Anna Louise Strong
アンナ・ルイーズ・ストロング ( 1885年– 1970年)
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1 生い立ち
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0bee76a2186e149983f1bb4760f410dd
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2 スターリンと毛沢東の広告塔
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3cf026605349c36fbd68a6a2bcd0b3e5
からの続き
彼女と周恩来との関係も深かった。 一九四〇年一二月末、五十五歳の彼女は四度目の訪中を果たした。 この頃、周恩来は西安事件(一九三六年)以来の国共合作が蒋介石によってなし崩しになっている(裏切られている)と危惧していた。 周恩来は、重慶を訪れた彼女と数日間にわたって話し込んだ。
周恩来は、過去二年間に渡り蒋介石が共産党敵視政策を取っている、その態度を矯正させるためには米国の『指導』が必要だと彼女に訴えたのである。
「周恩来は、国民党の狙いをくわしく彼女に見せ、二六頁にも及ぶ資料を提供した。 周は、この資料を適当な時期に公開して欲しいとストロングに頼み込んだ。 彼女はそれを引き受けた。 彼女には、周から懇願されること自体が名誉であった」(Global Times)
当時の中国共産党は、可能な限り「偽りの」国共合作を継続し、その軍事力を強化温存したい時期であった。 共産党の底意を知っている蒋介石の動きを牽制できるのは米国だけである。
アンナが院何事変(South Anbui Incident )発生の報を聞いたのは、米国への一時帰国の帰途であった。 四一年一月四日、共産党支配下の新四軍一万弱が案微省で、国民党軍およそ八万により、ほぼ壊滅したのである。 周恩来の用意した蒋介石批判資料の発表の時期を窺うストロングに、マニラから差出人不明の航空便が届いたのは一九四二年二月初めのことである。
そこにはようやくその時期が来たと書かれていた。 更に壊滅した新四軍が再編成されたことや、中国共産党革命軍事委員会の声明文書も同封されていた。 当該文書は、重慶には親日グループが暗躍し、中国を日独伊枢軸メンバーにしようとする動きがあると書かれていた。
この頃の米メディアは中国共産党を擁護するニュースを流すことには、ととえそれがスクープの色合いが強かったとしても、中所があった。 ストロングはそうした空気の中で、ようやくニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙へ記事掲載を実現させた。 中国共産党が準備した虚実の入り乱れた蒋介石批判の情報は、米国の政治家や国民に衝撃を与えた。
先にストロングが毛沢東とのインタビュー(一九四六年八月)を成功させたと書いた。この年六月の訪中は五回目であったが、中国共産党がもろ手を挙げて彼女を歓迎し、毛沢東とのインタビューを許したのは彼女の第五列としての『価値』を高く評価したからだった。
彼女がこの旅を終えたのは翌一九四七年初めのことであったが、「この地(中国)にいつまでも暮らしたい」と手紙に残していた。 中国共産党にぞっこんであったことが知れる。
一九四九年、中⒢句共産党へのあまりの肩入れをスターリンは警戒した。 彼女を米国政府のスパイとしてルビャンカ監獄に収監した。 この頃の彼女は、英字紙『モスクワ・ニューズ』の編集に携わっていた。 同紙の編集スタッフのほとんどが逮捕された。 彼女の上司ミハイル・ボロディンも逮捕されている。
ボロディンは、一九二〇年代半ばには、孫文の政治顧問として容共思想の孫文を操った人物だった。
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-4
に続く