昨日の夕飯はカレー。
手間ひまを惜しんだカレーを作りました(笑)
時間と心に余裕があれば、玉ねぎを飴色になるまで炒めたり、人参とリンゴの摩り下ろしを入れたり、ジャガイモを潰して片栗粉と混ぜ、中にチーズを入れ丸めて焼き揚げにしたイモ餅を入れたりするのですが…。
昨日は時間はあっても、心に余裕がなかったので、具を炒めてルーをドボンで終了。
副住職はカレーが大好きではありますが、味の違いが分かるこだわり派ではないので問題なし!
さて、そんな副住職のために、カレーは圧力鍋の寸胴でルー1箱分を作ります。
1日1食で、3日くらいかけて食べますが、結婚するまで1食で食べ切れる量しか作らなかった私には、カレーは互いの食生活の違いを象徴する食べ物の一つとなりました。
昔では考えられなかったほど大きなお鍋で作るカレー。
グツグツ煮える中から、1匙すくって味見をするとき、いつも思い出すのが統計の話。
数十人から数千人を対象にしてアンケートをとり、統計を取る。
ニュース番組や情報番組などで、その結果を円グラフで表したボードをよく目にします。
けれど、外を出歩かないせいもあるのでしょうが、アンケートに答える機会がないので、テレビで公表されるアンケート結果の統計を見ても、なんだか他人事のように思えてしまいます。
それに、ほんの少しの人の意見をまとめて、それが日本人の総意と言われても、違和感を抱かずにはいられませんでした。
ところが、統計を料理の味見に例えて説明してくれた先生がいて、ようやく納得。
大きな鍋で作った料理を、全部食べなければ味が分からないということはない。
よくかき混ぜれば、1匙の味見でお鍋の中の全体の味が分かる。
統計とはそういうこと。
全員の意見を聞かなくても、多種多様な人たちの意見を聞くことで、全体像が見えてくる。
もっとも、よくかき混ぜられた意見かどうかは、統計者の匙加減にもよるのだが…とのこと。
人はカレーほどかき混ぜやすくはないので、多少の偏りはあるのでしょうが、それでも大きく外れることはないのが統計というものらしいです。
その結果に、自分を置けるか否かで、物事の捉え方も変わってくるのだと思うのですが…。
統計の原理は分かっても、第三者として一歩下がった立場から、上から目線で批評する自分がまだまだいるようです。
まぁ、あんまり考えてもカレーは美味しくならないので、今回はここら辺で。
ちなみに龍くんは、カレーじゃなくてハヤシライスです。
子供がいると、朝のテレビは教育テレビが定番になるものです。
私も小さい頃、見ていたはずの教育テレビの子ども番組ですが、今となってはウロ覚え。
かろうじて覚えているのは、『おかあさんといっしょ』の中の着ぐるみ人形劇で、じゃじゃまる・ぴっころ・ぽろりというキャラクターが登場する「にこにこぷん」くらいでしょうか。
さて、龍くんが生まれたことで、二十数年ぶりに教育テレビにチャンネルを合わせたのですが…初めて見たときは、なかなかのシュールっぷりに驚きました。
今では本当に子供向け番組かと疑いたくなるような言い回しに、大人の私がウケてます。
龍くんのお気に入りは、この3番組。
『みいつけた!』
『いないいないばあ』
『ピタゴラスイッチ』
このうち、『みいつけた!』と『ピタゴラスイッチ』は、鼻で笑ってしまうようなシュールな展開に、私も手を止めて見入っています。
『いないいないばあ』も、キャラクターがこぼす独り言が、大人の愚痴のような呟きで、子供向け番組でありながら、一緒に母親をも取り込む仕掛けが施されているようにも感じられます。
そんな中、私の気を最も引いたのは、『ピタゴラスイッチ』の中で流れていた曲。
≪おとうさんのうた≫ (実際はひらがなの歌詞ですが、読みやすく漢字変換しました)
お父さん お父さん ボクのお父さん
会社へ行くと 会社員
仕事をするとき 課長さん
食堂入ると お客さん
お父さん お父さん ボクのお父さん
歯医者に行くと 患者さん
歩いていると 通行人
お父さん お父さん ボクのお父さん
学校に行けば 生徒さん
電車に乗ると 通勤客
お父さん お父さん うちに帰ると
ボクのお父さん
皆さんは、この歌詞を読んで何を思われたでしょうか?
