
残雪の飯豊山が遠くに輝いて、広い圃場には代をかく人のトラクターが1台見えます。のどかな初夏の田植え風景です。

今はもう、散歩の途中で田植えの様子を見ることはなかなか出来ません。
それぞれの農家から委託されて米作をなさっている方は集落でほんの2~3軒しかありませんし、それに田植えは、大型の田植機で田植えをなさるご主人と、軽トラで農協から苗を運ぶ奥様の二人だけで田植えがどんどん進んでいくんです。だから、広い圃場にほんの2~3組だけの田植えが遠くに見えるだけの静かな風景なんです。
大正生まれのじじは今の田植えの静かな様子を見るたびに昔の大勢の人が村を挙げてする賑やかな田植えを懐かしく思ってしまうのです。

昔の田植えは苦しい作業でしたけど、村をあげての晴れやかなお祭りでもありました。
それぞれの農家では町になじみにしている奥様方と契約して毎年大勢の女の人に田植えを手伝ってもらっていました。
そして小学校では10日間ほど農繁休業といって学校が休みになり、それぞれの集落には臨時の託児所が開設されました。入学前の子供や小学校1.2年の子供は託児所に、小学校3年以上の子供は立派な労働力としてお家の方と一緒に田植えをするのです。広い圃場が田植えの人で埋まりました。
代掻きは馬でしました、その馬の鼻取り(馬の口に竿をつけてくまなく代掻き出来るよう馬をリードする)は小学校の子供がしました。そのほか苗運び、苗うち(水田に苗を投げて配る)こびる(休憩時のおやつやお茶)運びはは全部子供の仕事でした。
一家の人ひとりひとりがそれぞれに力を合わせて町から手伝いに来ている10数人の方と一緒に賑やかに田植えをしたのです。
こびるにはたくさんのご馳走やお茶が出ましたけど少しはお酒も出るんです。
ああ、今年もまたあの人はつぶれて畦で畦で寝ているなどと笑われている人も中にはいました。皆笑っていましたけど責める人はいないんです。古きよき時代というんでしょうね・・・

馬はそれぞれの家の労働の中心です。心の通い合う大事な家族です。「馬刺し」などをよろこんで食べる今の風習を知ったら当時の農民の方は腰を抜かすと思います。古い百姓出の私はけっして馬刺しは食べません。
当時の農村のそれぞれの家には、テレビも電話も洗濯機もましてや車などない貧しい暮らしでした。けど、皆さんの心はすごく明るかったように思います。

当時の運動会で応援を楽しむ人々です。
服装を見てください。地味でしょう。日傘は竹と油紙で作られたカラカサです。でも綺麗ですね。コウモリはお金持ちの持ち物なんですよ。
みんな貧しいけど、みんなの顔は自信にあふれて明るいです。

家の屋根はみな茅葺きです。道路は砂利道、でもけんけん遊びをする子供たちは元気です。
けんけん(片足ぶっつかりあいよろめいて両足のついたものが負け)
このモノクロ写真は昭和30年代(1955年)頃のものですけど、10年もたつとだいぶ豊かになりました。これは昭和40年代の写真です。

山田に補植するご夫婦の姿でしょうか。カエルが鳴いて、トンボが飛んで、水田にはオタマジャクシやドジョウやゲンゴロウ虫がいっぱいいました。この田んぼは今はたぶん休耕田になって雑草や雑木に覆われていると思います。大型耕作機械が入れない水田ですから。

渓流に魚を捕る子供たちです。大事な家のタンパク源でした。いまは農薬や放射能に汚染されて怖くて入れません。

買い物帰りのお孫さんとおばあさんでしょうか、なんか豊かで楽しそうです。今は家の柿は誰もとりません。みんな椋鳥の冬の餌になっています。

山の仕事に精出すお二人です。明るくたくましく自信と希望に満ちたお顔ですね。
そしていま、写真はお隣の隆ちゃんです。小学校の2年生です。

かっこいいヘルメット、自転車はギヤチェンジの変速機つきです。3人の元気な集落の友達といつもとばして遊んでいます。それぞれの家には2~3台の乗用車があって生活はみな豊かです。
でも今年は集落から小学校に入学する子供は一人もいないと聞いています。
静かな田植えの農村集落がなんだか寂しくなります。かつて7校あった小学校は2校になります。今は生徒も先生もいない大きな校舎が静まり返っています。

モノクロ写真は会津の100年から、昭和40年代のカラー写真はあつしおかのうの四季からおかりしました。