスキモー』というのはインディアンの言葉で『生肉を食べる者たち』という意味であるが、彼ら自身は『人間』を意味する『イヌイット』という言葉を用いている。 彼らの数は、現在四万二千人。 氷に閉ざされた過酷極まる環境の下、カリブーなどの狩猟やアザラシなどの漁労で生活するというのが、彼らの本来の姿である。
農業も牧畜も不可能な永久凍土の地域で、われわれの生活とは全く異なる世界である。 一日の境がなく、夜の半年と昼の半年、しかも陸も海の氷と雪という単調な環境の中で、家族が単位となって、近親の親族を基礎とした地位さなバンドが彼らの社会組織である。
植民地時代、白人との接触が始まると、天然痘、麻疹、インフルエンザなどのにより多数のイヌイットが死亡した。そして十九世紀末から、アラスカの資源めがけて白人の経済活動が活発に展開されるようになった。 さらに、第二次世界大戦後の冷戦の中で、アラスカの軍事的重要性が高まり、白人の人口が増えた。
イヌイットの間にも、次第に貨幣経済が浸透し、近代技術の影響が広がった。 彼らも今では漁労や狩猟に、鉄砲やナイロン漁網やモーターを利用している。 缶詰会社や軍関係、建設業の雇用を求めて、都市に移住する者も増えた。
政府の援助で暖房付きの木造家屋が普及し、伝統的な半地下式の芝土の住居はほとんど姿を消した。 食糧も、小麦粉や砂糖、缶詰、野菜が普及するようになった。
今日、彼らは圧倒的な力を持つ白人の管理下にあり、医療や教育の機会を与えられるようになったが、それでも貧しさの中で生きている。 生活様式の急変により、彼らの社会は破壊され、様々な社会的病理、すなわちアルコール中毒、精神障害、自殺、殺人などが蔓延している。 鬱積する精神的不満が重なって、どこにも酔っ払いのイヌイットがいる。
寿命は白人半分。 それは彼らの伝統的社会段階における貧困ではなく、それと近代化が複合して作り出された特別の貧困なのです。 はっきりいうと、借金による新たな奴隷制度であり、ニューヨークやロサンゼルスなどのアメリカの大都会だけでなく、大自然のアラスカでも、倫理・道徳なきアメリカが拡散しているのです。
トランプを見れは、一目瞭然。本来、国民の手本とならなければならない国家のTopである大統領があのザマです。 女性をレイプし、自分で人を恩赦。また、それを喜ぶ阿呆たち。
一方、木々のない荒涼たる霧深い島々、アレウト列島に住む先住民がアレウト族である。 人種的・言語的にイヌイットに類似するが、言葉は通じない。 一九八〇年、センサスで人口一万四千人。 はじめロシアの占領下にあったため、ロシア文化の影響を受けている。
貧困、無気力、差別の中からも、アラスカ先住民の間には、白人による土地奪取に対する抗議の運動、権利回復の運動が展開した。 これを受けて、一九七一年、アラスカ先住民要求解決法が制定された。 アラスカ全土の面積の八分の一について、先住民の土地所有権が法的に確認され、それ以外の土地については、政府が補償することになった。
また、彼らは村落会社の構成員として組織され、その上に地域社会が設置され、これらの組織を通じて政府の『アラスカ先住民基金』の経済的恩恵を受けるという制度ができたのである。
ハワイの歴史
太平洋に浮かぶ楽園、ハワイ諸島は、多くの観光客を引き寄せている。歓迎や別離や愛情を示す言葉『アロハ』、サーフィン、ハワイアン音楽、これらは全て先住民、『ハワイ人』の文化的伝統を反映している。
タヒチやトンガ、サモアなどの人々と同じ東ポリネシア語族に属する彼らの祖先は、今を去る二千年前に、はるか南方の島々から到着していた。 しかし今日、ハワイ語を話せる人はわずかにすぎない。
ハワイが外界と接触するようになったのは、一七七九年ジェームズ・クックがやって来てからである。 大英帝国の形成に大きな役割を演じたこの探検家は」、島民たちとのイザコザで殺害されたが、これ以来ハワイの歴史は大きく変わった。その頃の人口は約三十万人とされているが、クック
探検隊の到着は、ただちに恐るべき病気による死滅をもたらし、人口減少が始まった。 一八九〇年、ハワイの人口はわずか四万人になってしまった。 性病、結核、インフルエンザ、麻疹、天然痘などで、人口は百年間でわずか五%に激減したと主張する研究者すらいるのである。
ハワイが統一国家となっるのはクック到来以後であり、ハワイ王朝の始祖、カメハメハ大王はハワイに来る捕鯨船などから銃火器を入手し、一八一〇年までにハワイ統一を達成した。 しかし欧米人の助けを借りて統一を達成したこの王朝はその後、欧米人に利用されていくことになる。
立憲君主制に基づく憲法が制定され、議会が開かれ、立法・行政・司法の制度が整備され、対外的にも列強からの王朝の承認を獲得したが、島社会が外界に開放されたことは、同時に大災厄をもたらした。
捕鯨と貿易に始まって、欧米人の勢力が着々と拡大し、十九世紀後期には砂糖プランテーションが広がり、土地は蚕食(さんしょく)され、欧米人がハワイ社会を完全に支配するようになった。
ハワイ人には賃金のために働くという観念がなかったから、プランテーションの労働力として日本人や中国人、さらにポルトガル人などの白人が導入され、奴隷にも似た悲惨な労働条件が課せられた。 そして白人間の抗争は、アメリカ人に有利に展開し、アメリカへの併合運動が推進されることになる。
そして、ハワイ王国の最後の王がリリウオカラニ女王である。名曲『アロハ・オエ』の作曲者としても知られる彼女は、ハワイ人のためのハワイを主張し、王位に権力を取り戻すために新憲法を公布しようとしたが、一八九三年アメリカ人は強制的に女王を退位させ、ハワイ王国を滅ぼした。 翌九十四年にはアメリカ人が支配する共和国が樹立され、九十八年(明治三十一年)にはアメリカに併合されてしまうのである。
一八九〇年、ハワイの人口九十九万人のうち、白人系が三十三%、日系二十五%、フィリピン系一四%、中国系六%、朝鮮系二%。 米国で白人が過半数を占めない唯一の州である。
しかし、『ハワイ人』は約十七万人で一八%いるとはいえ、純粋の『ハワイ人』は九千三百人に過ぎず、しかも彼らが多数を占めるのはハワイ中心部の現代経済とはかけ離れた離島の地域でしかないのが現実である。