とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」(番外) いきものがかり 『風が吹いている』Music Video

2025-01-17 16:05:10 | 日記
いや、隠れた名曲ですね。いきものがかり。そう言えば私もそんな係をしたことがあるような。ウサギだったかな。濡れた草は体を壊すとか聞いていたので乾いた草を選んで食べさせていました。また子供を産んだら人間は見てはいけないとも聞いていました。見たら母親は子どもを殺してしまうとか。当時驚きました。そんな思い出がふと頭を過ります。この曲を聴いていると風が吹くという自然現象が普遍的な世界を現出させてくれます。風が吹く。自然のマジック。

いきものがかり 『風が吹いている』Music Video


概要

いきものがかり

小学校時代からの同級生であった水野良樹と山下穂尊が、1999年(平成11年)2月に男性2人組アマチュアバンドを結成。同年11月に2人の同級生の妹である吉岡聖恵がボーカルとして加わることになり、男女3人組となった。

バンド名は、結成した際の水野と山下の唯一の共通点が小学1年生時代の係活動において、金魚に餌をあげる「生き物係」であったことに由来しており、その共通点を思い出した山下が提案して決まったものである。当初「いきものがかり」は仮称で、吉岡の加入を契機にバンド名の変更が検討されたが、吉岡が「いきものがかり」を気に入ったことから変更されずに現在に至っている。

2003年8月25日にアルバム『誠に僭越ながらファーストアルバムを拵えました…』でインディーズデビューし、2006年3月15日にシングル「SAKURA」で、エピックレコードジャパンからメジャーデビューを果たした。2009年のNHK全国学校音楽コンクール中学生の部課題曲の「YELL」や、2010年度上半期のNHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の主題歌「ありがとう」がヒットし、幅広い年齢層の支持を獲得。オリコンの「音楽ファン2万人が選ぶ 好きなアーティストランキング」で2010年から4年連続で2位となった。NHK紅白歌合戦には2008年から9年連続で出場している。2016年にメジャーデビュー10周年を迎えたのを区切りとして、翌2017年の1月5日に活動休止(メンバーは「放牧」と表現)をし[9]、2018年11月3日より活動再開(メンバーは「集牧」と表現)をした[10]。(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」(番外) 雨の木次線 永井みゆき

2025-01-04 19:25:06 | 日記
JR木次線を応援します。永井みゆきさん、ありがとうござます。おかあさんが出雲のご出身、嬉しいですね。

雨の木次線 永井みゆき_20140423 ※後半はインタビュー


永井 みゆき
生誕 1975年9月22日
出身地 日本の旗 日本・大阪府岸和田市
学歴 堀越高等学校卒業
法政大学中退
ジャンル 演歌
活動期間 1992年 -
レーベル Sony Records
(1992年 - 2000年)
テイチクエンタテインメント
(2001年 - )
事務所 オールラウンド
共同作業者 たかたかし
公式サイト 永井みゆき 株式会社オールラウンド オフィシャルサイト (Wikipedia)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

木次線(きすきせん)は、島根県松江市の宍道駅から広島県庄原市の備後落合駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

概要
木次駅と宍道駅を結んだ簸上鉄道(ひかみてつどう)によって開業し、後に鉄道省によって南方に延伸されて芸備線と接続し、芸備線と共に陰陽連絡路線の一つとして機能していた路線である。1950年代から1990年までは広島・松江へ直通する急行「ちどり」などの優等列車が運転されていたが、山陽新幹線の開業と伯備線の電化に伴う旅客の流れの変化に加え、道路整備の進展と自家用車の普及(モータリゼーション)・高速バスの隆盛にも押されて、1990年代以降は陰陽連絡線としての役割は失われた。

JR西日本の他のローカル線と同様に、保守点検の合理化を目的とした25 - 30km/hの速度制限箇所が多数あり、軽便鉄道並みの運用となっている。

2013年度(平成25年度)の輸送密度(平均通過人員)は245人/日である[2]。本来ならば1980年代初頭の「第2次特定地方交通線」(輸送密度500人/日以上2000人/日未満)に指定され、廃止対象となる予定であったが、当時「沿線道路が未整備である」として対象から除外された。

中国統括本部直轄(沿線の地域対応は山陰支社が担当)の宍道駅と備後落合駅(沿線の地域対応は広島支社が担当)を除くと、路線の運行と営業は木次鉄道部が、沿線の地域対応は広島県に属する油木駅のみ広島支社が、島根県に属するその他の区間は山陰支社が担当している。

2016年2月4日、米子支社によってラインカラー、路線記号の導入が発表され、同月中より順次導入されている。ラインカラーは「沿線の紅葉の色」をイメージする山吹色(■)、記号は E [3]である。

