この数ヶ月、考え続けていた原稿がボツになりました(泣)
せっかくなので、ここに載せておこうと思います。
誰の前にも訪れる死という現実と、愛しい存在との別れ。
「愛別離苦」という苦しみは、ときに死について考えることを私から遠ざけてしまいます。
しかし、その苦しみを感じられる存在と出会えたことを喜び、そして愛する存在と過ごすことのできる、この一瞬一瞬を迷うことなく大切に生きて欲しい・・・。
それが今、あなたと縁ある方が死をもって教えてくださっていることではないでしょうか。
仏教では、人が亡くなることを「往生する」と言います。
「往生」とは「往(ゆ)きて生まれる」ということです。
私たちは、どこで亡くなろうと、どのように亡くなろうと、ともに阿弥陀如来という仏さまが用意してくださった「お浄土」に往き生まれます。
そして、阿弥陀さまのはからいによって、誰もが分け隔てられることなく「仏」と成らせていただくのです。
お浄土とは、自他を超えた世界をいいます。
それは誰かの喜びが自分の喜びとなり、誰かの悲しみが自分の悲しみになる世界のことです。
仏と成るということは、その心をもって無常の世界に残してきた、つながりあうものたちの喜びや悲しみに、寄り添い続けていくということでもあります。
愛しい人とのお別れは、涙を流すだけでは癒されないかもしれません。
しかし、あなたの悲しみには必ず寄り添ってくださる仏さまがいらっしゃいます。
死ですべてが終わりになるのではありません。
あなたも私も、誰もがお浄土へと続いていく尊いいのちを生かされているのです。
阿弥陀さまは、どのようなときも決してあなたを一人にしません。
あなたに寄り添う阿弥陀さまのお話に、そして「死」によって気づかされる「つながり」に、心を傾けてはみませんか?
以上です。
そのうち、なんらかの形で使うことができたらいいなぁ。
とりあえず気持ちを切り替えて、次は寺報に取り掛かることにしましょう。
昨日は神奈川組の連続研修会(連研)でした。
そして私はというと、龍くんと境内をぶらぶらしながら、今月発行予定の寺報「最乗寺だより」の表紙に載せる写真を撮っていました。
昨年は1月には開花していた梅の花。
寺報の表紙も、枝垂れ梅の写真( ↓↓ )でした。
しかし今年は寒波の影響か、咲いていたのは駐車場の紅梅のたった2輪だけ。
うーん、なんか寂しい。
ちょっと表紙にはできそうになかったので、手当たり次第撮りまくっていたのですが、そこへチョコチョコと龍くんが入りこんで、ついでにチャチャも入れてきました。
龍 : 「ここのドア開けてよー」
私 : 「私だって生まれてこのかた、開いたとこ見たことないよー」
龍 : 「これで遊びたいー」
私 : 「そこは遊ぶとこじゃなーい! 手ってキレイキレイにして清めるとこだから!!」
・・・結局、ちゃんと撮れたんだか撮れていないんだか、分からないまま撮影会は終了。
モノクロにすると印象がガラリと変わるので、数打ち当たることを信じて編集することにします。
もっとも、中身は何にも書けてないんですけど・・・(汗)
今は違う原稿に追われているので、寺報に取り掛かれるのは週の半ば辺りからかな。
そして締め切りはというと・・・週末ですか!?
