「自ら其の睫を見る能わず」
という中国の法家・韓非の言葉があります。 (『韓非子』観行篇)
意味はというと、
「100歩先にいる人の髪の毛先まで見ることができる者でも、自分の睫を見ることはできない」
転じて、
「人の欠点は見えやすいけど、自分の欠点は見えにくい」
になります。
相手の欠点には、それがどんなに些細なものであっても過敏に反応する。
けれど、その欠点は、自分の中にある欠点と、同様の場合が多々あったりします。
自分の外側には眼が届いても、自分の内側には総じて無頓着なもの。
その欠点に対する非難は、自分の内側を外側と同じくらい見つめることができれば、自然と自分に向かうのですが…そうはなかなかいかないものです。
自分の欠点が見えないということは、必然的に「自分は正しい」という思い込みが、相手に対する評価の根底に潜んでいるような気もしてきます。
自分を棚上げして、相手の欠点を見つけては、鬼の首を取ったかのように非難し、相手を一刀両断してるけど、本当はその刀の切っ先を、自分に向けるのが仏教の智慧なんじゃないだろうかと思ったりしています。
そうして自分の有り様を知ることができる…気づかされるのだと思います。
誰もが皆、自身を棚上げした錆び付いた刀を振り回しています。
そして、自分で自分を斬りつけなくても、自分が誰かを非難するように、私もまた、常に誰かに一刀両断されていることに気づきます。
鬼の首を並べる虚しさと、その首の中に自分がいるという苦しみ。
そういうことに気づくことで、相手を思う気持ちとかが、変わることもあるのではないでしょうか。
なんて、偉そうに書いてるけど、こうして先人の言葉に諌められないと、自分の睫の存在も、鬼の首にも気づけないことに気づかないのでしょうね。
というわけで、今日は節分なので、ちょっとだけ鬼の出てくるお話でした。