2018年に三江線が廃止されたため、島根県と広島県を結ぶ唯一の鉄道路線となった。


あちこち「SYOWA」(番外) 1985-1995 中山美穂CM集

2024-12-11 17:30:49 | 日記
私は中山さんの「タン塩」のCMを突然思い出しました。お亡くなりになったというニュースを知った直後です。
突然の知らせ。コンサートを予定していたとか。病気ではない。えっ、そんなところで。恐ろしい出来事だ。
フアンの一人としてできることは、映像をアップすることしか。謹んでお悔やみ申し上げます。

1985-1995 中山美穂CM集


中山 美穂
別名義 北山 瑞穂、一咲
生年月日 1970年3月1日
没年月日 2024年12月6日(54歳没)
出身地 日本の旗 東京都小金井市
死没地 日本の旗 東京都渋谷区
国籍 日本の旗 日本
身長 158 cm
血液型 O型
職業 女優、歌手、 アイドル
ジャンル 女優:映画、テレビドラマ、舞台
歌手:アイドル歌謡曲、J-POP
活動期間 1982年 - 1984年:モデル
1985年 - 2024年:女優、歌手、タレント
配偶者 辻仁成(2002年 - 2014年)
著名な家族 中山忍(妹)
事務所 ボックスコーポレーション(1982年 - 1984年)
アイズ/ウェーブ(1984年 - 1985年)
ビッグアップル(1985年 - 2024年) (Wikipediaより)



あちこち「SYOWA」818【雨音はショパンの調べ】小林麻美

2024-12-02 17:56:42 | 日記
【雨音はショパンの調べ】小林麻美


イタリアの男性歌手ガゼボの歌唱による1983年の楽曲「アイ・ライク・ショパン / I Like Chopin」「雨音はショパンの調べ」は日本語カバー曲のタイトル。
小林麻美によるカバーとして1984年4月21日にCBS・ソニーから発売された。

作詞:Gazebo, P. L. Giombini 日本語詞: 松任谷由実
作曲:Gazebo, P. L. Giombini

ばやし あさみ
小林 麻美
本名 田邊 稔子(たなべ としこ)
(旧姓:小林)
生年月日 1953年11月29日
出生地 日本の旗 日本、東京都大田区
出身地 日本の旗 日本、福島県郡山市
職業 モデル・元女優・元歌手
ジャンル テレビドラマ、映画
活動期間 1970年 - 1991年、2016年 -
活動内容 1970年:ライオンのCMに出演しデビュー
1971年:ドラマ『美人はいかが?』で女優デビュー
1972年:「初恋のメロディー」で歌手デビュー
1977年:資生堂を中心にモデルとして活動
1980年:映画『野獣死すべし』
1981年:映画『真夜中の招待状』
1984年:「雨音はショパンの調べ -I Like Chopin-」で歌手としてヒットを放つ (Wikipedia より)


あちこち「SYOWA」817 悲しい時はいつもMad 神風特別攻撃隊 

2024-11-04 16:41:08 | 日記
この笑顔はどうしたものか。国家のために死ぬ。戦死。いや、ただの戦死ではない。笑顔で死に赴いた少年兵士。だれが命令したのか。これは曖昧になっている。こういう覚悟を生んだ時代性を私は憎む。わたしは命令されても決して国家のために死にたくない。国家のために死ねといわれたら、逃亡するか自死するかもしれない。亡国者、弱虫といわれても。本当は自死する勇気も出ないかもしれない。ただ、そういう状況を作りだしてはならないのだ。時の指導者、為政者の言動、腹の内を常に観察していなければならない。S19年生まれとして常に覚悟していたい。
Wikipediaの解説は詳細かつ緻密である。ここでは最初の一部を引用した。

悲しい時はいつもMad 神風特別攻撃隊 「多くの若い命が散った作戦」


神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1][2][3][4]、しんぷうとくべつこうげきたい[5][6][7]、旧字体:神󠄀風特別攻擊隊󠄁)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[8]。攻撃目標は艦船[9]。略称は「神風」「神風特攻隊」[10]。隊名の発案者[注 1]・猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画[11]で訓読みの「かみかぜ」と読んだものが上映されたことでこれが定着した[7]。昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返した。

日本国内では戦後になって、軍が組織的に兵士(国民)に自爆攻撃を強いたことに対する批判がされてきたが[12]、アメリカ海軍を主力とする連合国海軍に多大な損害を与えたこともあって、米国戦略爆撃調査団から「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器」と評され[13]、アメリカ海軍大学校の教科書では「Kamikazeは人間が操縦する巡航ミサイルであり、精密攻撃の時代の海戦を予兆していた。」とも指摘されている[14]。(Wikipedia)