私は「これこそ【空】【無我】【無自性】だ!」と興奮しました。
以前、龍くんのために作った段ボールのおもちゃを紹介した際に、仏教の空思想について書いたことがありました。
【空】も【無我】も、「何もない」「からっぽ」と受け取られがちですが、そういうことではありません。
存在としては「ある」けれど、永遠不変の絶対的なものは存在し「ない」ということです。
段ボール箱は、遊ばれればオモチャだけれど、遊ばれなければ、ただの段ボール箱。
椅子だって、誰かが座れば椅子だけど、誰かが座面を使って勉強し始めたら机になる。
振り回せば凶器になって、壊れたら座れないから椅子の機能は失われる。
そして、机に腰掛ければ、それが椅子になる。
オモチャは、オモチャとして遊ばれている瞬間にのみ存在する。
椅子は、誰かが座っている瞬間にのみ存在する。
名前とは、その状況に即した瞬間、仮に名づけられたものでしかない。
そして、その名称通りの機能と物体が、永遠不変かつ絶対的に存在するということは有り得ない。
それが【空】であり、【無我】である。
ということを端的に歌っているのが、この≪おとうさんのうた≫というわけなのですが…。
この感動を分け合えるママ友募集中(笑)
友人のお坊さんから、自坊で発行している寺報が送られてきました。
彼の持つパソコンやネットに関する技術と知識には、足元どころか、次元の隔たりを感じるほど遠く及ばないので、いただく寺報にはいつも感服するばかりです。
しかし、感服するのは装丁だけではなく、内容もまた秀逸。
同じ書き手として、学ぶことが多く、有り難いご縁をいただいています。
さて、今回の寺報には、ダライラマ14世に並んで、平和活動に従事する世界的な仏教者ティク・ハン師が、東日本大震災に寄せたメッセージが紹介されていました。
今回の悲劇で亡くなった多くのかたのことを想うと、ある部分、あるかたちで我々自身も亡くなったのだと痛切に感じました。
人類の一部の苦しみは、全人類の苦しみです。
また、人類と地球はひとつの身体です。
そのひとつの身体の一部に何かが起きれば、全身にも起こります。
(※以下の文はメッセージを受けての私の文章なので、友人の寺報からの転載ではありません)
誰も一人で存在することはできません。
網の目のように、すべての存在が繋がり合っているからこそ、私たちは生きています。
一つの網の目が揺れれば、全体へと揺れは伝っていくもの。
その揺れに敏感か鈍感かは、それこそ人それぞれではありますが、ひとたび揺れに気づいたら、それが伝ってきた揺れであろうとも、自分の揺れに感じるはずです。
この度の震災は、網の目のみならず、現実においても経験したことのないほどの大きな揺れでした。
だからこそ、世界中の人々が網の目の揺れに気がつき、日本へと心を傾けてくださいました。
今もなお、多くの国々から、様々な支援が届いています。
そんな中、言葉の支援という形もあるのだと、私はベネゼエラの少女が日本のテレビカメラに向けて語ったメッセージを聞き思いました。
あなたの痛みは私の痛みです。
私はあなたと共にいます。
国内では、「頑張ってください」「応援しています」というメッセージが多数を占めています。
そのメッセージに力をもらう方もいらっしゃることでしょう。
しかし、すでに一生懸命頑張って、頑張って頑張って、頑張った末に、頑張れなくなった方だっていらっしゃると思います。
「頑張れ」という言葉は応援の言葉ではありますが、時に人を突き放し、時に孤独にさせる言葉にもなってしまいます。
けれど、思わずそう言ってしまうのが、私たち日本人なのでしょう。
ベネゼエラの少女は、私たちが当たり前のように「頑張れ」と言ってしまうのと同じくらい当たり前に、「あなたの痛みは私の痛み」と言いました。
同じ国で「頑張れ」と言われるより、遠くの国の痛みを共感してくれる言葉に温もりを感じるのは、寄り添われていると思えるのはなぜでしょう。
それはきっと少女が、人も地球も、すべてが一つの身体であり、その身体で自分が生きているということに気づいているからではないでしょうか。
一つの身体で、同じ命を生きているという実感から出た言葉は、何にも勝るメッセージとして、私の中で耀き続けています。
あなたの痛みが私の痛みとなり、あなたの喜びが私の喜びとなる。
ゆえに救わずにはおれないという阿弥陀如来の願いを思います。
寺報にて、友人はティク・ハン師のメッセージを受けて、そう続けました。
私はそれと同じ思いを、ベネゼエラの名もなき少女の言葉からいただきました。
以前、築地本願寺の周りに貼られていたポスターを紹介しました。
それらをデザイナーの心意気で無料配布しているサイト(復興支援ポスター配布サイト)があります。
目に留まったものをいくつか転載。
どのポスターも見やすいうえに、訴えかけるものがはっきりしています。
ただ、個人的に思ったことなのですが、主語を「日本」から「私」に変えなければ、なかなか行動に移せないようにも感じました。
【他人事】から【自分事】への転換。
計画停電がなくなって、気が緩んできている自分に気づき、反省です。
春は桃色の花が多く見られます。
この桃色と白のコントラストが、境内をより華やかに演出してくれています。
さて、私の大好きなこの花が咲く木、名前を【木瓜】といいます。
実が瓜に似ていて、木になる瓜で【木瓜】。
このまま【きうり】と読みたいところですが…、これを【ボケ】と読みます。
花言葉は、『先駆者』 『指導者』 『妖精の耀き』 などなど、ちょっと立派なイメージを抱かせるものばかりですが、名前が【ボケ】だと…どうも締まりが悪く思えるのは私だけでしょうか。
しかし、カリンの実と同じように、ボケの実にも喉に効く成分があり、漢方で調合されることもあるという、なかなかの優れものです。
大気汚染には強くない品種とのこと。
この花を愛でることのできる幸せを噛み締め、これからも美しく咲き誇ることのできる環境づくりを、私の生活の中から見直していかなければならない岐路に、今立っています。
ボケから「ボケっ」とツッコミを入れられないようにしなくては…。