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(1)千葉県なし生産の始まり
千葉県のなし栽培は約 230年前、市川市で始められたと推定されている。
・ 梨祖と仰がれた川上善六翁
千葉県の梨は、産地としてよく知られています。
この千葉県名産の梨を栽培して世に広めたのが八幡(市川市)の川上善六でした。
八幡の地域は市川砂州上にあって南は海、北は真間の入江跡の湿地が広がり、穀物の栽培などには余り適さない所だったようです。
そのため農民の暮らしは決して楽なものではなかったでょう。
こうした八幡の大芝原(八幡2・3丁目の一部)に生まれたのが善六さんで、それは寛保2年(1742)正月3日のことでした。
善六の家は祖父の代から、かなりの借財を抱えていましたが、子供のころから貧乏生活の中にあっても、よく祖父を助け父に仕えてきたそうです。
そうした中で彼は借財を返しこの苦しい生活から抜け出すには、今まで通りの生活では不可能であると悟りました。
何か新しく需要の多い、しかもこの地に適した産物はないかと考えたすえ、江戸に近いこの地で、江戸市民向けの梨栽培を思い立ったのです。それからの善六は寝食を忘れて梨栽培の研究に没頭しました。
そして、尾張・美濃(愛知県・岐阜県の一部)の地方で梨栽培が盛んであることを知った善六は、寛政年間(1789~1801)同地方を訪れました。
このとき栽培の状況を眼にした善六が最も喜んだのは、この土地が八幡と同じ砂地だったことでした。
それから数日滞在して、いろいろ調査をすると共に、尾張藩の許しを得て強壮な接穂を得て帰路につきました。
八幡に帰った善六は、その接穂を八幡宮の別当寺である法漸寺境内で接木をしました。
その後法漸寺の境内を2千坪を借りて梨園を開きました。
その数年後には立派な果実を付け、江戸の市場で高値で取引されるようになったのです。
善六は梨栽培の有利なことを自分だけのものとはせず、多くの農家にその方法を広めたため八幡を中心に梨栽培が盛んになり『八幡梨』として市場を賑わすようになりました。
善六は接穂の藩外持ち出しを許可してくれた尾張藩主に対し、梨の季節には毎年献上することを忘れなかったといいます。
彼は梨栽培の成功で祖父以来の借財を返済したばかりか、多大の財産を作りましたが決して奢り高ぶらず真面目で質素な生活をして世を送りました。
そうしたことから享和元年(1801)当時の代官は、善六の孝養と勤勉を称えて金千匹を与えてこれを賞したといいます。
善六69歳の時でした。
また、善六は子供のころから学問が好きで、仕事の合間を見ては読書にふけり、ました。
成人してからは漢学を学び、孟慶と号して熱心に村人に読み書きを教えたのです。
このため幕府からは村の篤志家として苗字帯刀を許されましたが、文政12年8月9日87歳でこの世を去りました。
彼が広めた梨栽培は江戸名所図会に「梨園、真間より八幡へ行く道の間にあり、2月の花盛りは雪を欺くに似たり、李太白の詩に梨花白雪香と賦したるも諾なりかし」とあります。
また、文化・文政頃(1804~30)には、市川の渡しから船橋まで三里余の沿道すべて梨の樹を植えて栽培に当たりました。
百四、五0坪の梨園でも、年に百二、三0金の生産をあげたといわれています。
当時、武蔵の六郷河原(多摩川河口)から川崎、鶴見、生麦、子安辺りまでの沿道で作り出している梨は、往来の旅客に売り捌いているだけで、下総の葛飾郡に比べるとほんの一握りの生産にしか過ぎない。江戸の近辺では下総を第一とし、その品種の中でも水梨・淡雪など最も上品で、この土地の名産になったといっています。
江戸時代の末には市川産の梨が日に3千籠も江戸に出荷されていました。
大正4年(1915)川上善六の遺徳を偲んで、かれを梨祖と仰ぐ有志によって『川上翁遺徳碑』が八幡梨発祥の地である葛飾八幡宮境内に建てられました。
その後、東葛飾地域の気候及び土壌条件がなし栽培に非常に適しており、消費地である江戸が近く、出荷に有利であったことから、急速に広まった。