とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」821 三味線姉妹(こまどり姉妹)

2025-02-14 23:00:47 | 日記
ああ、生き返る。お姉さん、三味線、裏町、おなじみさん。私もおなじみさんになってみたい。私が中学時代だったかな。いや、小学校だったかな。ほれぼれ。うん、ぞっこんでした。

三味線姉妹(こまどり姉妹)


経歴
生い立ち
1938年(昭和13年)2月16日、北海道厚岸郡厚岸町で炭鉱労働者をしている父親のもとに一卵性双生児として生まれた。家族は、その後樺太へ渡り、第二次世界大戦の敗戦まで樺太で育つ。

第二次世界大戦後は、極貧生活の中、厚岸町や釧路市の炭坑町を転々とし、銭函でついに家賃が払えなくなり夜逃げ。釧路市大楽毛に移り住み、ここで姉妹は日銭を稼ぐために門付を始めた。

デビュー
1951年(昭和26年)上京。東京都山谷の木賃宿に住み、父親に連れられ、三味線を片手に台東区浅草の飲食街を流すようになる。その頃スカウトを受け、1959年(昭和34年)、コロムビアに入社し「浅草姉妹」でデビュー。デビュー曲は当初「三味線姉妹」になるはずだったが、2人の声と歌い方に合うという理由で「浅草姉妹」に変更された[1]。なお「浅草姉妹」は本来村田英雄のために書いた曲で、歌詞の主人公を男性から女性に変更した上で姉妹のデビュー曲となった[1]。またデビュー当時の芸名は「並木姉妹」[1](レコードジャケットでの表記は「並木栄子 並木葉子」)だったがまもなく新たな芸名を一般公募、2人の意思で「こまどり姉妹」という名が選ばれた。

愛称は「演歌版ザ・ピーナッツ」。同じ双子のザ・ピーナッツとの交流は歌謡ジャンルが違っていたものの公私共に盛んであった。1960年(昭和35年)には、ザ・ピーナッツが「こまどりジョッキー」という番組の構成、出演を行っている。ただし、こまどり姉妹の方がザ・ピーナッツより3歳上である。

なお、デビュー直後の地方公演のステージでグループサウンズ全勢前のジャッキー吉川とブルーコメッツがバックバンドを務めていた。

人気絶頂
全国的な人気を得て、1961年(昭和36年)、NHK紅白歌合戦に初出場。ザ・ピーナッツに次いで紅白史上2組目の兄弟・姉妹での出場となった。紅白歌合戦にはこの年から7年連続で出場している(詳細は下記参照)。ビクターのピーナッツ、コロムビアのこまどり姉妹という双子デュオの全盛を目の当たりにした東芝音楽工業はこのころ1歳違いの姉妹歌手「かなりや姉妹」をデビューさせている[2]。

人気絶頂の1966年(昭和41年)5月8日、鳥取県倉吉市で公演中に突然、18歳の男が舞台に駆け上り、葉子を刃物で刺した。この男は、栄子のファンで、結婚を望んでいたが応じてもらえなかったので、無理心中を図ったというものであったが、刺されたのは葉子だった。葉子は腹部を刺され重傷を負ったが一命を取り止め、しばらくして舞台に復帰した。

一時引退
しかし、その後の父母の死、葉子のガン、葉子の大怪我、栄子の交通事故、ブレーンの脱税問題などの不幸が続き、大きな借金を抱えたまま1973年(昭和48年)に一時芸能界から離れた。 この間、1974年3月11日に栄子は出産している[3]。

活動再開
その後1976年(昭和51年)に「思い出のメロディー」へ出演、時折懐メロ番組出演するなど徐々に活動を再開させ、1984年(昭和59年)、久々の新曲「浪花節だよ人生は」で再スタートを切った。

2008年(平成20年)には第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。2009年(平成21年)には片岡英子監督によるドキュメンタリー映画『こまどり姉妹がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開された。2013年(平成25年)12月31日、「第46回年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)に出演。2014年(平成26年)3月19日にはデビュー55周年を記念し、デビュー10周年時のアルバム『こまどり物語』を復刻、同時に18年ぶりの新曲『こまどりのラーメン渡り鳥』をリリース[4]。

現在
2015年(平成27年)7月17日の「爆報! THE フライデー」(TBSテレビ)では齢80を越えた初代コロムビア・ローズと鎌倉で葉山牛を堪能している模様が放送された。その後も現役の歌手として芸能活動を続けており[5]、2019年(令和元年)にはデビュー60周年を迎えた。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」820 柳家金語楼  ー柳家金語楼芸の問わず語りー

2025-02-12 17:12:01 | 日記
何度聞いても涙が止まらないほど可笑しい。天性の笑い袋を秘めている達人。私は落語というとこの方を思い出します。笑いが少なくなった昨今、心底笑える噺家ですね。落ち込んだときこのかおを見ると、命の力が溢れてきます。

柳家金語楼  ー柳家金語楼芸の問わず語りー 1993/09/27 (1972/05/06)


初代柳家 金語楼(やなぎや きんごろう 1901年2月28日 - 1972年10月22日)は、喜劇俳優、落語家、落語作家・脚本家(筆名・有崎勉)、発明家、陶芸家。本名は山下 敬太郎(やました けいたろう)。落語家時代の出囃子は『琉球節』。禿頭を売り物にし、エノケン、ロッパと並ぶ三大喜劇人として知られた。戦前は主に吉本興業(東京吉本)に所属し、戦後は自ら「金星プロ」を立ち上げた。旧字体による芸名表記は柳家金語樓。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」819(中原理恵) 東京ららばい 1978

