前回Berryz工房の「三億円少女」の事を書いた。書いたのだけれど、「作品としてはどうなんだ?」という事には触れていないような気がするのでもう少し書きます。
この作品のテーマは「時の流れと変わりゆく想い」であると思う訳です。昔ちょっとしたすれ違いで結ばれなかった二人(梨沙子と旅館の男)。しかし、想いはどこかに重く強くしまったまま、その偽白バイ警官梨沙子は生きていく。そして、男もずっと一人であの頃を引きずって生きていく。
実生活の中ではこのような悲哀、いや悲愛とも言えそうな恋愛はいくらでもある。本当はお互いが心から好きであっても結ばれないという事はある。
アイドルがそういう悲愛を演じるというのは、演者とファン、双方からの思い入れも持てる訳で、お互いが決して通じ合えない関係性の中で、どこまで、いつまで、想いを持ち続けていられるか?作り手側からの質問状のようにも思えました。
それを菅谷梨沙子が主役を演じた回をDVDとしてパッケージした事への意味。
憂いを帯びた梨沙子の表情が昭和と平成のどちらの女性をも映し出せていた事が、この舞台の大発見であります。彼女は表情で魅せられるアイドルであり演者でありました。
それに対して他のメンバーは普段我々が親しんでいるBerryz工房のキャラクターそのものであり、そのキャラクターを生かした配役がされ、その姿には昭和も平成もありません。たとえば、雅ちゃんは昭和の時代の登場人物でしたが、そんな時代背景はあまり見えず「夏焼雅」がそこにいました。おそらく監督から求められていたものも、夏焼雅を役柄に同化させる事であったのではないかとも思います。
あっ、カリンちゃんとななみんは昭和の女の子風でありました(苦笑)。
Berryz工房の舞台の強みは、このキャラクターの強さを舞台に生かせるという事でして、今までの舞台もあまりイメージを離れる事なく、Berryz工房がBerryz工房らしさを発揮するBerryz工房の舞台を作り上げていました。
今年の戦国自衛隊では、そのあたりからの脱却もテーマとしてあったのではないかと思います。そう考えれば、三億円少女はBerryz工房らしさ溢れる舞台の集大成であり、次のステップ、つまりキャラクターに依存しない役作りに向けたトレーニング(と言っては語弊があるけど)としてのレインボー主演でもあったのかもしれません。
そこが見所なのだとすれば、全員それぞれの主役回、あるいはせめて好きなメンバーの主役回を観なければ語れないのかもしれません。しかし、舞台としての本質はそこではなく、時間や立ち位置を超えた深く長い愛情を観る事が作り手からのメッセージであるような気もします。
勿論、推しの演じるキャラクターを楽しむだけでも良いけれど、物語に織り込まれたテーマについて考えながら、なぜこういうストーリーなのか?なぜこのメンバーがこの役を演じるのか?を考えながら観る事も出来る作品。それが三億円少女であるように思います。そして、その「推しの姿を楽しむ」と「物語とアイドルの関係性」のどちらも味わえるのが戦国自衛隊なのでしょう。
その「考える部分」は各自観た人の数だけ答えを用意してほしいと作り手が言っているようにも思える。それはアイドルの舞台として正しい在り方でもあります。だから、前回や今回私が書いた事と同じ意見は、一年前のベリヲタさんたちのブログには存在しないかもしれません。それでいいのです。感想もレインボーなのです。
人の気持ちは移ろいやすいもので、一年前に三億円少女を観て感動した人が今もBerryz工房を応援しているとは限らない。しかし、時間が駆け足で流れていく現代であっても、三億円事件のあった昭和の二人のような永く深い愛情は成立するはずだと、私はDVDを見終えて思うのでした。