会津坂下町から船渡(ふなと)片門(かたかど)を通って束松(たばねまつ)に行く坂道の右に鎮守様でしょうか神社があってその前の道脇に木製の頑丈な小さなほこらがあって前の戸はがっちりした格子戸で鍵がかかっていて開けることは出来ませんでしたけど格子戸の隙間から中を覗くとこんな立派な石像が安置されていました。

三面四臂の憤怒像、合掌している中央のおもてには小さな馬のかしらが乗っています。馬頭観世音、馬の守護神なんでしょうね。こんな素晴らしい馬頭観音の石像を見たのは初めてでした。
昭和前期頃までは馬は農家にとって絶対に必要な家畜でした。物資の運搬、田畑の耕耘、それに馬が踏む馬小屋の藁や草は馬の糞尿が混じっていて堆肥にするととてもいい肥料になるのでした。
私の古里奥会津は豪雪地帯で農家は曲がり屋になっていました。母屋の棟に馬小屋とトイレがついた棟がL字型になってついているんです。一般の農家の母屋は日常囲炉裏を囲んで生活する居間と、一段高くなってはれの日や改まったお客さんがおいでになったときなどにつかう畳の間と、その奥に座敷や仏間の隣の寝室(二部屋くらい)の間とがありました。
馬小屋とトイレの棟は一番下の日常家族が生活する居間にL字型に接続していました。ですから馬小屋の棟の板戸を開けると馬の姿が見えるのです。取り入れが終わったはれの日などに餅を臼でつくときふかしあがった餅米を臼にあけ餅をつき始める前に一握りの餅米を馬にあげるのです。家族と馬が同じものを一緒に食べるのです。
家の主人が馬小屋を通って外出するときなどは馬は「どこへいくの」と言う顔で主人を見送り、帰ってくる気配を感じると「ひひーん」といなないて前足で土をかくのです。
馬は農耕に必要な家畜だけでなく農家のだいじな家族の一員なんですよ。そういう馬の守護神にはどうもこの三面四臂の憤怒像はに似合しくないような気がしてなりません。集落のあちこちにみれるこんな馬頭観音の碑が農家の馬の守護神が適当なように思うのです。

ですからこの会津と越後を結ぶ重要な越後街道の脇にある三面四臂の憤怒像はこの街道にふさわしいなんか別の意味、別な物語があるんではなかろうかと私は思っているんですよ。

三面四臂の憤怒像、合掌している中央のおもてには小さな馬のかしらが乗っています。馬頭観世音、馬の守護神なんでしょうね。こんな素晴らしい馬頭観音の石像を見たのは初めてでした。
昭和前期頃までは馬は農家にとって絶対に必要な家畜でした。物資の運搬、田畑の耕耘、それに馬が踏む馬小屋の藁や草は馬の糞尿が混じっていて堆肥にするととてもいい肥料になるのでした。
私の古里奥会津は豪雪地帯で農家は曲がり屋になっていました。母屋の棟に馬小屋とトイレがついた棟がL字型になってついているんです。一般の農家の母屋は日常囲炉裏を囲んで生活する居間と、一段高くなってはれの日や改まったお客さんがおいでになったときなどにつかう畳の間と、その奥に座敷や仏間の隣の寝室(二部屋くらい)の間とがありました。
馬小屋とトイレの棟は一番下の日常家族が生活する居間にL字型に接続していました。ですから馬小屋の棟の板戸を開けると馬の姿が見えるのです。取り入れが終わったはれの日などに餅を臼でつくときふかしあがった餅米を臼にあけ餅をつき始める前に一握りの餅米を馬にあげるのです。家族と馬が同じものを一緒に食べるのです。
家の主人が馬小屋を通って外出するときなどは馬は「どこへいくの」と言う顔で主人を見送り、帰ってくる気配を感じると「ひひーん」といなないて前足で土をかくのです。
馬は農耕に必要な家畜だけでなく農家のだいじな家族の一員なんですよ。そういう馬の守護神にはどうもこの三面四臂の憤怒像はに似合しくないような気がしてなりません。集落のあちこちにみれるこんな馬頭観音の碑が農家の馬の守護神が適当なように思うのです。

ですからこの会津と越後を結ぶ重要な越後街道の脇にある三面四臂の憤怒像はこの街道にふさわしいなんか別の意味、別な物語があるんではなかろうかと私は思っているんですよ。