2025-01-26 18:39:14 | 日記
昭和懐かし。という印象を先ず感じました。歯切れのいいリズム。歌詞も弾けています。高齢者にとって涙なしでは聞くことができません。ありがとうございます。中原理恵さん。

(中原理恵) 東京ららばい 1978


中原 理恵

本名 目加田 貴美恵
生年月日 1958年6月17日
出生地 北海道函館市

身長 160 cm
血液型 O型
職業 歌手、タレント、司会者
活動期間 1978年 - 2000年代

主な作品
歌手としての代表曲
東京ららばい
代表されるテレビ番組
欽ドン!良い子悪い子普通の子
ミュージックステーション(初代司会)

出演映画
男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎
備考
1980年代、欽ちゃんファミリーの一員として活躍。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」(番外) いきものがかり 『風が吹いている』Music Video

2025-01-17 16:05:10 | 日記
いや、隠れた名曲ですね。いきものがかり。そう言えば私もそんな係をしたことがあるような。ウサギだったかな。濡れた草は体を壊すとか聞いていたので乾いた草を選んで食べさせていました。また子供を産んだら人間は見てはいけないとも聞いていました。見たら母親は子どもを殺してしまうとか。当時驚きました。そんな思い出がふと頭を過ります。この曲を聴いていると風が吹くという自然現象が普遍的な世界を現出させてくれます。風が吹く。自然のマジック。

いきものがかり 『風が吹いている』Music Video


概要

いきものがかり

小学校時代からの同級生であった水野良樹と山下穂尊が、1999年(平成11年)2月に男性2人組アマチュアバンドを結成。同年11月に2人の同級生の妹である吉岡聖恵がボーカルとして加わることになり、男女3人組となった。

バンド名は、結成した際の水野と山下の唯一の共通点が小学1年生時代の係活動において、金魚に餌をあげる「生き物係」であったことに由来しており、その共通点を思い出した山下が提案して決まったものである。当初「いきものがかり」は仮称で、吉岡の加入を契機にバンド名の変更が検討されたが、吉岡が「いきものがかり」を気に入ったことから変更されずに現在に至っている。

2003年8月25日にアルバム『誠に僭越ながらファーストアルバムを拵えました…』でインディーズデビューし、2006年3月15日にシングル「SAKURA」で、エピックレコードジャパンからメジャーデビューを果たした。2009年のNHK全国学校音楽コンクール中学生の部課題曲の「YELL」や、2010年度上半期のNHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の主題歌「ありがとう」がヒットし、幅広い年齢層の支持を獲得。オリコンの「音楽ファン2万人が選ぶ 好きなアーティストランキング」で2010年から4年連続で2位となった。NHK紅白歌合戦には2008年から9年連続で出場している。2016年にメジャーデビュー10周年を迎えたのを区切りとして、翌2017年の1月5日に活動休止(メンバーは「放牧」と表現)をし[9]、2018年11月3日より活動再開(メンバーは「集牧」と表現)をした[10]。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」(番外) 雨の木次線 永井みゆき

2025-01-04 19:25:06 | 日記
JR木次線を応援します。永井みゆきさん、ありがとうござます。おかあさんが出雲のご出身、嬉しいですね。

雨の木次線 永井みゆき_20140423 ※後半はインタビュー


永井 みゆき
生誕 1975年9月22日
出身地 日本の旗 日本・大阪府岸和田市
学歴 堀越高等学校卒業
法政大学中退
ジャンル 演歌
活動期間 1992年 -
レーベル Sony Records
(1992年 - 2000年)
テイチクエンタテインメント
(2001年 - )
事務所 オールラウンド
共同作業者 たかたかし
公式サイト 永井みゆき 株式会社オールラウンド オフィシャルサイト (Wikipedia)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

木次線(きすきせん)は、島根県松江市の宍道駅から広島県庄原市の備後落合駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

概要
木次駅と宍道駅を結んだ簸上鉄道(ひかみてつどう)によって開業し、後に鉄道省によって南方に延伸されて芸備線と接続し、芸備線と共に陰陽連絡路線の一つとして機能していた路線である。1950年代から1990年までは広島・松江へ直通する急行「ちどり」などの優等列車が運転されていたが、山陽新幹線の開業と伯備線の電化に伴う旅客の流れの変化に加え、道路整備の進展と自家用車の普及(モータリゼーション)・高速バスの隆盛にも押されて、1990年代以降は陰陽連絡線としての役割は失われた。

JR西日本の他のローカル線と同様に、保守点検の合理化を目的とした25 - 30km/hの速度制限箇所が多数あり、軽便鉄道並みの運用となっている。

2013年度(平成25年度)の輸送密度(平均通過人員)は245人/日である[2]。本来ならば1980年代初頭の「第2次特定地方交通線」(輸送密度500人/日以上2000人/日未満)に指定され、廃止対象となる予定であったが、当時「沿線道路が未整備である」として対象から除外された。

中国統括本部直轄(沿線の地域対応は山陰支社が担当)の宍道駅と備後落合駅(沿線の地域対応は広島支社が担当)を除くと、路線の運行と営業は木次鉄道部が、沿線の地域対応は広島県に属する油木駅のみ広島支社が、島根県に属するその他の区間は山陰支社が担当している。

2016年2月4日、米子支社によってラインカラー、路線記号の導入が発表され、同月中より順次導入されている。ラインカラーは「沿線の紅葉の色」をイメージする山吹色(■)、記号は E [3]である。

2018年に三江線が廃止されたため、島根県と広島県を結ぶ唯一の鉄道路線となった。