イヤイヤイヤイヤムリムリムリムリ(汗)
花粉の気になる季節になりました。
私もですが、龍くんもアレルギー反応が出ます。
去年の春は、晴れた日にお散歩したら、目が炎症を起こして充血してしまいました。
眼科で花粉のアレルギーと診断され、処方された目薬で症状はすぐに落ち着いたのですが、その後もたびたび炎症を起こして、眼科通いを余儀なくされました。
というわけで、細雪が降った昨日は、ある意味絶好のお散歩日和(笑)
日頃の運動不足を補うために、せっせとセンター北を歩き回りました。
しかし、やっぱり寒い。
風邪をひいてはいけないと、暖をとるために入ったのは「ベッカライ徳多朗」。
以前にも紹介した、行列のできるパン屋さんです。
(過去記事 →
http://blog.goo.ne.jp/saijoji/e/7b3eca9c21ae0ced978c4048460f8e84
イートインもできるので、龍くんと2人でコチラをいただきました。
「クランベリーのおやき」という、ほんわかと温かくて、ずっしりと重いパンでした。
中には、たっぷりのドライクランベリーとクリームチーズがどっさり入っています。
龍くんもモグモグ。
チーズがすっぱいと言っていましたが、ペロっと食べてしまいました。
本当は、新作の「いちごのミルククリーム」というパンがお目当てだったのですが、残念ながら焼き上がりの時間ではなかったようです。
でも、オープン当初に比べると、絶えない行列は変わりませんでしたが、すべてが売り切れてパンが一つも残ってないということはなくなったとのこと。
工房の職人さんを増やしたり、仕込みの時間を早めたりと、さまざまな努力と尽力の賜物ですね。
昨日も次々と焼き上がり、常時15種類以上のパンが陳列されていました。
最初の頃には考えられないほどの種類のパンを見て、いろいろ買い込んで食べたい衝動にかられたのですが、ここのパンは少々お高め・・・(汗)
それでも、比較的良心的なお値段で売られていた、大きめのぶどうパンを購入したので、そのパンを朝食にいただく楽しみができました♪
以前、ブログや寺報でもご紹介した福興念珠。
http://blog.goo.ne.jp/saijoji/e/f86ea9f8db7bd2189fe70eab2174387e
http://blog.goo.ne.jp/saijoji/e/4c7eafc01dd030d5208752cf55d12bc7
友人が始めたこの活動が、多くの人の心を動かし、少しずつ、でも確実に支援の輪を広げていっているようです。
“福興”願う念珠人気 日田市の昭和学園高 / 西日本新聞
(http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/287200)
更なるご縁の輪が広がることを祈念して・・・。
昨日はバレンタインデーでした。
そして今日は涅槃会(ねはんえ)です。
涅槃会とはお釈迦さまが入滅(亡くなること)された日のことで、寺院によっては法要を執り行ったりします。
ちなみに涅槃会の過去記事はコチラ→http://blog.goo.ne.jp/saijoji/d/20110215
さてさて、バレンタインに関しては、肯定的な考え方を持っていたり、否定的な考え方を持っていたり、どうでもいいやという考え方を持っていたりと、人によって様々だと思います。
お坊さんも同じで、統一的な見解は特にありません。
なんとなく否定的な立場をとる方のお話を多く聞いてきたようにも思いますが、それはキリスト教の聖人に関わるイベントであることが第一点に挙げられていました。
もっとも、日本のバレンタインはクリスマス同様、それらを一切無視する形で定着してきたので、お坊さんにとっては否定する場合の第一義にはなりますが、その意向が社会に反映されることはまずないでしょう。
そして次に言うことは、「お菓子メーカーの策略」であって、チョコを買うのは「踊らされている」。
大人になると、踊らされている自覚はあるんですよね。
でも、そうそう踊る機会はありませんし、踊っていることが楽しいっていうのも事実なのだと思います。
それに、日本の節句や祭りや法要は、単純に「ありがとう」とか「好き」という感情を表現するものはないような気がします。
秘められた意味とか、隠れた思いを察することが美徳であり、それが日本の文化の素晴らしいところと言われてしまえばそれまでですが、そういう中で感情がストレートに伝わるイベントは結構重要なように感じてきました。
ただ、これはあくまで私個人の見解なので、突き詰めれば「人それぞれ」でいいのだと思います。
バレンタインに苦い思い出がある方もいらっしゃるでしょうしね(笑)
更に個人的には、この時期になるとお菓子を作ってもいいんだというダイエッターにとっての免罪符をいただいています。
というわけで、今年はこちらを製作。
チョコレートプリンケーキ。
チョコプリンとスポンジの二層になっているケーキです。
ええ、もちろん涅槃会を祝してですよ(笑)